ep.7 薬術師との邂逅
リーン視点に戻ります。
追記:後のエピソードと合わないところがあり、一部修正しました。
リーンは、寝台に横たわる男の額へ新しい布を置いた。
最初に比べれば呼吸は安定している。だが、安心にはほど遠い。傷は塞ぎきっておらず、失われた体力も戻っていない。
何より気になるのは、体内を巡る魔力の乱れだった。魔力汚染と呼ぶには、ごく微弱。けれど、普通の負傷者には見られない異常だ。
「師匠。熱は少し下がったみたい」
「そのようだな」
ローウェンは寝台のそばに立ち、男の顔色を確認した。老人の顔から、いつもの飄々とした様子が消えている。
「今夜を越えれば、ひとまず命はつながる」
「目は覚まさないの?」
「今は眠らせておいた方がいい。体が回復に力を使っている。無理に起こせば、塞がりかけた傷も開きかねない」
リーンは男の顔を見つめた。血に濡れていた時には分からなかったが、整った顔立ちをしている。銀色の髪。閉じられた瞼。
身につけていた黒い鎧や剣から、ただの旅人ではないことは分かっていた。それでも、名前すら知らない。森で見つけた時には、話を聞ける状態ではなかったのだ。
「助かるよね」
「できることはした」
ローウェンの答えは淡々としていた。だが、それ以上の慰めを口にしないのは、リーンに無責任な期待を持たせないためだと分かっている。
その時。
店の外から、複数の馬が止まる音がした。
リーンは顔を上げた。こんな時間に、大勢の客が訪れることはまずない。
ローウェンの目が鋭く細められる。
「リーン。ここにいろ」
「でも――」
「いいから」
直後、扉が強く叩かれた。
「王国黒曜騎士団です。扉を開けていただきたい」
リーンの胸が大きく鳴った。
黒曜騎士団。王国最強と名高い、あの騎士団だ。
ローウェンは一瞬だけ寝台へ視線を向け、それから扉へ向かった。
「今開ける。扉を壊すなよ」
鍵を外し、扉を開ける。店の前には、黒い騎士服をまとった男たちが立っていた。
中央にいるのは、肩に届くほどの黒髪と銀縁の眼鏡が印象的な青年。
穏やかな顔立ち。だが視線は、店内のわずかな変化すら見逃さないほど鋭い。
「突然の訪問をお許しください」
青年は礼儀正しく一礼した。
「王国黒曜騎士団副団長、アルヴィン・アステリオスと申します。こちらに、負傷した銀髪の男性が運び込まれてはいませんか」
ローウェンはすぐには答えなかった。相手の服装、人数、立ち位置を確かめるように眺めている。
リーンはその背後から口を開いた。
「います」
「リーン」
「この人たち、あの人を探しに来たんでしょう?」
アルヴィンの視線が、リーンへ向けられる。
「彼は生きていますか」
「はい。ただ、まだ意識は戻っていません」
その言葉を聞いた瞬間、アルヴィンの表情がほんのわずかに緩んだ。
「会わせていただけますか」
ローウェンは小さく息を吐き、道を空けた。
「騒ぐなよ。ようやく容体が落ち着き始めたところなんだ」
「承知しています」
アルヴィンは同行者のうち二人だけを連れて店内へ入った。
寝台に横たわる男を見た途端、アルヴィンの後ろにいた騎士が息をのんだ。
「団長……!」
「団長?」
リーンは目を瞬いた。
アルヴィンは何も言わず、寝台のそばに膝をついた。
男の呼吸を確かめ、首元へ指を当てる。続いて、包帯の巻き方や寝台脇に置かれた薬草、血に染まった布へと視線を移した。
ひとつひとつを確かめるような、静かな動きだった。
「間違いありません。我が王国黒曜騎士団長、レオンハルト・ガーディナス様です」
「レオンハルト……様」
リーンは初めて知った男の名を、小さく繰り返した。
ガーディナス公爵家の名なら、リーンも知っている。
王国最強の騎士。
黒い鎧をまとい、氷のような蒼い瞳で敵を退ける英雄。
――氷蒼の黒騎士。
「えっ……この人が?」
思わず声が漏れた。
吟遊詩人の歌や街の噂では、もっと恐ろしく、近寄りがたい人物を想像していた。
けれど今、目の前にいるのは、森で血まみれになって倒れていた一人の負傷者だ。
アルヴィンの視線が、ほんの一瞬だけリーンへ向けられた。
驚いたようにも、納得したようにも見えたが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「団長は、どのような状態ですか」
「発見した時には、出血がひどく、体力もほとんど残っていませんでした。傷だけでなく、体内の魔力循環も乱れています」
「魔力循環が?」
「はい。原因までは分かりません。魔力汚染に似ていますが、私が知っている症例とは少し違います」
アルヴィンは返事をせず、同行していた魔導士へ視線を送った。それだけで意図を理解したのか、魔導士が一歩前へ出る。
「確認しても?」
リーンはローウェンを見た。
師はわずかに頷く。
「体に負担をかけない範囲ならな」
魔導士がレオンの胸元へ手をかざした。淡い魔法陣が浮かび、すぐに消える。
「……確かに、魔力の流れがひどく乱れています。しかも、団長自身のものではない魔力が微量に混ざっています」
室内の空気がわずかに張りつめた。アルヴィンは、すぐには口を開かなかった。
眠るレオン。
寝台脇の薬草。
血の染みた布。
そして、リーンとローウェン。
順番に視線を巡らせてから、ようやく尋ねる。
「治療を行ったのは、あなた方お二人ですか」
「はい。私と師匠です。申し遅れました、このリーフェ薬店を営んでいるリーンと申します。ここは、師匠のローウェンと二人で、村の診療じみたことなども普段から行っています」
「団長を発見したのは?」
「私です」
「場所は、湖の近くで間違いありませんか」
「はい」
質問は穏やかだった。
けれど、必要なことだけを一つずつ確かめていくその様子に、リーンは妙な息苦しさを覚えた。
責められているわけではない。それでも、嘘をつけばすぐに見抜かれてしまいそうだった。
アルヴィンは再び沈黙した。やがて、眠るレオンへ目を向けたまま口を開く。
「まずは、団長の命を救っていただいたことに感謝します」
リーンは少しだけ肩の力を抜いた。だが、続いた言葉は、決して軽いものではなかった。
「その上で、確認しなければならないことがあります」
アルヴィンの視線が、今度はまっすぐリーンへ向けられる。
「森には、未知の魔術痕跡が残されていました」
リーンの指先が、わずかにこわばった。
「団長の痕跡は湖畔で途切れ、その先には通常の転移術とは異なる魔力が残っていた。そして、その残滓はこの薬店の周辺まで続いています」
ローウェンが一歩前へ出る。
「何を疑っている」
「いいえ」
アルヴィンは即座に否定した。
「少なくとも、私はこの方が団長を害したとは考えていません」
「なぜ言い切れる」
「現場を見れば分かります」
アルヴィンは寝台脇に置かれた薬草や、血に染まった布へ目を向けた。
「団長は森で魔物と交戦し、瀕死の状態に陥った。その後、何者かがここへ運び、傷を洗浄し、止血し、回復術と薬で命をつないだ」
そして、静かに続ける。
「害するつもりであれば、これほど手を尽くす必要はありません」
リーンは張りつめていた息を、わずかに吐いた。
けれど、アルヴィンはそこで話を終えなかった。
「ただし、未知の魔術痕跡があったことも、団長の体内に正体不明の魔力が残っていることも事実です」
声音は柔らかいままだった。だからこそ、その言葉に逆らいがたい重みがあった。
「団長は王国の軍事を担う人物です。原因が分からない以上、すべてを確認しなければなりません」
「わしらを捕らえるつもりか」
「現時点で、罪を問うつもりはありません」
アルヴィンはまっすぐにローウェンを見た。
「しかし、お二人には王都まで同行していただきます」
「王都!?」
「団長の治療に関する説明と、森で起きたことを詳しく伺う必要があります。それに――」
アルヴィンはレオンの顔を見る。
「この状態で移動させる以上、治療を行った方に同行していただくのが最も安全です」
リーンも寝台へ目を向けた。
容体は安定してきたとはいえ、長距離の移動に耐えられる保証はない。ここに残れば、事情を知らない治療術士に任せることになる。魔力循環の異常を見落とされる可能性もあった。
「王都へ運ぶんですか」
「騎士団本部の医務院へ移します。揺れを抑える魔導車を手配しています」
「今すぐ?」
「団長の状態が許すならば」
リーンはローウェンを見た。
師は眉間にしわを寄せ、しばらく黙っていた。
本心では断りたいのだろう。王都へ行けば、シルフィーのことだけでなく、ローウェン自身の秘密にまで目を向けられかねない。
「あ、あの!ガーディナス様を発見したのは、私です。治療の腕は師匠には及びませんが、ここまできたら私一人でも大丈夫です」
「リーン」
ローウェンの声が、わずかに低くなった。
「師匠が王都に行けば、この村の診療ができなくなる。大丈夫、何もやましいことはないもの。説明だけして戻ってくる」
ローウェンは何も言わなかった。
ただ、リーンをじっと見つめる。その沈黙は、心配だと口にする代わりのようだった。
「アステリアス様も、治療の約束をしてる人を放っておいてまで二人とも王都に来い、なんて言いませんよね?」
にっこりとリーンがアルヴィンに投げかける。
「薬店を閉められない事情も理解しました。それなら、ローウェン殿には村へ残っていただきましょう」
アルヴィンは少し考えるようにしてから続けた。
「その代わり、リーンさん。団長が回復するまでは、あなたのお力をお借りします」
「私が?」
「はい。団長が回復されるまで、治療にご協力ください」
「師匠」
「……分かった」
ローウェンは大きく息を吐いた。
「見捨てるなど、できるはずがない」
レオンハルトの状態を考慮すれば、安全な設備のある場所へ移し、正しい知識のある者が世話をする必要がある。
「ありがとうございます」
アルヴィンが頭を下げた。
「ただし、二つ約束してもらおう」
ローウェンが低い声で告げる。
「移動中、治療についてはリーンの指示に従ってもらう。勝手に起こすことも、見知らぬ薬を使うことも許さない」
「お約束します」
「それと……大事な弟子だ。リーンを無事に帰してくれ」
その声には、いつもの飄々とした調子がなかった。
「もちろんお約束します。黒曜の名にかけて」
アルヴィンは迷わず答えた。
◇
ほどなく、店の前に黒い魔導車が到着した。
車体には黒曜騎士団の紋章が刻まれている。内部には負傷者を固定する寝台が備えられ、魔法によって揺れを抑える仕組みだった。
レオンは細心の注意を払われ、寝台ごと運び込まれた。リーンは必要な薬や器具をまとめ、車内へ乗り込む。
「師匠、行ってきます」
「あぁ。余計なトラブルは持ち帰るなよ」
「そんなことしません!」
扉が閉じられる直前、リーンは振り返った。
出発前のローウェンとの会話を思い出しながら、リーンは胸元へそっと手を添えた。
服の下には、小さなペンダントがある。
物心ついた頃から、ずっと身につけているものだった。
誰にもらったものなのか。
なぜ自分が持っているのか。
リーン自身、何も覚えていない。
それでも不思議と、これだけは手放してはいけないような気がして、幼い頃からずっと大切にしていた。
出発の直前、ローウェンもそれを確認していた。
『リーン、ペンダントは持ってるな』
『うん。ちゃんとつけてるよ』
『ならいい』
『師匠、これ、そんなに心配するもの?』
『お前が昔から大事にしてるものだろ。王都でなくしたなんて言ったら、探しに行くのは俺なんだからな』
『なくさないよ!』
『なら、肌身離さず持ってろ』
相変わらず、ぶっきらぼうな言い方だった。
けれどリーンには、それがローウェンなりの「気をつけて行ってこい」なのだと分かっていた。
指先で服の上からペンダントを確かめる。
いつもと変わらない、小さな重み。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
朝には、いつもと変わらない一日が始まると思っていた。薬を作り、客と話し、明日も同じように店を開ける。そんな日々が続いていくのだと。
けれど今、リーンは国中に名を知られた騎士団長とともに、王都へ向かおうとしている。
見知らぬ魔法。乱れた魔力。森で起きていた異変。そして、シルフィーの力を追って現れた騎士たち。
何かが動き始めている。
そんな予感が、胸の奥に冷たく広がっていた。
向かいの寝台では、レオンハルトが静かに眠っている。
「大丈夫」
誰に言い聞かせるでもなく、リーンは小さく呟いた。
「王都に着くまで、私が診ていますから」
その声が届いたのかは分からない。
眠り続けるレオンハルトの指先が、ほんのわずかに動いた気がした。
やがて魔導車はゆっくりと走り出す。暮れゆく街を離れ、王都へ続く道を進んでいく。
リーンはまだ知らなかった。
この日、森で救った一人の男が、自分の運命を大きく変えることを。
そして、自分が足を踏み入れようとしている王都で、長く眠っていた千年前の秘密までもが、静かに目を覚まそうとしていることを。




