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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第9章『親友の思い』

 その日は、午後から雨が降り始めた。


 トシは、授業中にもかかわらず二階の窓際の席から校庭を見下ろしていた。雨はやがてドシャ降りになった。バケツをひっくり返したような、という表現がピッタリで、あちこちに水たまりができ始めたと思ったら、三〇分後くらいには校庭全体がプールのようになってしまった。彼は、たまった雨が泥水になって校門の傾斜を下って前面道路へと流れていく様子をじっと見つめていた。


 そうこうしているうちに、ようやく六時限目が終了した。カレンが横のほうから音も立てずにそっと席に近づいて来て、自分の顔色をうかがおうとしているのが分かった。


「トシ君。昼休みの件だけど」


 彼女は周囲を気にしながら、話しかけてきた。


「いいんだ。気にしなくて。僕が泣いたのは、みんなの気持ちがうれしかったんだ。うれし泣きだよ」


 釈明しながら、これ以上彼女に心配をかけまいと笑顔をつくろった。


「ラジオでリクエスト読まれたのね。スゴイじゃない。学校中で話題になっているみたい。今や有名人ね。不愉快な思いもしたかもしれないけれど、あの人たちのことなんか関係ないわ」


 彼女が自分を元気づけようとしているのが分かった。でも、彼は疑念を抱いていた。彼の前に、ぶ厚い壁が立ちふさがっているかのようだった。向こう側にカレンがいる。扉がひとつあった。でも、ノブをまわしてもカギがかかっていて開かない。扉を叩いた。何度も叩いてみた。扉を開けてくれるかどうか、心を開いてくれるかどうか、それは彼女しだいだ。彼のノックに、向こう側の彼女はどういう返事をしてくれるだろうか。


「関係なくはないよ。アイツらの誰か、野球部の上級生とつき合っているんだろ」ストレートに、怖い顔つきを作って自分の気持ちをぶつけてみた。こうなったら直球勝負だ。


「え、そんなの嘘よ。つき合ってなんかないわ」本当か。「トシ君、誰からそんな話を聞いたの。誤解しないで。一度、試合を観戦しに行っただけなんだから」。やっぱ誘いに乗ったんだ。「でもね、それでイヤになっちゃったの。だって、野球に打ち込んでいるわけじゃなく、単に、私を誘いたかっただけなんだもの。私を信じて」


 カレンは、信じてもらいたいと願った。


 野球部の連中には「彼と付き合っているの。だから手出しはしないで」と忠告をしておいた。彼女はトシの前で、少しの嘘と大体の事実をその場で繕った。良心の呵責というものを胸に留めながらも、とにかく今は、我慢の時期。そう自分に言い聞かせて。彼には悪いと思いながらも、自己防衛の本能が勝っていた。それでも、偽りのなかにもトシへの気持ちがしだいに膨らんでいくのが分かったから、それを打ち消すことも必要だった。むしろ、そちらのほうに傾きかけていること自体に内心で変だな、と感じつつ。


 例えば、手。優しい手。彼の手はそういう手だった。優しい手というものは、どういうものなのか。彼女には説明がつきにくかったけれど、そのときは、トシの手にぬくもりみたいなもの、体温みたいなもの、気持ちみたいなもの、を彼女は感じ取っていた。――――グッド・ヴァイブレーション。六〇年代のサンフランシスコ。若者たち――――ビートニクらがよく使った言葉だ。


 彼女にとってのあの悪夢の後、――――誰も知らない――――ネガティブな気持ちに悩まされている一方で、五感のすべてと六感の一部は以前よりも敏感になっているように思われた。


 カレンが自分の手を握ってきたので、トシは頭の中がポーッと熱くなった。彼のほうも何かを感じていた。ああ、この感覚、幼稚園のときと同じだ。輪になってお遊戯をしていて隣の女の子と手をつないだときの気持ち良さ。心臓の鼓動が蒸気機関車のような力強さで血流をドクドクと頭のほうへ押し上げているのが分かる。


「うん。信じるね」


 今までサッカーの練習のために彼女とデートができなかった。もちろん、それを言い訳にはしたくなかったけれど、野球部の連中と同じようにカレンを誘ってカッコいいところ見せようなどとしていたならば、愛想をつかれていたかもしれない。実際、いつも補欠でベンチウォーマーだから、かっこいいところなど見せられるはずがないことを知っていた。


 それでも、軽く返事をしてしまったようだ。もう少し粘って彼女の本心を探っても良かったかもしれない。でも、そのときの彼は、飼い主に頭を撫でられている子犬のような気分だった。


(同じ年の高校生くらいは、女の子のほうがずっと大人だよね)もうひとりの自分が頭の上でフムフムと納得している。


「そりゃ、恋愛経験などないけどさ、その自分と付き合おうというんだから別にいいじゃないか」


(そのうち、尻に敷かれるぞ)


「バカ!」子ども扱いされた仕返しに、トシはもうひとりの自分へ言い放った。


「えっ。私のこと?」


「あ、いや違う。自分のこと」


「トシ君ったら、ときどき変なんだから」


 カレンは、クスっと笑って続けた。「ねぇトシ君、もっと話しがしたいの。えーと、バドミントン部の練習が終わるまで待っていてくれないかしら。いっしょに帰りましょ」。彼女は、両手を合わせてお願いをしてきた。せめて野球部のことで心配をかけた償いをしなければ、とも考えていたけれど、何となく引きつけられる彼と、いろいろ話がしてみたいというのは、カレンの本音の部分だったかもしれない。

 

 そこへクラスメイトのカツが飛び込んできたから、さぁ大変だ。


 二宮勝彦。親友の間では彼のことをカツと呼んでいる。カーマニアでポルシェやカウンタックなどの模型を作ったり、国内レースをよくテレビ観戦していて車についてはかなり詳しい。


 彼の家の近所にプロ・レーサーが経営する車の修理工場があり、学校帰りにときどき立ち寄ってはいろいろ話を聞かせてもらっているという。そこで得た情報を得意気に話す。話し始めると鼻息が荒くなって、そのうちノートにイラストを書いて夢中になって説明し出す。話しながら彼が興奮しているのがよく分かる。彼が興奮したり緊張しているときは、声の調子がおかしくなる。


 まぁ、そこまではいい。自分だって、少しは車のことに興味があるから聞く耳を持っている。ところが、同じ話をクラスの女子にまで無理やり話そうとするから困るのだ。


(カツは『心のラジエター』を取り替える必要があるかもしれないな)


「車なんか興味ないもん」女子にそっぽを向かれると、カツは悲しそうな表情になる


(新品のワイパーも必要か)


拒絶した子を見つめ、黙ったまま唇の端をちょっと引きつらせるのだ。トシは、そんなときの彼がとても好きだった。男の哀愁というかな。ニヒルでオオカミが見せる笑みのような感じ。オオカミは、いつも孤独だ。いつか彼の話をちゃんと聞いてくれて、受け入れてくれる女の子が現れてくれたらいいのに。と切実に願いながらも、いつもクラスの女子から冷たくされるのであった。


 オオカミは言った。「トシ。彼女をいじめたら、だ、だ、ダメだよ。車はドライバーしだい。男はな、女の子しだいさ」


 冗談とも本気とも取れる口調で説教し始めた。たぶん、その台詞もメカニックの人からの請け負いだろう。事情を何も知らないカツは、トシが彼女に対して怒っている風に見えたのかもしれない。そこへ、もうひとりの親友である恵太も加わった。


「藤沢さんに優しくしてやれよ」


 親友とは言え、カレンとの仲をかき回されるのはイヤだった。でも、彼らを拒否するわけにはいかない。やっぱり親友だから。


「カツの言うとおりだぜ。(カレンに向かって)こいつのことヨロシクな。男は女の子しだい、さ」恵太まで変なことを言い始めた。


「そ、そうさ、と、と、トシはな、ぬ、藤沢さんしだいだよ」カツの引きつった話しぶり。彼の気持ちは彼女に上手に伝わっただろうか。


「うん。トシ君のこと好きだから」と、カレン。彼女がカツに向かって軽くウィンクしてみせると、彼はハッとして次の瞬間にはまた口元が引きつった。


 自分の気持ちをハッキリと言える女子は少ない。あの昼休みのときも同じだ。彼女のほうからトシに迫ってきた。そういう部分、物事に白黒をつけるというか、メリハリの効いた言動はいい意味でも悪い意味でもアメリカ人的だ。トシの解釈はそんなだった。自分にそういうものがあるかな、と考えた。――――彼女の色。彼女の道。彼女の国。


 彼女の反応を見て、恵太とカツはア然とした。


 あの昼休み以降、クラスメイトの間ではカレンとトシの仲は、少なからず噂になっていた。ある意味、周知の事実として親友らも知っている。が、彼女自身が公言するとは思わなかったのだろう。


 親友三人の関係は、正三角形のようにバランスが整っている。恵太とトシは、音楽好きで結ばれていたし、カツとトシはカーレースで、そして、恵太とカツはトシという存在でつながっている。そうした線は、いわばトシから見た側面でしかない。三人をいちばん強く結び付けていたのは、女子にはモテないという正三角形だった。自信を持って言えることはただひとつ。


 女子にモテない!


 ところが、カレンという存在が登場して、正三角形の友だち関係は二等辺三角形へと変化し始めていた。


 トシの場合、これまで恋愛経験がないばかりか(それは親友たちも知っていて)、普通は誰にも気づかれずに密かに付き合うのがいいと、それが当たり前だと勝手に信じ込んでいたし、別れてしまった後、正確に言えばフラれてしまった後のことを考えると、こっそり付き合ったほうがみんなから笑われて恥をかかずにすむし、そのほうが賢明だと考えていた。何より、失意のどん底へ落ちてしまわないように気をつけたかった。


 恋愛について、いちばん恐怖に感じていたのはそこの部分だ。


 今まで恋愛について積極的になれなかったのは、潜在意識というか脳裏の中にインプットされた危険信号のようなものが働いていたからなのかもしれない。恋愛について考えるときはいつも、彼の頭のなかはどんよりと曇っていた。


 だから、カレンのことを好きになって「付き合いだした」ことは、ある種、誤算だった。あこがれの存在として遠くから見守っているほうがどんなに気が楽だっただろう。いや、それはそれで胸がキュンとなるような気分(例えば、ほかの男の子と楽しそうに会話をしている様子を見ているとき)を味わっていたから、彼女のほうから迫ってきたときはこれ幸いと、もうひとりの自分がシャシャリ出てきたのもうなづける。それでも、頭のなかのモヤモヤは消えることはなかった。結局のところ、少しばかりのプライドと未経験の恐怖と先読みの心配性が、恋愛について彼を臆病にさせてきたのだ。それはそれでトシのなかでは理にかなったこととして認めてきたにもかかわらず、カレンのほうから半ば言い寄られた形で付き合いはじめて、なおかつ、「好き」と彼女の口から公言されてしまった今となっては、ただ開き直るしかなかった。


「今日はカレンといっしょに帰るんだ。またな」ある意味、優越感とでも言うか、自信ありげに親友を鋭い眼線であおった。


 彼は今、二等辺三角形の頂点に立っているのだ。「えっ」「お、驚いたぜ。ト、トシが、カレンって、よ、よ、呼び捨てにしたよ!」


 自分の声を飲み込んで窒息して倒れてしまうのではないかと思えるほど、カツは興奮していた。「僕たち、つき合っているんだ」。そのダメ押しで、もう二人の出番はなかった。恵太が彼の肩をポンと叩いた。カツの口元がピクッと動いた。あ、引きつっている! 黒色の学生カバンをぶら下げて恵太とカツが教室を出て行くまで、カレンとトシとで見送った。


 教室の扉が閉まり、彼らの姿が消えてからしばらくすると、「あー、彼女ほしいよー」「ほしいよー」


 廊下で二人ともターザンのように大声を張り上げていた。いや、オオカミの遠吠えか。彼らの声は、廊下ではよく響き渡った。それを聞いた彼女がトシの顔を見て微笑んだ。トシは小さな笑みとともに肩をすくめて見せた。


 彼女は思った。


 少なからず、これまでの経験から得たものがあるとすれば、それは、その人がいい人かどうかを見極めるのは、その人の親友を見るのがいちばんいいということ。野球部の連中と比べると少し子どもっぽい気はしたものの、トシの親友二人のほうが数段マシだわ、と感じたのだ。「いい人たち。親友ね」「うん。いいヤツらだよ」


 トシは考えた。


 普通ならば二人の関係を、おもしろおかしく、根掘り葉掘り、詮索したがるだろう。でも親友らは、その場から立ち去ることでカレンと自分に「がんばれよ」と励ましてくれたのかもしれない。暗黙の了解というか、ほとんど言葉を交わさずに、彼らの気持ちが伝わってくるのだった。


 そのときは、もはや恋愛についての迷いは一切なかった。頭のなかのもやもやは消えてなくなっていた。恋愛は女の子しだい。カツの言う通り。彼女は、自分にとって希望の光りだ。雨はいつか止む。止まない雨などない。やがて、雲の隙間からまぶしい光りがさすだろう。

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