ep.65 夕暮れの約束
リーンが目を覚ましたのは、屋敷に戻ってからしばらく経った夕暮れ時だった。
「……ん……」
ゆっくりと瞼を開けると、すぐ横でレオンハルトが弾かれたように立ち上がった。
「リーン! 気がついたか。具合はどうだ?」
「レオ……? 私、倒れたんですね」
「ああ、丘で突然意識を失った。何か覚えているか?」
問いかけに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
大木の下で聞こえた懐かしいと感じた声、燃え盛る炎と叫び声、そして冷たい研究室の光景――
どれも断片的で、自分でもうまく説明がつかない。
「……少し、記憶が曖昧で…」
苦しい言い訳だと分かっていても、それ以上は言えなかった。
レオンハルトはじっと見つめていたが、やがて静かに息を吐いた。
「そうか。医師は大きな異常はないと言っていた。今日はゆっくり休め」
そっと額に触れて熱を確かめてくれる左手の温もりに、嘘をついている胸がちくりと痛んだ。
そこへ、ダイアナを抱えたアイリスが入ってくる。
「リーン!お目覚めになったのですね、よかった……!」
「もう、突然倒れるんだから!リーンを抱えて戻ってきたときのレオンなんて、鬼みたいな顔で誰も話しかけられなかったんだからね!」
ダイアナの中からエリーが呆れた声を上げ、レオンハルトが「余計なことを言うな」と低く窘める。
クスッと笑うリーンを見て、ようやく室内の張り詰めた空気が和らいだ。
けれど、彼の瞳に残る深い心配の色に、リーンはそっと視線を伏せた。
いつか、ちゃんと話さなければならない――そう思いながら。
◇
――それから数日
体調はすっかり戻ったものの、あの大木の下で見た光景は頭から離れなかった。
物心ついた頃からある、日本という国で暮らしていた記憶。ずっと自分の前世だと思っていた。
けれどグランシェルに来てから見る夢には、見覚えのない大木や炎が現れ、懐かしく感じる声が聞こえる。
一方で、冷たい研究室の光景は十四年前に自分が囚われていたときの記憶のはずだ。
師匠のローウェンからも、記憶の封印に綻びが生じていると聞かされていた。
(私の中に、いくつもの記憶が混ざり合っている……?)
思考の海に沈んでいたとき、ノックとともにレオンハルトが姿を現した。
「体調はどうだ?」
「もうすっかり元気ですよ。レオは心配しすぎです」
「そうか。……それにしても、ようやく慣れたようだな」
「え?」
「俺を『レオ』と呼ぶことに、だ。呼ぶたびに言葉を詰まらせていたからな」
「見、見ていたんですか!? もう、からかわないでください!」
頬を赤くして膨らむリーンを見て、レオンハルトは満足そうに目を細めた。
「その調子なら大丈夫だな。少し街を歩かないか?二人だけでだ」
ソファにいたダイアナの耳がぴくりと動く。
「あら、私はお留守番? ……まあいいわ。リーンを泣かせたら承知しないからね!」
「当然だ」
さらりと返すレオンハルトに、エリーがしっぽをあげて返事をした。
差し出された彼の左手に、リーンは小さく頷いてそっと手を重ねた。
◇
柔らかな陽光に包まれた街を並んで歩く。
露店で買った蜂蜜と木の実の焼き菓子を半分こにし、レオンハルトが調べてくれていた静かなカフェでお茶を飲んだ。
薬草の話に夢中になるリーンを彼が柔らかく笑い、ここ数日胸を覆っていた暗い靄が、少しずつ晴れていくようだった。
カフェを出る頃、空は茜色に染まり始めていた。
「もう一箇所、付き合ってくれないか」
手を引かれて上ったのは、街の中心にある古い見張り台だった。
長い螺旋階段を抜けると、夕日に赤く染まるエルヴェインの街並みと、紫に霞む山々が一望できた。
「綺麗……こんな場所があったんですね」
「ああ。ここなら、静かに話せると思ってな」
振り返ると、レオンハルトが真っ直ぐな瞳で見つめていた。
「リーン。あの日、お前はひどく苦しそうだった。今も一人で何かを抱え込んでいるように見える。……俺には、話せないことか?」
責める色など何一つない、ただ寄り添うような静かな声。
リーンは胸元のペンダントを握りしめた。
変に思われるかもしれない。けれど――この人にだけは、知っていてほしかった。
「……変な話かもしれません。私自身、うまく説明できなくて」
「構わない。聞かせてくれ」
夕暮れの風を受けながら、リーンはぽつりぽつりと紡ぎ始めた。
「私、ずっと前から不思議な記憶があるんです。この世界とは違う、魔法も精霊もなくて、高い建物や乗り物がある世界……日本という国で暮らしていた記憶です」
レオンハルトの瞳が微かに揺れたが、口を挟まず静かに待ってくれた。
「物心ついた頃からあって、前世の記憶なんだと思っていました。でも……グランシェルに来てから、それとは全く違う記憶が浮かぶようになったんです」
リーンは自分の腕を抱きしめた。
「ひとつは……冷たい部屋と薬品の匂い。知らない男たちに無理やり魔力を注ぎ込まれていた光景。……きっとこれは、十四年前に囚われていたときの記憶だと思います」
(――十四年前の記憶)
レオンハルトの脳裏に、旅立つ直前、リーンの師匠であるローウェンに呼び止められたときの声が蘇る。
『リーンの記憶の封印に綻びが生じ始めている。旅の途中で、十四年前の出来事を思い出すことがあるかもしれん。……その時はどうか、あの子の心を支えてやってくれ』
薬師として、師としてリーンを案じていたローウェンの険しい顔。
危惧されていた事態が現実になったのだと悟った。だが、リーンの告白はそれだけでは終わらない。
「でも、それだけじゃないんです。あの大木を見たとき、もっと違う光景が見えました。……木の下で誰かに優しく手を引かれていた記憶。その直後に広がった、燃え盛る炎と誰かの叫び声……」
リーンは戸惑いながら、言葉を続けた。
「最初は、前世の私もこの世界に来たことがあるのかもしれないって思ったんです。でも、冷たい部屋の記憶は十四年前の私自身のものだと思うと……あの大木の下の光景が、いつの記憶なのか分からなくて……」
すがるようにレオンハルトを見上げる瞳が、微かに潤んでいた。
「前世の記憶。十四年前の記憶。そして、誰かの温もりと炎の記憶……。三つの記憶が頭の中で渦巻いて、自分が本当は何者なのか分からなくなって……怖かったんです」
俯き、消え入りそうな声で問う。
「……前世とか、記憶がぐちゃぐちゃな私なんて……信じられないですよね」
「いや」
迷いのない声が返ってきた。
「前世が本当にあるのかは分からない。だが、お前が見たものを嘘だとは思わない」
「どうして……? 私が、普通じゃないかもしれないのに」
「今さらだな。お前が普通じゃないことなど、とっくに知っている」
「なっ……!」
「精霊に愛され、規格外の薬を作り、危険を顧みず誰かを助けに走る。そんなお前をずっと見てきたんだ」
レオンハルトの瞳に、深く静かな温もりが宿る。
「リーン。お前がどこで生まれ、どんな記憶を持っていたとしても、俺の気持ちは変わらない」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「冷たい部屋の記憶も、木の下の記憶も、今すぐ答えを出す必要はない。分からないなら一緒に探せばいい。怖いなら、俺に話してくれ」
レオンハルトが大きな左手を差し出す。リーンはその手を両手でぎゅっと握りしめた。
「一緒に、探してくれますか……?」
「もちろんだ」
レオンハルトは愛おしそうに彼女を引き寄せ、そっと額に柔らかな唇を落とした。
「これからは、一人で抱え込むな。俺がいる」
その温もりに触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
視界が滲み、堪えていた涙が次々と頬を伝った。
「……っ、ありがとうございます……っ」
リーンはレオンハルトの胸元に顔を埋め、彼の背の服をぎゅっと握りしめた。
「ずっと……誰にも言えなくて、怖かったんです……! でも、レオにだけは……知っていてほしかった……っ。信じてくれて……ありがとう、ございます……っ!」
「話してくれて、ありがとう」
レオンハルトの逞しい腕が、壊れ物を包むように優しくリーンを抱きしめる。
抱えていた恐怖や不安がすべて消え去ったわけではない。
けれど、この温もりと穏やかな鼓動の中にいるだけで、深く息ができた。
自分が誰で、どんな過去が待っていようと、この人と一緒なら前に進める。
夕暮れに染まる街を眼下に、二人は静かに寄り添い合っていた。




