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雨後の晴天

「お待ちください」


 凛とした声が石の床に反響すると、竜吉公主は心が和むような気がした。そっと意識を霧露乾坤網から外して声の主を探す。


 あまりにも奇妙に思われた。


 声の主は仙人かもしれないと危惧をした。登場が宝貝を使ったかのように唐突であったし、皇帝だけではなく西王母も同席しているこのような場所に普通の人間がいるはずもない。


 警戒心を針山のように尖らせた竜吉公主は視界の片隅に映る女性の姿を認めた。


 誰であろうか? 考える必要はなかった。その女性のことは知っていたからだ。現在の皇后である玉環であることを。




「いくつもの問題があったことは認めましょう」


 玉環は透き通る声で語りかけてくる。


「その通りだ。ここにいる林宗に兵権を返還させるよう皇帝に上奏して……」


 楊暄国が言葉を継ごうとするが、玉環は相手にせず、


「ですが、解決は難しくありません。全ては竜吉公主が政務を引き継げば丸く収まるのです。皆さん。心の中に思い浮かべてください。竜吉公主が宮廷にいた時に問題があったでしょうか。ええ、違います。今ある困難な局面は竜吉公主が無責任にも自分の為すべき仕事を放り出してしまったことに始まるのです。ですから、竜吉公主が怠惰に浸かることなく汗と知性を陛下に捧げれば万事上手くいくこと間違いないでしょう」


 と、話しかける。


 妙に説得ある口調に、竜吉公主の唇は歪みかける。間抜けな半開きにならないように腹筋に力を入れて口を閉じ、心の中で長い嘆息を吐く。


 一瞬、正しいことを主張しているかのよう。だが、前提条件が間違っている。竜吉公主が皇帝のために粉骨砕身する義務はない。


「皇帝よ。そなたは玉環と皇帝の位のどちらを選ぶのだ?」


 竜吉公主は意図的に尊大に尋ねるが、皇帝は何も気づかずに即答する。あまりにも悩まずに答えるその様に周囲の人物が呆気にとられているが、皇帝だけは無頓着だ。


「その望みは全てに優先するのじゃな」

「無論だ。だからこそ、国は竜吉公主が治めれば良いのだ」

「その言葉、違えないのじゃな」

「くどい」


 竜吉公主は皇帝の言質を得ると瞼を閉じる。一呼吸置いてから大きく目を見開く。


「林宗よ。そなたは兵権を陛下に返還し、帝都に移住するのじゃ」

「公主殿、小官は陛下の命で無ければ応えられぬ」

「執務はわらわに任されたのじゃな?」


 竜吉公主は楊戩の反論を瞬時に封殺する。


「無論だ。思う存分に采配を振るうが良い」


 皇帝の許可を得た竜吉公主は微笑みながら楊戩に話しかける。


「皇帝の意として命ずる。林宗は割符を速やかに帝都へ返却するのじゃ」

「しかし、小官の一存で決めるわけには……」


 楊戩は簡単に首を縦に振らない。それもそうだ。権力を全て放棄し、人質として帝都に住めと言われているに等しい。本人ならまだしも代理人である楊戩が簡単に決めることが出来る内容でもないし、ここで首肯したとしても当人に受け入れられるかも怪しい。だから竜吉公主は条件を付け加える。


「次の総管は貴官に決定権が与えられよう」


 これには楊戩も受け入れざるを得ない。家督を引き継がせ引退せよとの意味ではあるが、これ以上の条件をつければ力づくでも地位を奪われかねない。皇帝や楊暄国が兵を率いるのであれば抵抗する気にもなれるが、竜吉公主が軍を編成するのだ。直接、兵を率いることは無いだろうが、北洲と帝国の経済力の差が戦略差となって具現することは容易に想像できる。


「御意にございます」


 楊戩は頭を下げる。煙のないところに火をつけまわるのが趣味とも言われる彼ではあるが、約束を違えることは自らの名にかけて許すことが出来ない。依頼された調停を故意に決裂させることはしない。


「これで全ては解決じゃな」


 竜吉公主が視線で同意を求めると、一人だけ慌てふためいて彼女の足元にひれ伏しながら近づいてくる。


「公主様、我が身は、我が身は、今までと同じ宰相でよろしいのでございましょう」


 楊暄国の禿げた頭に生えている短く白い産毛が目につく。まるで、沢山の子蜘蛛が這っているような印象を受けて、反射的に顔を背ける。


「そうじゃな。そなたは、陛下の寝所を護る職ではどうじゃ」

「お待ちくだされ。宰相がどのような理由でそのような酷い目に合わされなければならぬのですか」

「酷い目じゃと?」

「そうです。どのような理由で宰相を辞せよとおっしゃれるのか?」

「愚か者!」


 竜吉公主に一喝されて、楊暄国は弾き飛ばされたかのように背後に倒れ込む。


「今までの貴公の不正蓄財を知らぬとでも思っているのか。それとも法の元の裁きに従いたいとでも申すつもりか」

「そのような、そのような」


 楊暄国は頭を床に擦りつけながら言葉を探していると、助け舟が横から入る。


「竜吉公主のやり方はあまりにも一方的でありませんこと? 今までの宰相が衛兵では可愛そうではありませんか。竜吉公主が政治を行うのであれば、どれほどの無能が宰相であろうと治まることでしょ。ならば兄上が宰相であったとしても何も問題はありませんこと」


 玉環が反論してくる。正面から取り合えば論ずるに値しない話であるが、皇帝は玉環の犬だ。黒いものも白く見えるに違いない。


「そなたは、政治が解るのか?」

「解りませんわ、そのようなこと。ですから、竜吉公主に任せようと言うのに」

「ならば、三年は黙っておれ」


 竜吉公主に譴責された玉環は瞳をくるくると動かす。今まで父親にだって叱られたことがないと言わんばかりだ。


「それに、そなたらが平穏に暮らすためには便利な小間使いがいた方が便利であろう。密かに過ごすためには口の固い者が必要なのじゃ」





「りゅー様、りゅー様、大変です。北洲で蝗が大量発生してかなりの損害が出ているみたいです」


 碧雲女が禁城の謁見の間に飛び込んでくる。


「そのことは大司徒に任せよと申したはずじゃ」

「解っています。でも、一日に一回はりゅー様にお会いしないとこんな激務に耐えられません。だって、二倍ですよ。赤雲女の分まで働いているんですから、これくらいの気休め位は許されますよ」

「ちょっとは落ち着くのじゃ」

「落ち着いている場合じゃないですよ。赤雲女は皇后になってのんびり良い生活を送っているのに、どうして私ばかり苦労しないといけないのですか。これでは黒国家です。黒国家滅びろ」

「そなたらが苦労して働くおかげで民は平穏に暮らせるのじゃ。そのことを常日頃心に思い描いておれば多少は気が休まぬか? それに、碧は变化の術を使えぬのだから仕方ないじゃろ」

「あのむっつりめ、楊戩様とちちくりちちくりして、本当に穢らわしい」

「そのような暇はないほど働かせているつもりじゃ。ま、夜は何をしているか知らぬがの」

「あああああぁあぁぁぁああ、で、でも、私にはりゅー様がいますから。全然、ちっとも、全くもって羨ましくはありません。皇帝の影武者なんて」


 竜吉公主は碧雲女が部屋から出ていくのを見送った後、机上に山積みにされた書類の束を一つずつ処理していく。流れるような作業で溜まっている業務を片付けていく。だが、竜吉公主の能力でも尽きることはない。


 気分転換をするために息苦しい部屋から出て庭に立つ。雨上がりの世界は新しく生まれ変わったかのように輝いている。新春の到来を感じさせる木々の芽吹きを眺めながら、昼下がりの一時を噛みしめる。冷気を含んだ風が蕭蕭と竜吉公主の長い髪を揺らす。見えるはずのない崑崙の方角を一瞥してから執務に戻るために踵を返した。




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