第8話 旅立ち――葦の茎と落とし穴
「水路に水が流れてる」
旅の準備を仕上げるために、ダーミアは水車小屋に戻ろうとしていた。その途中、水車小屋から続く水路にぶつかったところでそのことに気づいたのだった。
――昨日までは水車が止まっていたはずなり。とすると、誰かが直したということであるか?
それにしては復旧が早すぎる。本業の職人が修理したとしても、材料の手配や下ごしらえから部品交換、再取り付けなどに要する時間を考えたら、数日で収まるはずがなかった。
――どう頑張っても応急修理が精一杯なり。それとも油でも差したか……。
いずれにしろ止まっていた水車に、誰かの人手が加えられたに違いない。
それではうかつに水車小屋に近づくことはできなかった。
村人に見つかれば、今度こそ何をされるかわからない。
――森の中から様子を窺うべし。
回り道になるが、ダーミアは森に戻って身を隠しながら水車小屋に近づくことにした。
木立の中に身を潜め、しばらく小屋の様子を確かめたが、人気は感じられなかった。
ダーミアは慎重に小屋まで歩を進め、戸口からそっと中を覗いた。
「空っぽだ。ふう。人に見つかったらどうしようかと思ったよ。もうここには立ち寄らない方がいいな」
水車小屋に戻ったのはわずかに残していたロープや布切れなど、工作材料になりそうなものを回収するためだった。
手早く素材を集めて背中に背負うと、ダーミアは水車小屋の外に出た。
すると、水路の方から人の声が聞こえてきた。
(誰か来る! 隠れなくちゃ)
ダーミアは小屋の裏に回って小さくなった。
「やれやれ、やっと着いたか。畑の世話で忙しいってのによ。当番も大変だぜ」
「まったくだぁ。それもこれもあのガキのせいさぁ」
二人組の男たちがそれぞれ長い棒を手にして、水車小屋にやって来た。
――あのガキとは我らのことか。あの棒で我らを殴るつもりであるか?
男たちは小屋に着くと、きょろきょろと辺りを見回した。
「ダーミアだって馬鹿じゃねぇ。明るいうちからこんなところに寄りつくもんかよ」
「だよなぁ。さっさと水車に油をくれて一休みしようぜ」
背の高い男が肩から下げていた袋に手を入れた。取り出したのは木で栓をした小さな壺だった。
(何の壺だろう? 油をくれるって言ってたけど)
男は小屋の横手に回り、きいきいと音を立てて回る水車に近づいた。
「ああー、また少し車軸が削れてるみてぇだな。こりゃ毎日油をくれても、長くはもたねえぞ」
ぼやきながら男は壺を掲げ、中の油を車軸に垂らした。しかし、思うように油は軸受けの内部に入って行かない。
「うまくいかねぇな。油が回らねえ」
「待て待て。それじゃダメだって。俺がやるから貸してみろ」
背が低い方の男は草むらで葦をむしって戻ってきた。その茎をナイフで適当な長さに整えると、受け取った壺から菜種油を吸い上げる。
身軽に水車を登って行き、車軸の隙間に葦の先端を差し込んだ。
「ふーっ!」
男は葦の茎に息を吹き込み、車軸の隙間に油を送り込む。
「ははあ、そうやんのか。器用なもんだな」
「誰でもできるっての。油差しがあれば簡単なんだがな」
小柄な男は同じことを二度繰り返し、壺をのっぽの相棒に返した。
「どうだ? いくらかマシになったろが?」
そう言われてみると、水車が立てるきいきいという音がだいぶ小さくなっていた。
「そんならもう里に帰っか?」
「そうはいかねぇだろ!」
のっぽの方はすぐにも帰りたそうだったが、小男がそれをとどめた。
「ダーミアを見張るのが役目だかんな。少し時間をつぶしていくべ」
そういうと水車小屋の壁を背に腰を下ろした。のっぽも渋々これに倣う。
「でもよう。ダーミアの奴はもう村を出て行ったのと違うか?」
「つってもな。身一つで焼き出されてんだぞ? そのまま村を出たらすぐに行き倒れちまうべ」
何日かは村に留まって食料を調達するだろうと、小男は説明した。
「そういうもんかな。俺ならすぐに逃げ出すけどな」
「食い物も持たねぇでか?」
「つかまったらおしまいだ。あの兄貴の方みたいにな」
気が弱そうなのっぽはそう言って、肩をすくめた。
「マルスのことか? ――ありゃあ、気の毒だったな」
強気な小男もさすがに気が咎めるのか、地面に目を落とした。
(何のことだろ? マルスに何かあったのか?)
兄の名前が聞こえてきて、ダーミアは思わず耳をそばだてた。
「あれだってまだ九つかそこらだろう? 村の衆を相手に何ができるわけでもなかろうによう」
「もうよせって。できちまったことは仕方ねぇ。死んだ者は生き返りゃしねぇんだから」
(マルスが……死んだ?)
男たちのまとまりのない話を聞いていると、マルスはダーミアをかばいだてしたと疑われて村の男たちに殺されたらしい。
そんなバカな話があるものかとダーミアは憤ったが、男たちの声が頭から離れなかった。
二人が帰って行った後も、ダーミアはしばらく水車小屋の裏で頭を抱えていた。
(バカな、バカな! マルスが死んだなんて……)
死体は村の墓場に埋められたと男たちが言っていた。
ダーミアは自分の目で見なければ収まりがつかなかった。
薄暗くなる時刻を待ち、ダーミアは人目を忍んで墓地に来た。
墓地の入り口近くに真新しい土饅頭が作られてあった。墓標もない、花もない、寂しい墓だ。
(この下にマルスがいる? 嘘だ、嘘だ、嘘だ!)
考えるよりも先に体が動いた。ダーミアは素手で墓を掘り起こしていた。
墓の土はまだ柔らかかったが、両手の爪に泥が詰まり、指先に血豆ができた。
泥にまみれ、汗みずくになった頃、ようやく人の体が現れた。
土の下にいたのは変わり果てた姿のマルスだった。
(ああ、マルスだ……)
皮膚が黒ずみ面変わりしていたが、間違えようがなかった。一番ダーミアに近い存在だ。
ダーミアにとって家族と呼べる、たった一人の存在だった。
「僕の身代わりに死んだの……? いや、村の連中が殺したんだ!」
ダーミアは泥だらけの手を握り締め、声を上げて泣いた。
「ごめんよ、兄ちゃん。もう誰にも邪魔させないから」
手の震えは、掘り起こした土を埋め戻し終わる頃には止まっていた。じんじんと指先から伝わる痛みだけが、ダーミアを現実につなぎとめている。
「マルス、僕は村を出るよ。その前に村の人間とは片をつける」
ダーミアは両手の土を自分の顔に塗りつけた。それはマルスの死を悼む葬送の化粧であり、昨日までの自分を葬る死に化粧でもあった。
「これからのことは『君』に任せるよ。僕はもう君のすることを止めない」
ダーミアはそう言って目を閉じた。
――引き受けたり。
「出来損ないのダーミア」はもういない。
大魔導師と呼ばれた男が、薄暗闇に立ち上がった。
「我らを害する気持ちなど、金輪際起きぬようにしてくれよう——」
そう言い残すと、ダーミアは森に帰って行った。
◇
明け方、村の者が水路の異変に気付いた。
「水が枯れてるぞ」
昨日当番の二人が油を差してきたはずだ。夕方までは水路の水は滞りなく流れていた。
夜の間に、何かの異常があったと思われた。
「しょうがねぇな。また誰かに水車を見に行かせなくっちゃ……えっ?」
何気なく水車小屋の方向を見やった男は、森から立ち上る一筋の煙に気づいた。
「何だ、あれは? まさか水車小屋が――。大変だ! みんなに知らせなくちゃ!」
慌てて走り出すと、男は村人たちを呼び出した。
「火事だと? あんなところに火の気なんかねぇべ」
「まさかおめぇたち、昨日たばこの火でもそこらに落としてきたんじゃあんめぇな?」
「バカ! 俺たちゃたばこなんかやんねぇっての!」
集まった村人がわいわいと言い合うが、一向に話がまとまらない。
水車小屋が燃えているとしたら大事だ。結局みんなで見に行こうということになった。
「ああー、こりゃいけねぇ! やっぱり水車小屋が火元だ!」
「ちくしょう! 何があった?」
「おい、水車にはまだ火が回ってねぇぞ。今消せば、水車だけでも助けられっかもしんねぇ」
何人かの男たちは水桶を取りに村へと走った。残った者たちは手にした棒きれで燃える水車小屋を突き崩そうと試みた。
「あちち……! こっちは火の手が強くて近づけねぇ!」
「まだ火が回ってねぇこっちを崩せ! そうすりゃ水車に燃え移るのを防げるぞ!」
土をかけたり、壁を崩したりしているところへ、ようやく水桶を手にした男たちが戻ってきた。
男たちは池の縁まで列を作って、手桶で消火を始めた。
小屋の壁を崩したおかげで、この調子なら火を消し止められそうだと男たちが安心し始めたころ。
ひゅっ!
風を切って飛んできた矢が、一人のふくらはぎに突き立った。
「ぎゃっ!」
「ど、どうした?」
「矢だ! 矢が飛んできた!」
ひゅっ! ひゅっ!
「ぐげっ!」
「痛っ!」
二人目、三人目の尻と肩に次々と矢が刺さる。
棒の先を尖らせただけの粗末な矢は殺傷力が低く、一、二センチ肉に食い込んだだけだ。
それでも刺されたものは苦痛で動けなくなる。
「くそっ! 誰だ、こんなことしやがるのは?」
「いてててて! あいつだ! ダーミアだ!」
「本当だ! あそこにいるぞ!」
木立の中からダーミアが姿を見せていた。次々と矢を射かけるその顔は、なぜか泥にまみれている。
表情を消したその顔は、まるで泥の仮面のようだった。
村人の視線が自分に集まったことを知ると、ダーミアは身をひるがえして木立の中に消えた。
「待ちやがれ、クソガキ!」
「逃がすな!」
棒を振りかざした男たちがダーミアの消えた方向に走り出す。足の速さにばらつきがあるため、先頭に立ったのは五人だった。
立ち木を迂回して木立に走り込んだところで、先頭の男が視界から消えた。
「うわあーっ!」
「ああっ!」
「ぐうっ!」
夜の間にダーミアが仕掛けた落とし穴だ。勢いがついた男たちは足を止められずに、次々と穴に落ちた。
穴の底には先を尖らせた杭が植えられていた。
穴に落ちた五人は足の裏やふくらはぎ、尻などを刺されて苦悶に身をよじった。
「ど、どうした?」
「何だ、こりゃ?」
遅れて走ってきた五人の男たちは、穴の底で苦しむ仲間を見て青ざめた。
「た、助けてくれ!」
「いてぇよう!」
「待て! 落ち着け! 今助けるからよ」
下からむやみに引っ張られたら助ける側まで落とし穴に落ちてしまう。一人の男がそっと穴の底に降り立ち、杭が刺さった男を助け起こす。
脇の下から手を入れて体を支え、杭を避けつつ何とか地面に持ち上げようとした。そこへ――。
ひゅっ! ひゅっ!
その様子を見定めていたダーミアが、再び矢を放った。
「ぎゃっ!」
「ぐわっ!」
「くそっ!」
けが人を助けることに夢中になっていた村人たちに、ダーミアの矢が次々と襲いかかった。
「この矢はマルスを殺した報いなり! 我らは村を出る。後を追う者は殺す!」
ダーミアの声には八歳の子どもとは思えない殺気が籠っていた。
傷だらけになった男たちが足を引きずり、ほうほうの体で山を降りていく。
無人になった水車小屋に歩み寄ったダーミアは、まだくすぶっていた火を起こし、小屋を全焼させた。
焼け残った水車の一部は鉈で切り刻み、池に残骸を投げ入れた。
「これで思い残すことはなし。シラン村よ、後は生きるも死ぬも勝手にすべし」
八歳の夏、ゴミ拾いのダーミアは故郷を捨てた。




