ep.70 託された研究と過去の影
翌朝、リーンとレオンハルトは、リリアーナに案内され、侯爵邸の最奥へと向かっていた。
同行するのは、娘のティアーラを含めた四人だけだ。
長い廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で、リリアーナが足を止める。
扉には複雑な幾何学模様の魔法陣が刻まれ、幾重もの強固な結界が張り巡らされていた。
「ここが、ラウルお兄様の研究資料を保管している部屋よ」
リーンは思わず息を呑んだ。
ようやく、レオンハルトの右手を治す手がかりに近づけるかもしれない。
そう思った時、リリアーナが静かに振り返った。
「……その前に、少しだけ昔話をしてもいいかしら?」
「もちろんです」
レオンハルトが答えると、リリアーナは懐かしそうに微笑んだ。
「お兄様に最後にお会いしたのは……そうね。わたくしが十七歳の頃だったかしら」
その眼差しが、遠い記憶を辿る。
「ラウルお兄様は、帝国でも並ぶ者のない大魔導師だったわ。魔法理論から精霊学まで知り尽くし、幼いわたくしにとって何よりの憧れだったの」
「お母様が、そんなに憧れていたなんて」
「ふふっ。ティアもきっと、お兄様にお会いしたら夢中になっていたでしょうね」
娘に微笑みかけたリリアーナは、やがて表情を引き締めた。
「けれど、お兄様の研究は、単に魔法を発展させるためのものではなかったの。この国……いいえ、世界の命運そのものを支えるものだったのよ」
「世界の命運、ですか?」
リーンが聞き返す。
「ええ。あなた方は、遠い昔、この世界には世界樹が存在し、人々が精霊と共に暮らしていたという話を知っているかしら?」
「あっ、それなら聞いたことがあります!」
リーンが頷くと、レオンハルトも口を開いた。
「レイガルドでは、子供向けの絵本にもその話があります。私も幼い頃、読み聞かせてもらった記憶があります」
「そうでしょうね。けれど、それは御伽話ではないのよ」
「……え?」
「実際にあったことなの。ラウルお兄様が教えてくださったわ」
リーンは驚いてリリアーナを見つめた。
世界樹と精霊が共存していた時代。
以前、ローウェンから聞いた話とも重なる。
「お兄様はね、年々この世界を巡るマナの供給量が減少していることに気づいていらしたの。大地を巡るマナは精霊の働きとも深く関わっているわ。その循環が弱まっている原因を、長年調べていらしたのよ」
「マナが……減っている?」
「ええ。世界樹が失われたことと、何か関係があるのではないかと考えていたそうよ」
リリアーナは封印された扉へ視線を向けた。
「……ただ、この先は我が国の重大な機密にも触れてしまうの。正直なところ、今でも迷いがあるのよ。ごめんなさいね」
「い、いいえ! 見せていただけるだけでも十分すぎます!」
恐縮するリーン。
だが、その隣でレオンハルトが静かに口を開いた。
「リリアーナ様。一つ、提案がございます」
「何かしら?」
「その情報をお話しいただく代わりに、私からも我が国の機密をお伝えしましょう」
「……まあ」
「情報交換――いえ、外交上の交渉という形ではいかがでしょうか。提供する情報は、レイガルドのみならず、世界の均衡に関わるものです」
リリアーナの瞳が鋭く細められた。
やがて、ふっと試すような笑みを浮かべる。
「……さすがは騎士団長様ね。そんな切り札をお持ちだったなんて」
「互いにとって、有益な話になるかと」
「ふふっ。いいでしょう」
リリアーナは優雅に右手を掲げた。
「では、互いのために魔法契約を結びましょう。ここで知り得た情報は原則秘匿。自国の然るべき相手への報告は各自の裁量に委ね、それ以外への開示には提供者の同意を要する……これでよろしいかしら?」
「構いません」
「リーンさんとティアにも、同じ条件で契約してもらうわ。いいわね?」
二人が頷く。
四人の足元に淡い光の魔法陣が浮かび上がった。
幾重もの文字が円を描きながら回転し、光の糸がそれぞれの手首へと伸びる。
「――この場に集いし四名、互いの誓約をここに刻む」
光が一瞬強まり、手首に小さな紋様を残して消えた。
「これで、誓約は結ばれたわ」
リリアーナは扉へ向き直り、両手をかざした。
魔力が放たれ、幾重もの術式が淡く輝く。
カチリ、カチリと小さな音を立てながら、封印が一つずつ解かれていった。
「立ち話も何ですから、中でお話ししましょう」
重厚な扉が静かに開き、一行は部屋の中へと足を踏み入れた。
◇
足を踏み入れた瞬間、リーンは圧倒されて息を呑んだ。
高い天井まで届く壁一面の書棚には、膨大な羊皮紙の束と重厚な革装丁の書物が整然と並んでいる。
魔法理論、古代語、魔力循環、そして精霊学。
背表紙に記された文字を追うだけでも、胸が高鳴った。
部屋の奥には、読書や研究の合間に使われていたとおぼしき、革張りのソファとローテーブルが設えられた応接スペースがあった。
「どうぞ、お掛けになって」
リリアーナに促され、四人は向かい合うように腰を下ろした。
静謐な空気が満ちる中、リリアーナがレオンハルトへ視線を向ける。
「では、ガーディナス様。あなた方が抱える危惧から伺いましょうか」
「ありがとうございます。……単刀直入に申し上げます」
レオンハルトは居住まいを正し、静かに語り始めた。
「現在、我が国では世界の均衡を揺るがしかねない事態が進行しています。国内の有力貴族が、魔力異常を引き起こす薬を密かに市井へ流通させていたことが判明しました」
「……薬を?」
「さらに数十年前から、精霊への干渉を目的とした非道な実験が行われていた形跡があります。その過程で、他国からも人を連れ去り、実験に利用していた疑いが浮上しています」
「なんですって……!?」
リリアーナが息を呑み、隣のティアも顔色を変えた。
「それって、帝国の者たちも標的にされた可能性があるってこと……?」
「否定できません。現在も調査を進めていますが、被害の全容はまだ把握できていません」
リリアーナは唇を引き結んだ。
「……許しがたいことね」
「そして、今回の件には、もう一つ不可解な出来事が関係しています」
レオンハルトは一度言葉を切った。
「魔力異常を起こした竜が、我が国に出現しました」
「…………え?」
リリアーナが目を見開く。
「魔力異常の……竜!?」
思わず声が大きくなった。
ティアも絶句していた。
魔物の凶暴化は、近年各地で報告されている。
だが、竜は別格だ。
強大な魔力を持つ存在にまで異常が及んだとなれば、その影響は計り知れない。
「……その竜は、どうなったのですか?」
「激しい戦闘になりましたが、何とか事態を収束させました。ただ、その際に私も負傷しています」
レオンハルトは自身の右手へ視線を落とした。
「魔力回路に損傷が残りました。リーンが今回同行しているのは、その治療に必要な薬を作るためです」
「……そういうことだったのね」
リリアーナがリーンを見る。
「はい。どうしても、レオン様の右手を治したいんです」
リーンの真摯な瞳に、リリアーナは深く頷いた。
だが、レオンハルトの話はまだ終わらない。
「さらに、その戦闘に関連して、追手と思われる刺客も現れました」
「……刺客?」
「その者たちが、グランシェル帝国の言葉を発していたとの報告があります」
「…………!」
リリアーナの表情が凍りついた。
「帝国の者が関与していると……?」
「可能性はあります。ただし、帝国の関与を示す確証はありません」
レオンハルトは冷静に答えた。
「本来であれば、しかるべき時期に我が国から帝国へ正式に情報を共有する予定でした。しかし、双方の抱える問題に接点があると感じたため、ここでお伝えしました」
長い沈黙が落ちた。
リリアーナは深く息を吐き出すと、かつての皇女としての厳格な眼差しを向けた。
「……なるほど。確かに、一国だけの問題ではなさそうね」
そして、何かを思い出したように目を細めた。
「それに、精霊への干渉を目的とした実験と聞いて思い出したことがあるわ」
「……と、いいますと?」
「かつて帝国を揺るがした皇位継承争い……『暗黒の時代』と呼ばれた内乱よ」
レオンハルトが頷く。
「暴走した第二皇子を、皇弟であられたリリアーナ様の父君が討伐したという……」
「ええ。そして父が皇帝となった。けれど、それは表向きの話よ」
「表向き、ですか?」
リーンが聞き返す。
「実際には、第二皇子がラウルお兄様の研究に目をつけたことが発端だったの」
リリアーナの声音に怒りが滲んだ。
「第二皇子は、失われゆくマナを補うため、精霊を人工的に生み出せばいいと考えたのよ。そして、精霊を召喚し、意のままに操る術式を開発するようお兄様に迫ったそうなの」
「精霊を……人工的に?」
リーンの背筋に冷たいものが走る。
「お兄様は当然、そんな馬鹿げた要求には応じなかったわ。けれど、お兄様には心から大切に想っていた女性がいたの」
リリアーナの表情が、わずかに和らいだ。
「その方は、精霊の姿を見るだけでなく、心を通わせ、言葉を交わすことができた」
「……っ」
「第二皇子は彼女の能力にも目をつけたの。お兄様だけでなく、彼女まで利用しようとした」
リーンは息を呑んだ。
精霊と会話できる女性。
昨日、リリアーナが懐かしそうに語っていた人物が思い浮かぶ。
「お兄様は彼女を守るため、研究を中断して姿を隠したわ。……それから数年が経ち、ようやく二人の隠れ住んでいた場所が判明した時には、もう手遅れだったの」
「……まさか」
「二人とも、殺されていたわ」
静かにこぼれた言葉には、長い年月を経ても癒えない悲しみがあった。
「第二皇子はその間に、ある組織と手を組んでいたの」
リリアーナは、忌まわしいものを口にするように続けた。
「精霊は人間に仕えるべき存在だと主張する、歪んだ思想の組織――《アルケイア》よ」
「……アルケイア?」
レオンハルトが思わず声を漏らした。
その反応に、リリアーナが目を瞬かせる。
「……ガーディナス様? まさか、その名前をご存知なの?」
「はい。実は、先程お伝えした非道な実験が行なわれていた件なのですが、我が国で調査を進めている十四年前の研究資料に、その名が繰り返し記されていました」
「なんですって……?」
「ただ、それが人名なのか、研究計画の名称なのか、あるいは組織の名前なのかまでは分かっていませんでした」
レオンハルトの表情が険しくなる。
「まさか、帝国の皇位継承争いに関わっていた組織だったとは……」
「……その研究資料には、何が記されていたの?」
「精霊親和性の測定、魔力干渉、人工的な魔力変質などに関する記録です。さらに、当時の研究施設では、複数の子供たちが実験対象として扱われていた形跡もあります」
「子供たちが……?」
リリアーナの顔色が変わった。
「ええ。そして、その研究は十四年前に途絶えたように見えました。しかし、最近になって押収した研究資料にも、当時と共通する術式や管理記号が確認されています」
「……つまり、今も研究が続けられている可能性があるということね」
「はい。少なくとも、十四年前の研究を引き継いだ者が存在することは、ほぼ間違いありません」
リリアーナは口元に手を当て、考え込んだ。
「……そんなことが」
「リリアーナ様。先ほど、アルケイアが完全に消滅したかは分からないとおっしゃいましたね」
「ええ……」
「我が国で確認された資料が、当時のアルケイアに関係するものだとすれば、組織が現在も活動している可能性があります」
重苦しい沈黙が落ちた。
その一方で、リーンは別のことに気を取られていた。
(……アルケイア?)
その名前を聞いた瞬間、ある言葉が脳裏に蘇った。
――アルア。
エヴァルトが最期に残した、意味の分からない言葉。
あの時は、何を指しているのか分からなかった。
けれど、今聞いた組織の名前と、どこか響きが似ている。
「リーン?」
隣から、レオンハルトの声がした。
「……大丈夫か?」
「は、はい……大丈夫です」
小さく頷いたものの、心臓は早鐘を打っていた。
レオンハルトは気遣わしげに視線を留めつつ、リリアーナへ問いかけた。
「その《アルケイア》は、グランシェルで今も活動しているのですか?」
「分からないわ。当時、父は第二皇子の行いを知って激怒したの。そして、サイルード王国で王配となっていた元第三皇子、シェバルトお兄様と協力し、第二皇子とその一派を討伐したわ」
「……サイルード王国まで関わっていたのですね」
「ええ。けれど、《アルケイア》という組織そのものが完全に消滅したのかどうかは、確認できていないの」
リリアーナは苦しげに目を伏せた。
「……もし、あの組織が今も存在しているのだとしたら」
その先を言いかけた時だった。
「……お母様」
それまで黙っていたティアが、低い声で口を開いた。
「ご報告しようと思っていましたが、最近、帝国内で人が突然いなくなる事件が起きているわ」
「……なんてこと」
「子供ばかりではないけれど、行方不明者が増えているの。冒険者ギルドでも、不審な失踪事件として調査が始まっています」
ティアは表情を曇らせた。
「もし、それも関係しているのだとしたら……」
「……実は、もう一つ気になることがあります」
レオンハルトが静かに言った。
「ここへ来る途中、我々は魔物の群れに襲われました」
「魔物の群れ?」
「ええ。しかも、あの地域には本来生息していないはずの魔物でした。同様の異変は、レイガルドでも確認されています」
「……なんですって!?」
ティアの顔色が変わった。
「そんな異変まで……」
そして、誰に聞かせるでもなく呟く。
「……時間がない」
「ティア?」
リーナがティアをみた。
「……ううん。何でもないわ、リーン」
ティアは小さく首を振った。
けれど、その表情には隠しきれない焦りが浮かんでいた。
◇
「あの……リリアーナ様」
しばらく考え込んでいたリーンが、おずおずと口を開いた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。何かしら?」
「その……ラウル殿下と同じ頃に、『聖女』と呼ばれた女性が亡くなったと聞いたことがあるんですけど……」
リリアーナの表情が、ぴたりと止まった。
「……まあ。そんなことまでご存知なのね」
「申し訳ありません。立ち入ったことを……」
「いいえ。ただ、その話は帝国でもほとんど知られていないはずなのだけれど」
そこでレオンハルトが口を開いた。
「その情報は、一般に出回っているものではありません」
「……そうなの?」
「はい。私が信頼する部下が独自に調査して突き止めたものです。現在は私の判断で、王太子のカイエル殿下までの報告に留めています」
リリアーナはしばらくレオンハルトを見つめた後、静かに頷いた。
「……そう。賢明な判断ね」
そして、リーンへ視線を戻す。
「ラウルお兄様が愛した女性こそ、当時『聖女』と呼ばれていた方よ」
「……!」
リーンは思わず息を呑んだ。
昨日、リリアーナが懐かしそうに語っていた女性。
ラウル殿下が愛し、守ろうとした人。
そして、精霊と会話することができた聖女。
すべてが、同じ人物だったのだ。
「……その方は、どんな方だったんですか?」
リーンが尋ねると、リリアーナは少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「とても優しい方だったわ。誰に対しても温かくて……お兄様が心から愛した方よ」
そこまで話すと、静かに首を振った。
「けれど、ごめんなさいね。聖女であるこの方については、これ以上お話しできないの」
「……はい。分かりました」
リーンはそれ以上、尋ねなかった。
昨日、図書室で「遠いところへ行ってしまった」と寂しそうに語っていたリリアーナの横顔が重なる。
その女性をどれほど大切に思っていたのかは、十分に伝わってきた。
「さて……」
リリアーナは深く息をつき、ソファから立ち上がった。
「二人が隠れ住んでいた場所から回収された研究資料は、お兄様自身の手で厳重に封印されていたの」
「……封印、ですか?」
「ええ。わたくしが引き取ったのだけれど、術式があまりにも複雑でね。数年がかりで、ようやく解くことができたのよ」
リリアーナは小さく苦笑した。
「今も少しずつ確認しているところなのだけれど、まだすべてを読み解けたわけではないわ」
「……それほど難しい研究なのですね」
「ふふっ。お兄様らしいと言えば、お兄様らしいのだけれど」
その声には、懐かしさが滲んでいた。
「お兄様は、世界のマナが減少する根本原因を突き止めようとしていた。そして、人間と精霊が共に生きていた古の時代についても、調べ続けていらしたの」
リリアーナは書棚の一角を指し示した。
「ここにあるものは、自由に調べて構いません。どうか、あなた方の求める答えが見つかりますように」
「ありがとうございます、リリアーナ様……!」
リーンとレオンハルトも立ち上がり、深く一礼した。
世界のマナの減少。
精霊への干渉を企てた《アルケイア》。
そして、国境を越えて相次ぐ異変。
それぞれ別の出来事に思えたものが、少しずつつながり始めていた。
リーンは目の前に広がる書棚を見つめる。
ここには、レオンハルトの右手を治すための手がかりがあるかもしれない。そう願いながら、無意識に胸元のペンダントへ手を添えた。
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