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薬術師リーンは騎士団長の監視対象です ~隣国のスパイ容疑をかけられましたが、なぜか最強騎士に囲われています~  作者: 空乃葉
第二部/第1章 炎の国グランシェル

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ep.69 侯爵夫人とおしゃべりな黒猫



 キシュリア侯爵邸では、ここ数日、ちょっとした話題が持ち上がっていた。


 普段は自室からほとんど出てこないルイードが、毎日のように図書室へ通うようになったのだ。


「……あの子が、自分から?」


 使用人から報告を受けたリリアーナは、驚きを隠せなかった。


息子が外を怖がるようになってから、随分と時間が経つ。理由を尋ねても、ルイードは困ったように俯くばかりだった。


 それが今では、客人であるリーンを慕い、楽しそうに笑っているという。


「……そう。よかったわ」


 安堵の笑みを浮かべながらも、リリアーナは不思議に思った。


 あの子に、一体どんな変化があったのだろう。


     ◇


「リーンお姉さん、見て!」


 図書室には、ルイードの弾んだ声が響いていた。


 小さな紙の鳥が、ふわふわと宙を舞っている。


 その周囲を、淡い若草色の光がくるくると飛び回っていた。


「わあ! ルフト、上手になったね!」


 リーンが褒めると、光が嬉しそうに瞬いた。


「ふふん! 私が教えたんだから当然よ!」


 机の上に座る黒猫のぬいぐるみ――ダイアナが、得意げに胸を張る。


 その中にいるのは、上級風精霊のエリーだ。


「エリーも、すごい!」


「そうでしょう!」


 ルイードの素直な賞賛に、エリーはますます上機嫌になった。


 そんな二人を見守りながら、リーンはふと首を傾げた。


「……それにしても、ルフトって小さいのに、魔力が随分安定しているね」


「そうね。この子、見た目よりずっと働き者なのよ」


「働き者?」


 エリーはルフトへ視線を向けた。


「この子ね、あなたが眠っている間に、よくお外へ出ているみたい」


「……ルフトが?」


 ルイードが目を丸くする。


「ええ。畑や果樹園を巡って、風を運んでいるの。ほかの精霊たちの働きも助けているみたいね」


「……どうして?」


 エリーは小さく微笑んだ。


「あなたが喜ぶと思ったからよ」


「……ぼくが?」


「そう。あなた、お外の景色を見るのが好きでしょう?」


 ルイードはこくりと頷いた。


 外へ出るのは怖い。


 けれど、窓から見える花や木々、遠くに広がる畑の景色は好きだった。


「この子はね、その景色を守りたかったのよ。あなたが笑ってくれるように」


 ルフトが照れたように淡く瞬く。


「……そうだったんだ」


 ルイードはそっと両手を差し出した。


 小さな光が、その手のひらへ舞い降りる。


「……ありがとう、ルフト」


 嬉しそうに輝くルフトを見て、エリーが頷いた。


「この子のおかげもあって、キシュリア領ではまだ作物が育っているのね。もちろん、ほかの精霊たちや人間も頑張っているけれど」


「……すごいね、ルフト」


 ルイードは誇らしそうに微笑んだ。


「ぼくも……いつか、一緒にお外へ行けるかな」


 その言葉に、リーンは優しく頷いた。


「うん。少しずつでいいと思うよ」


     ◇


 その日の午後。


「ねえ、ルイード!今度はもっとすごいのを見せてあげる!」


 エリーが得意げに宣言した。


 ダイアナの身体が、ふわりと宙に浮かぶ。


 くるくると回転しながら、周囲に小さな風の渦を生み出した。


 机に置かれた花びらが舞い上がり、空中で一輪の花の形を作る。


「わあっ!」


 ルイードが歓声を上げた。


「エリー、すごい!」


「ふふん! こんなの簡単よ!」


「もう、エリーったら。調子に乗りすぎだよ」


 リーンが苦笑した、その時だった。


「……まあ!」


 突然、背後から声がした。


 振り返ると、図書室の入口にリリアーナが立っていた。


「リ、リリアーナ様!?」


 リーンの顔から血の気が引く。


 けれど、リリアーナは宙に浮かぶダイアナを見つめ、感心したように目を輝かせていた。


「なんて見事な魔力操作なのかしら! ぬいぐるみを浮かせながら、あれほど繊細に風を操るなんて……」


「あ、あの、これは……!」


「リーンさん、あなたが操っていらっしゃるの?」


「ええっと……」


 どう説明しようか迷うリーンをよそに、ダイアナが得意げに胸を張った。


「こんなの、あたしにかかれば朝飯前よ!」


「…………」


「…………」


 完全な沈黙が落ちた。


 リリアーナがゆっくりと瞬きをする。


「……今、ぬいぐるみが話しました?」


 リーンは凍りついた。


 ダイアナも、短い前足で慌てて自分の口を押さえて固まった。


「……あら?」


「エリーーーッ!!」


 リーンの悲鳴が、図書室に響き渡った。


     ◇


「……つまり、その黒猫のぬいぐるみには、風の精霊が宿っているということ?」


「……はい」


 リーンは申し訳なさそうに身を縮めた。


 ダイアナは机の上で、すっかり大人しくお行儀よく座っている。


「私はエリーよ。よろしくね!」


「エリー、少し静かにしていて……!」


 リリアーナは驚きながらも、どこか懐かしむような眼差しでダイアナを見つめていた。


 すると、ルイードが母親の袖をそっと引いた。


「……お母様」


「なあに、ルイード?」


「ぼくにもね、お友達がいるんだよ」


「……お友達?」


「うん。ルフトっていうの」


 ルイードが肩の近くを指差す。

そこには、若草色の小さな光がふわふわと浮かんでいた。


 けれど、リリアーナには何も見えない。


「……ルフト?」


「……見えない?」


 ルイードの表情が、少しだけ曇った。


 リーンはそっと口を開く。


「リリアーナ様。ルイードくんのそばには、下級の風精霊がいるんです」


「……この子にも、精霊が?」


「はい。ルイードくんは、ずっとその子と一緒にいたんですよ」


 リリアーナは息子を見つめた。


「ルイード……どうして今まで教えてくれなかったの?」


「……だって」


 ルイードは俯いた。


「……信じてくれるか、分からなかったから」


「…………」


「それに……お外は、こわいの」


 ルイードは小さな手を握りしめた。


「みんなの怒ってる気持ちとか、悲しい気持ちとか……ルフトと一緒にいると、いっぱい伝わってくる」


 リリアーナの表情が変わった。


 息子が外へ出たがらなかった理由。


 それは、周囲の不安や乾いた大地の苦しみを敏感に受け止めていたからだった。


「……そうだったのね」


 リリアーナは膝を折り、ルイードをそっと抱きしめた。


「気づいてあげられなくて、ごめんなさい」


「……お母様」


「怖かったでしょう」


 ルイードは小さく頷いた。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「でもね、リーンお姉さんといると、こわくないんだ」


「……そう」


「エリーも、ルフトも、一緒だから」


 リリアーナは目を細めた。


 そして、リーンへ視線を向ける。


「……ありがとう、リーンさん」


「い、いいえ! 私は何も……」


「いいえ。あなたのおかげで、あの子はまた笑えるようになったのよ」


 その声音には、母親としての深い安堵が滲んでいた。


     ◇


「……不思議なものね」


 ルイードが机の上に座っているダイアナと楽しそうに話す姿を眺めながら、リリアーナがぽつりと呟いた。


「実はね、わたくしにも、精霊の姿が見える大切な知り合いがいたのよ」


「えっ、そうなんですか?」


 リーンが驚いて顔を上げる。


「ええ。彼女はとても温かい人だったわ。精霊にも、人にも、分け隔てなく接する方でね……」


 リリアーナは懐かしそうに目を細めた。


 ふと脳裏に浮かぶのは、かつての王城の庭園。


 柔らかな木漏れ日の下で、小さな光に囲まれながら、愛おしそうに微笑んでいた一人の女性の姿。


 誰もいない場所に向かって楽しそうに話しかける彼女を、初めは不思議に思ったものだ。


 けれど、その澄んだ心を知ってからは、彼女と庭園で過ごす穏やかな時間が何よりの宝物になっていた。


「……懐かしいわ」


「素敵な方だったんですね」


 リーンが微笑む。


「私も、その方に会ってみたいです」


「…………」


 リリアーナの表情が、わずかに翳った。


「……ごめんなさいね」


「え?」


「彼女は、とても遠いところへ行ってしまったの。もう……会えないのよ」


 その寂しげな声音に、リーンはハッとした。


「! い、いいえ! こちらこそ、配慮の足りないことを言ってしまって、すみませんでした!」


 慌てて頭を下げるリーンに、リリアーナは優しく首を振った。


「いいのよ。あなたは何も悪くないわ」


「……でも、会えないのは寂しいですね」


「……ええ。本当にね」


 リリアーナは窓の外へ視線を向けた。


 庭園の木々が、柔らかな風に葉を揺らしている。

あの頃も、こんな穏やかな風が吹いていた。そして彼女は、いつも優しく微笑んでいた。


 しばしの沈黙の後、リリアーナはゆっくりとリーンへ向き直った。


「……リーンさん。先日お話しした研究書のことなのだけれど」


「……はい?」


「あなた方に、お見せしようと思います」


「……えっ!?」


 リーンは驚いて目を見開いた。


「よろしいのですか!?」


「ええ。もちろん、国家に関わる資料もありますから、閲覧にはいくつか条件を設けさせていただきますけれど」


「それはもちろんです!」


 リーンは勢いよく頷いた。


 リリアーナは、そんな彼女を見て柔らかく微笑む。


「あなたは、わたくしの大切な息子に笑顔を取り戻してくださった。それに……」


 そこで一度言葉を切り、慈しむようにリーンを見つめる。


「不思議ね。あなたとお話ししていると、あの方のことを思い出すの」


「……あの方、ですか?」


「ええ」


 リリアーナは静かに頷いた。


「精霊を愛し、誰かのためにまっすぐになれるあなたになら……きっと、ラウルお兄様も喜んでくださると思うわ」


 リーンには、その言葉の本当の深さも、思い浮かべられている女性の正体も分からなかった。


 けれど、リリアーナの眼差しに込められた確かな温かさと信頼だけは、胸の奥深くまで伝わってきた。


「……ありがとうございます、リリアーナ様!」


 リーンは深く頭を下げた。


 ようやく、レオンハルトの治療につながる手がかりを探せる。


 胸の奥に、希望の光が灯った。


 ――そして、この研究書との出会いが、レオンハルトの傷だけでなく、リーン自身の隠された出自と運命の扉を大きく開くことになる。


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