ep.66 街道に潜む影
――キシュリア領へ向かう朝
ロンダーク伯爵邸の玄関前には、旅支度を整えた馬車が停まっていた。お忍びの旅に配慮し、伯爵家の紋章を伏せた控えめな外観ながら、長旅に耐えうる頑丈な仕立てのものだ。
エルヴェインに滞在してから一週間。薬術師組合や市場を巡ったものの、レオンハルトの右手を治す決定打は見つからなかった。
だけど、次はきっと違う。
向かう先は、かつて帝国の筆頭魔導師を務めた第四皇子・ラウル殿下の遺した研究資料を保管するリリアーナ様の屋敷だ。
「……楽しみですね」
馬車を見つめながら呟くリーンに、隣のレオンハルトが微笑む。
「随分と嬉しそうだな」
「もちろんです! ラウル殿下の研究書なんて滅多に見られませんし、レオの右手を治す手がかりが見つかるかもしれませんから!」
「気合いが違うな」
「当たり前じゃないですか」
呆れたように、けれど嬉しそうに口元を緩めるレオンハルト。そこへ、屋敷からグレンが歩み出てきた。
「レオン様。出発前に一つご報告がございます」
手にした書状を差し出しながら、グレンが告げる。
「アルヴィン様から連絡が届きました。王都の状況は落ち着いたゆえ、私には引き続きレオン様のお側に仕えるように、と」
「アルヴィンからか……あいつらしいな。無理をしていなければいいが」
本来は帰国予定だったグレンの同行が決まり、リーンは顔を輝かせた。
「よかった! グレンさんがいてくださると本当に心強いです」
「リーン様にそう仰っていただけるとは光栄です」
恭しく頭を下げるグレン。
こうして一行は、リーン、レオンハルト、アイリス、グレン、そして鞄の中のダイアナに宿るエリーの五人でキシュリア領へ旅立つこととなった。
◇
馬車に乗り込む前、リーンは昨日の見晴らし台のことを思い出していた。
『これからは、一人で抱え込むな。俺がいる』
(信じてくれて嬉しかったなぁ。それに……)
額への口づけ。
あれも、すごく嬉しかった。
(……って、だめだめ! 思い出しただけで顔が熱くなる!)
慌てて別のことを考えようとしたリーンは、昨日、市場で出会ったティアのことを思い出した。
エルヴェインで度々顔を合わせ、すっかり気心の知れた友人となったティア。
出発前の買い出しで偶然会った際、キシュリア領へ行くことを告げたときの反応が、今思い返してもどこかおかしかった。
『実は、博識と有名なリリアーナ様にお会いできることになったの』
『えっ!? おか……!』
『……おか?』
『おか……おかしいくらい行き先が一緒ね! ほ、ほら、私もそろそろキシュリアの実家に帰ろうと思ってたのよ! おほほほ!』
妙に甲高い笑い声を上げ、リリアーナの名に狼狽えていたティア。
『キシュリアに実家があるのね!じゃあ、向こうでまた会えるかもね』
『ええ!絶対に会えるわよ!……あ、いや、その! とにかくまた向こうでねー!』
嵐のように手を振って人混みに消えていった少女の背中。
(……ちょっと不思議な子だけど、また会えたらいいな)
そんなことを考えながら、リーンは窓の外へ視線を向けた。
◇
馬車はエルヴェインを離れ、キシュリア領へ続く街道を進んでいた。
窓の外に広がる丘陵地帯は、青々としているはずの農地が干からび、痩せた土が目立つ。
「……やっぱり、雨が少ないんですね」
「ああ。魔物の増加で輸送隊の足も鈍っているそうだ」
レオンハルトが眉を寄せる。
そのとき、リーンの肩掛け鞄からダイアナがひょっこり耳を覗かせた。
『……ねえ、リーン』
鞄の中から、エリーがリーンにだけ届くほどの小声で囁いた。
『風が、なんだかおかしいわ。何か臭う気がするの、気をつけて』
「風が……?」
草原を渡る風は穏やかに見えて、どこか張り詰めた空気を孕んでいた。
そのときだった。
「――止まれッ!」
御者の鋭い怒号とともに、馬車が急停止した。
「きゃっ!」
つんのめりかけたリーンの身体を、レオンハルトの左腕が咄嗟に抱きとめる。
「大丈夫か?」
「は、はい!」
馬のいななきと、獣の低い唸り声。
レオンハルトの瞳が一瞬で冷徹な色へと変わる。
「……魔物か。リーン、中にいろ」
腰の剣を抜き、レオンハルトが迷わず外へ飛び出した。
◇
林の木立から姿を現したのは、灰褐色の毛並みを持つ狼型の魔物――グラウルフの群れだった。
通常よりも一回り大きく、何より両目が濁った赤に染まっている。
「……六……いや、後方にも二匹いますね」
音もなく馬車を降りたグレンが静かに告げる。
「グレンは後方を。アイリスは馬車の死守を頼む」
「承知いたしました」
アイリスが馬車の扉の前に立ち、抜刀する。
レオンハルトは左手一本で剣を構えた。右腕の魔力経路は不調のままだが、その立ち姿に一切の揺らぎはない。
先頭の巨躯が跳躍した。
鋭い牙が迫る瞬間、レオンハルトは左手の剣で流れるように受け流し、軸足を回して側面から一閃。魔物がどうと地に伏す。
間髪入れず、馬車の右手を狙った二匹目へアイリスが踏み込んだ。
「――はっ!」
一切の無駄を削ぎ落とした剣閃が魔物を切り裂く。
(すごい……!)
馬車の小窓から息を呑むリーン。だが次の瞬間、エリーの悲鳴が響いた。
『リーン、後ろ!』
死角となる後方から、一匹が馬車へ飛びかかってくる。
リーンが咄嗟に魔力を練ろうとした瞬間――
「おっと」
柔らかな声とともに、銀色の閃光が奔った。
魔物の巨体が、馬車に触れることすら許されず真っ二つに叩き落とされる。
「……え?」
そこに立っていたのは、片手に抜き身の剣を提げたグレンだった。
「リーン様、お怪我は?」
「は、はい……」
「何よりです」
何気なく微笑んだ直後、林の奥からさらに二匹が躍り出る。
グレンは微かに息を吐くと、影のように滑り出した。
足音すら立てない神速の踏み込み。すれ違いざまに首を断ち、背後から襲いかかったもう一匹の爪を紙一重で身を引いてかわすと、逆袈裟に切り伏せる。
あまりにも鮮やかで無駄のない太刀筋だった。
残る魔物もレオンハルトとアイリスによって次々と討ち取られ、街道にようやく静けさが戻った。
「……グレンさん? そんなに強かったんですね」
呆然とするリーンに、血振りを終えたグレンが普段の穏やかな笑みで振り返る。
「一応、筆頭騎士団長の専属従者ですから」
「……それ、関係あります?」
「大いにございますよ」
涼しい顔で返すグレンに、前方の敵を片付けたレオンハルトが歩み寄ってきた。
「グレン、そちらは片付いたか」
「問題ございません」
「……さすがだな」
「お褒めに預かり光栄です」
軽口を叩き合う二人に、アイリスが周囲の安全を告げに戻ってくる。馬車も御者も無事だった。
だが、レオンハルトの視線は倒れた魔物の死骸へ注がれていた。
「……通常なら、ここまで執拗に人を襲う個体ではないのだがな」
赤く濁った瞳。異様な興奮状態。レイガルドの異変の時と酷似している。
そのとき、レオンハルトの背筋に、冷たい針を刺されたような悪寒が走った。
(……誰だ)
魔物の気配ではない。冷徹で、観察するような視線。
街道脇の薄暗い茂みの奥。
「……レオン様?」
「グレン、気づいたか」
「……ええ。林の奥ですね」
グレンの声音から一切の温度が消える。
二人が同時に視線を向けた、その瞬間――気配はふっと煙のように霧散した。
「……消えたな」
「追いますか?」
「いや、リーンたちを危険に晒すわけにはいかない」
怯えて隠れていた旅人の気配ではない。戦いの力量を冷酷に値踏みするような、明確な意志を持った視線だった。
胸に残る違和感を拭えぬまま、レオンハルトは警戒を強めて馬車へと戻った。
◇
魔物の死骸は、グレンが火の魔法で焼き払った。血の匂いに引き寄せられ、別の魔物が集まるのを防ぐためだ。
周囲に火が燃え移らぬよう後始末を済ませると、馬車は再び走り出した。
やがて、キシュリア領の街並みが見え始めた。
遠くに連なる山々の麓、赤い瓦屋根が美しく広がる豊かな街。その奥には、目的のリリアーナが待つ立派な屋敷がそびえている。
「あ……! 見えてきました!」
身を乗り出すリーンに、レオンハルトが優しく目を細めた。
「落ち着け。屋敷は逃げないぞ」
「わ、分かってます!」
照れて頬を染めるリーン。
その温かな光景から遠く離れた、街道沿いの深い木立の中。
遠ざかる馬車を静かに見送る、ひとつの人影があった。
「……なるほど」
誰に届くこともない呟きをひとつ残し、その影は音もなく森の深淵へと溶けていった。
ティアはいい性格をしていると思います(笑)
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