プロローグ 運命の始まり
第二部、本編スタートです。
宜しくお願いします(*^^*)
すみません、ルナティス→ミルクティスになってました。修正しました。
――雨が降っていた。
仕事帰りの夜道。傘を打つ雨音を聞きながら、腕に抱えたキャリーバッグへそっと声をかける。
「……ミルク、もう少しだからね」
中にいるのは、一匹の白い猫。
いつもなら帰宅すると玄関まで迎えに来るミルクが、今日は部屋の隅で丸くなっていた。大好きなおやつにも見向きもしない。
心配になり、夜間診療をしている動物病院へ連れていくことにしたのだ。
「大丈夫。きっとすぐ元気になるから」
「……にゃあ」
弱々しい鳴き声が返ってきた。
「ふふ、いい子」
ミルクは少し変わった猫だった。
気まぐれで甘えん坊。それでいて、こちらの言葉をすべて理解しているかのような仕草を見せることがある。
落ち込んでいる時には、いつの間にか隣に座り、泣いている時には小さな前足で頬に触れてくれる。
そんなミルクが、たまらなく愛おしかった。
「……早く診てもらおうね!」
信号が青に変わる。
キャリーバッグを抱え直し、横断歩道へ足を踏み出す。
その時だった。
――キィィィッ!
耳をつんざくようなブレーキ音。
「……え?」
反射的に顔を上げた瞬間、眩しい光が視界いっぱいに広がった。
逃げなければ!
そう思ったのに、身体が動かない。
咄嗟にできたのは、腕の中のキャリーバッグを胸に強く抱き寄せることだけだった。
「ミルク……!」
激しい衝撃が走る。
身体が宙に浮き、何かが砕けるような音が響いた。
――ああ。
ミルクは、大丈夫だろうか。
薄れていく意識の中で、最後に思ったのは、そんなことだった。
* * *
――温かい。
痛みも、苦しさもない。
ただ、柔らかな光に包まれている。
「……ここは?」
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
床も壁も天井もなく、どこまでも白い世界が続いている。
自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からなかった。
「……私、どうなったの?」
確か、事故に遭ったはずだ。
車のライト、激しい衝撃。
そして――
「ミルク!」
慌てて周囲を見渡す。
けれど、どこにもあの小さな姿は見当たらない。
「ミルク……? どこにいるの?」
返事はなかった。
代わりに、どこからともなく柔らかな声が響いた。
『……目覚めましたか』
「っ!」
振り返ると、少し離れた場所に一人の女性が立っていた。
月の光を編み込んだような銀白色の髪。穏やかな眼差し。
その姿は、淡い光をまとっていた。
「……あなたは?」
『私はルナティス。精霊たちを見守る者、とでも思ってください』
「精霊……?」
聞き慣れない言葉に戸惑っていると、ルナティスは小さく微笑んだ。
『突然のことで、混乱しているのでしょうね』
「……あの、私……事故に遭って……」
『ええ』
「じゃあ、ここは……死後の…」
その先の言葉が出てこなかった。
まさか。
そんなはずはない。
けれど、ルナティスは静かに頷いた。
『あなたは、元の世界では命を失いました』
「……っ」
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
死んだ。
自分が?
あまりにも現実味のない言葉だった。
「……そんな」
震える声が漏れる。
「じゃあ、ミルクは……?一緒にいた私の猫は、どうなったんですか?!」
ルナティスの表情が、ほんの僅かに揺れた。
『……あの子はかろうじて生きています。後のことは、私に任せてください』
「……本当に?」
『ええ』
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、すぐに別の疑問が浮かぶ。
「……でも、私……死んだんですよね?」
『そうです。ですが、あなたを救ってほしいと、強く願った者がいます』
「……私を?」
『ええ。どうしても、あなたに生きてほしいと』
「誰が……?」
ルナティスは、すぐには答えなかった。
その眼差しには、どこか深い悲しみが宿っていた。
『……その願いに応えるためには、あなたを別の世界へ連れていくしかありませんでした』
「別の……世界?」
『元の世界にあなたの命を戻すことはできません。ですが、別の世界であれば、再び生きることができます』
あまりにも突拍子のない話だった。
けれど、この真っ白な空間そのものが、すでに常識では説明できない。
夢なのかもしれない。
死ぬ間際に見ている幻なのかもしれない。
そう思いながらも、不思議と彼女の言葉を疑う気にはなれなかった。
『……許してください』
「え?」
『あなたの意思を確かめることもなく、別の世界へ導くことになってしまいました』
ルナティスは、申し訳なさそうに目を伏せた。
『けれど、どうか……あなたには、生きてほしいのです』
「……」
『そして、今度こそ、あなたの思うように生きてください。願わくば、あなたには幸せに過ごしてほしい』
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
――今度こそ。
どうして、そんな言い方をするのだろう。
尋ねようとした時、ルナティスがそっと手を差し伸べた。
『私の加護を、少しばかり授けましょう』
淡い光が彼女の指先から零れ落ち、やがて小さな結晶となった。
透明な石の奥で、柔らかな金色の輝きが揺れている。
『これを、あなたに』
「……綺麗」
差し出された結晶を、両手で受け取った。
不思議と温かかった。
まるで、小さな命がそこに宿っているかのように。
「……ありがとうございます」
ルナティスはどこか寂しそうに微笑んだ。
『……どうか、その結晶を大切にしてあげてください。時が必要とすれば、あなた達を守ってくれるでしょう』
「はい?」
理由は分からなかった。
けれど、この小さな結晶を決して手放してはいけない。そんな気がした。
『そろそろ、時間です』
「え?」
足元から光が広がり始める。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、まだ何も……!」
『大丈夫』
ルナティスの声が、優しく響いた。
『あなたの歩む道に、幸せがありますように』
視界が白く染まる。
何かを尋ねようとした。
けれど、言葉になる前に、すべてが光に包まれた。
* * *
「……ん……」
頬を撫でる風が、ひどく冷たかった。
湿った土の匂い。木々のざわめき。
遠くから聞こえる鳥の鳴き声に、ゆっくりと目を開ける。
「……ここ、どこ?」
身体を起こすと、周囲には見知らぬ森が広がっていた。
背の高い木々。見覚えのない植物。
そして、空には日本では見たことのないほど大きな月が浮かんでいる。
「……嘘でしょ」
思わず頬をつねった。
「痛っ……」
どうやら、夢ではないらしい。
ふと、手の中に何かがあることに気づく。
「……あ」
小さな結晶だった。
柔らかな金色の光を宿した、透明な石。
ルナティスから渡されたものだ。
「……本当だったんだ」
そっと握りしめる。
家もない。お金もない。知り合いだっていない。
それどころか、ここがどこの国なのかさえ分からなかった。
「……どうしよう」
思わず、その場にしゃがみ込む。
けれど。
――あなたの思うように生きてください。
あの優しい声が、脳裏に蘇った。
「……生きろ、かぁ」
小さく息を吐く。
どうやら、もう一度生きる機会をもらったらしい。
「……とりあえず、頑張るしかないよね」
自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がった、その時。
――ざわり
周囲の空気が、微かに震えた。
「……え?」
足元に淡い光が走る。
それは一瞬で消えてしまったが、まるで何かが自分を中心に広がっていくような、不思議な感覚があった。
「……今の、何?」
首を傾げる。
けれど、答えなど分かるはずもない。
その時、遠くから足音が聞こえてきた。
――ガサッ。
「っ!」
反射的に振り返る。
茂みの向こうから、一人の青年が姿を現した。
月明かりを受けて輝く、炎のような赤い髪。
整った顔立ちに、鋭い眼差し。
その身には、見慣れない意匠の衣服をまとっていた。
青年は周囲を見渡すと、やがてこちらへ視線を向けた。
「……お前か?」
「え?」
「この辺りで、妙な魔力の揺らぎを感じたんだが……」
そう言って、青年は眉をひそめた。
「……女?」
その言葉に、思わず目を瞬かせる。
聞いたことのない言語。
――のはずだった。
けれど、不思議なことに、彼の言っている意味が分かった。
「こんな時間に、こんな場所で何をしている?」
「あ、あの……」
答えようとして、言葉に詰まる。
何をしているのか。
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだ。
「……迷子、です」
ようやく絞り出した答えに、青年が目を丸くした。
「迷子?」
「はい……たぶん」
「たぶん、とは何だ」
「私にも、よく分からなくて……」
情けない返事だった。
青年はしばらくこちらを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……事情がありそうだな」
そう言って、一歩近づいてくる。
思わず身構えると、彼は足を止めた。
「安心しろ。何もしない」
その声は、先ほどよりも柔らかかった。
「この森は夜になると危険だ。ここに一人でいるべきではない」
「……危険?」
「ああ。魔物が出る」
「……ま、もの?」
聞き慣れない単語に、背筋が冷たくなる。
魔物。
まさか、本当に。
ここは――
「歩けるか?」
青年が問いかける。
「あ……はい」
「なら、ついてこい。森を出るまで案内する」
そう言って背を向けかけた青年が、ふと振り返った。
「……名前は?」
「え?」
「お前の名前だ」
口を開く。
けれど、その瞬間。
――ざざっ。
景色が揺れた。
まるで水面に映った景色が、波紋によって崩れていくように。
青年の顔がぼやけていく。
「……待って!」
思わず手を伸ばした。
けれど、指先は何にも触れない。
赤い髪。
月明かり。
そして、こちらへ差し伸べられた手。
最後に見えたのは、青年の穏やかな微笑みだった。
――大丈夫だ。
そんな声が聞こえた気がした。
そして、すべてが闇に沈んだ。
* * *
「……っ!」
リーンは勢いよく目を開けた。
見慣れない天井。
柔らかな寝具。
窓の向こうから差し込む、朝の光。
「……夢?」
胸に手を当てる。
心臓が、まだ少し速く打っていた。
不思議な夢だった。
日本の街並み。
知らない森。
そして、赤い髪の青年。
どれも妙にはっきりしていて、まるで自分が本当に経験した出来事のようだった。
「……前世の記憶、なのかな」
ぽつりと呟く。
これまでも、日本で暮らしていた頃の夢を見ることはあった。
けれど、こんなふうに見知らぬ世界へ迷い込む夢は初めてだった。
それに――
「……私、前世でも異世界に飛んでたの!?」
思わず声が裏返る。
夢の中の自分は、確かに日本とは違う場所にいた。
見知らぬ景色。聞き慣れない言葉。そして、赤い髪の青年。
けれど、詳しく思い出そうとした途端――
「……っ、痛!」
ずきりと、こめかみに痛みが走った。思わず額を押さえる。
さっきまであんなにはっきりしていた光景が、霧に包まれるように曖昧になっていく。
(……何だったんだろう、今の)
リーンはそっと目を閉じた。
すると、夢の中で聞いた言葉だけが、不意に蘇った。
――安心しろ。何もしない。
赤い髪の青年。
顔はもう、うまく思い出せない。
ただ、不思議なほど優しい声だけが、耳の奥に残っていた。
「……変なの」
小さく笑って、寝具から身体を起こす。
昨日、グランシェル帝国のロンダーク伯爵領に到着し、街の宿で一夜を過ごした。
慣れない場所で眠ったせいだろうか。
リーンは寝台から降り、窓辺へ歩み寄った。
薄いカーテンを開くと、朝日に照らされた街並みが目に飛び込んでくる。
赤茶色の屋根が連なり、その向こうには見慣れない尖塔がそびえていた。
――グランシェル帝国
リーンはそっと窓枠に手を置いた。
(……本当に、不思議な夢だったな)
日本で暮らしていたはずの自分が、さらに別の世界へ迷い込んでいた。
そして、夢の中で出会った赤い髪の青年。
なぜだろう。
この国に来てから、ずっと忘れていた何かが、少しずつ近づいてくるような気がする。
けれど、胸の奥に残った奇妙な懐かしさだけは、いつまでも消えなかった。
更新ですが、2〜3日ほどになると思います。
宜しくお願いします(*^^*)




