ep.68 小さな精霊と秘密の友達
――キシュリア侯爵邸に滞在して、二日目の朝
リーンは朝から図書室に入り浸っていた。
天井まで届く書棚には、魔法理論や精霊学、薬草学に関する貴重な書物がぎっしりと並んでいる。
ラウル殿下の研究書はまだ閲覧を許されていないものの、一般の蔵書だけでも目を見張るものばかりだった。
「……すごい。この魔力循環の考察、面白い!」
夢中でページをめくるリーン。
レオンハルトとグレンは侯爵家の訓練場で鍛錬を行っており、アイリスはお茶の用意で少し前に席を外していた。
屋敷にはリリアーナ自身が施した強固な結界が張り巡らされている。優れた魔導師である彼女の館は警備も万全で、だからこそレオンハルトも安心してリーンを図書室に残していったのだ。
「……ねえ、リーン」
「んー?」
「それ、面白いの?」
机の端に座る黒猫のぬいぐるみ――ダイアナ(エリー)が、退屈そうに短い足をぶらぶらと揺らしていた。
「面白いよ!魔力の流れを、周囲の自然環境との相互作用から考察していてね――」
「ふ〜ん」
「特に、この術式の理論が……」
「ふ〜〜ん」
「……エリー、全然聞いてないでしょ」
「魔力がぐるぐる回る話でしょ?」
「……間違ってはいないけど」
リーンが苦笑すると、エリーはダイアナの中で大きく伸びをした。
「私、ちょっと散歩してくるわ」
「えっ?」
次の瞬間、ダイアナから淡い光がふわりと抜け出し、光の粒をまとった小さな少女の姿になった。
最近のエリーは、魔力の制御が安定し、ダイアナの器から自由に出入りできるようになっていた。
「エリー! 誰かに見つかったらどうするの!」
「大丈夫よ。みんな見えないし、気配がしたらすぐ戻るもの」
「……あまり遠くへ行っちゃ駄目だよ?」
「はーい!」
ひらひらと手を振り、エリーは高い書棚の向こうへ飛んでいってしまった。
「……もう」
リーンは小さく息を吐き、再び開いた本へと視線を落とした。
◇
図書室の中を気ままに漂っていたエリーは、ふと空中でぴたりと静止した。
「……あら?」
微かに鼻先をくすぐる、懐かしい気配。
風の下級精霊だ。
気配を辿ってすっと滑るように進むと、少しだけ開いた扉の隙間に、小さな少年が立っていた。
年の頃は五歳くらいだろうか。
少年の肩のそばには、淡い若草色の光がふわふわと漂っている。
「まあ、可愛い風の子ね」
エリーが近づくと、その光は嬉しそうにパッと瞬いた。
そして――
「……君は、だれ?」
「……え?」
エリーは目を丸くして少年を見た。
「あなた……私が見えるの?」
「……うん」
「まあ!」
エリーはパッと顔を輝かせた。
「私はエリーよ! 風の精霊なの!」
「……せいれい?」
「そう! あなたの隣にいる子と同じよ」
少年は自分の肩に浮かぶ小さな光へ目を向けた。
「……この子も、せいれいなの?」
「ええ。下級の風精霊ね。まだ言葉は話せないけれど、あなたのことが大好きなのね」
光が嬉しそうに少年の周りをくるくると回った。
その時だった。
「……エリー?」
書棚の陰から、リーンの声がした。
「誰とお話しして……って、えっ!?」
「リーン! この子、私が見えるのよ!」
「ええっ!?」
リーンは驚いて少年を見つめた。
「こ、こんにちは。えっと……」
どう言い訳をしようか焦るリーンに、少年は不思議そうに小首を傾げた。
「……お姉さんも、見えるの?」
「えっ?」
「さっきから……ずっと、あの黒い猫さんとお話ししてたよね?」
「…………」
リーンは固まった。
ダイアナ越しにエリーと話していたのを、ばっちり見られていたらしい。
エリーが横でくすくす笑う。
「リーン、完全にばれてるわよ」
「う……エリーのせいでしょう……」
リーンは観念して、少年と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「……うん。見えるよ。この子はエリー。私の大切なお友達なんだ」
「よろしくね!」
エリーが宙で小さくお辞儀をする。
少年は二人を交互に見つめ、ぽつりと呟いた。
「……ぼくと、同じ」
◇
「君のお名前は?」
「……ルイード」
「ルイードくんね。私はリーンだよ」
リーンが微笑むと、ルイードはこくりと小さく頷いた。
「その光の子は、ルイードくんのお友達?」
「……うん。いつも、お部屋で一緒にいるの」
淡い光が、少年の頬へすり寄るように揺れる。
「ふふ、本当に懐いているのね」
エリーが目を細める。
「この子、名前はあるの?」
「……ない」
「じゃあ、つけてあげたらどうかな?」
リーンの提案に、ルイードは驚いたように目を丸くした。
「……ぼくが、つけてもいいの?」
「もちろん! ルイードくんの大事なお友達なんだから」
ルイードはしばらく光を見つめ、一生懸命に小さな頭で考え込んだ。
「……ルフト」
「ルフト?」
「……うん」
その瞬間、若草色の光がパッとひときわ強く輝いた。
歓喜するように、ルイードの頭の上をくるくると飛び回る。
「ふふっ、すごく気に入ったみたいね!」
エリーが笑い、ルイードの唇にも、ぽっと小さな笑みが灯った。
そのあどけない笑顔に、リーンの胸が温かくなる。
「ルイードくんは、いつもルフトとお部屋で遊んでいるの? お外には行かないのかな?」
尋ねると、ルイードはふっと視線を落とし、小さく肩をすくめた。
「……お外は、こわい」
「……怖いの?」
「……いやな気持ちが、いっぱいあるから」
ルイードは小さな手で胸元をぎゅっと掴んだ。
「……苦しいのとか怒ってる時みたいな色が見えるんだ。ルフトも、ふるえて嫌がるんだ」
小さな光が、少年の頬へいたわるように寄り添う。
(……この子は、精霊を通して周囲の感情や空気を敏感に感じ取っているんだ)
今、グランシェル全土を覆っている日照りや魔物の不穏な気配、そして大人たちの焦りや不安。
そうしたざわめきが、この小さな男の子と幼い精霊を怯えさせていたのかもしれない。
「……そっか」
リーンは優しく、そっとルイードの手を包み込んだ。
「でも、ここなら安心していいよ。私にもエリーにも、ルフトの姿が見えるし、ルフトの気持ちもちゃんと伝わるからね」
「……変じゃない?」
「全然変じゃないよ!」
リーンは力強く首を振った。
「こんなに優しくて可愛いお友達がいるなんて、すごく素敵なことだよ」
ルイードはぱちりと瞬きをし、やがて安心したように嬉しそうに目を細めた。
◇
「リーン様、お待たせいたしました」
図書室の扉が開き、アイリスがお茶の載ったワゴンを押して戻ってきた。
厨房で使用人たちと話してきたアイリスは、リーンの隣にちょこんと腰掛けている少年を見るなり、ハッと息を呑んだ。
「……ルイード様?」
呼ばれた少年はびくりと身を強張らせ、リーンの背中へと隠れてしまう。
アイリスはすぐに物腰を和らげ、少年に聞こえないようリーンの耳元でそっと囁いた。
「……リーン様。こちらはリリアーナ様の御子息、ルイード様でいらっしゃいます。滅多に自室からお出にならないと伺っておりましたが……」
(リリアーナ様の息子さん……!?)
驚いて息を呑みかけるが、リーンは慌てて笑顔を作った。
ルイードが不安そうに、リーンの服の裾をぎゅっと握りしめている。
アイリスは優雅に膝を折って一礼した。
「ルイード様、はじめまして。リーン様にお仕えしておりますアイリスと申します」
「……こんにちは」
蚊の鳴くような声だったが、ルイードは礼儀正しく挨拶を返してくれた。
「ねえ、ルイードくん。もしよかったら、一緒にお茶を飲まない?」
リーンが尋ねると、ルイードは少し迷ってから、こくりと頷いた。
「……うん」
その頭の上で、ルフトが嬉しそうに光を散らす。
エリーも満足そうに胸を張った。
「ふふん! 私のファインプレーね!」
「……エリー、早く戻って!」
リーンは廊下に人の気配がないか確かめながら、小声で催促した。
エリーは慌てて机の上のダイアナの中へと飛び込んだ。
その不思議な早業に、ルイードが声を立てて、くすくす笑い出した。
◇
お茶と甘い焼き菓子を口にする頃には、ルイードの警戒心はすっかり解けていた。
最初は俯きがちだった少年が、今では自分から小さな声で話しかけてくれる。
「……リーンお姉さん」
「なあに?」
「……また、ここに来てもいい?」
上目遣いに尋ねてくるルイードに、リーンはとびきりの笑顔を返した。
「もちろん! いつでもおいで」
「……ほんと?」
「本当だよ。ルフトも一緒に、またお話ししようね」
「……うん!」
ルイードは嬉しそうに、今日一番の笑顔を見せてくれた。
その肩口では、ルフトが誇らしげに柔らかな風をそよがせている。
―――その日の午後
普段は自室からほとんど出ることのない幼い若君が、他国の客人と楽しそうにお茶を飲み、笑い声をあげていたという知らせは、たちまち屋敷の使用人たちを驚かせた。
そして、その驚きと感謝の報せは、間もなく母であるリリアーナの耳にも届くことになるのだった。
もう10月も終わりですね。
今になって、VIVANTを1話から見始めました(^o^;)
秋の夜長にちょこちょこ見ていきたいと思います。
次回は明日21時の更新です。
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