幕話 炎の国の異変、皇子と令嬢の一幕
――グランシェル帝国、帝都イグレシア。
「……これも違うわね」
ティアは古びた本を閉じ、小さくため息をついた。
帝都の裏通りにある、小さな古書店。
天井近くまで積み上げられた本棚には、年代も分からない古い書物がぎっしりと並んでいる。
「お嬢さん、どうだい?探していたものは見つかったかい?」
奥から顔を出した店主に、ティアは首を振った。
「残念だけど、違ったみたい」
「そうかい。精霊について書かれた古い本なんて、滅多に入ってこないからねぇ」
「そうね。でも、珍しい記述があるって聞いたものだから」
今回、この店を訪れたのは、冒険者ギルドで耳にした噂がきっかけだった。
古い精霊信仰について記された書物が、帝都の古書店に持ち込まれたという。
もしかしたら、長年探し続けているものの手がかりになるかもしれない。
そう期待して足を運んだのだが、内容は各地に伝わる精霊信仰をまとめた、ごく一般的なものだった。
――精霊王
ティアが探しているのは、その存在を示す記録だった。
グランシェル王家には、代々受け継がれてきた使命がある。
それは精霊王アグニス様を見つけること。
ティア自身は皇族ではない。
けれど、十六歳で成人を迎えたとき、母様からこの国が置かれている現状と、迫りつつある危機について聞かされた。
大地から失われつつあるマナ。
姿を消していく精霊たち。
そして、少しずつ衰えていく国の豊かさとその先にある崩壊を。
そのすべてを知ったとき、ティアは決めたのだ。
だが、その所在はおろか、どのような姿をしているのかさえ、確かな記録はほとんど残されていなかった。
古い文献を調べ、冒険者ギルドで噂を集め、時には酒場や食堂で旅人たちの話に耳を傾ける。
貴族の令嬢としては、あまり褒められた行動ではないのかもしれない。
それでも、屋敷で待っているだけでは何も分からない。
「また何か入ったら教えてちょうだい」
「ああ、もちろんさ。あんたみたいな若い娘が古い本に興味を持ってくれるなんて、こっちも嬉しいからね」
「ふふ。ありがとう」
ティアは店主に礼を告げ、古書店を後にした。
外へ出ると、乾いた風が頬を撫でた。
空を見上げると今日も雲ひとつない。
グランシェルでは、もう随分とまとまった雨が降っていなかった。
帝都の街並みは相変わらず賑やかだが、以前と比べれば、どこか活気が失われているようにも感じる。
露店に並ぶ野菜は少なく、値札を見て顔を曇らせる人々の姿があった。
「……また値上がりしているのね」
干ばつによる不作は、地方だけの問題ではなくなりつつある。
王宮へ届く報告でも、各地の収穫量が落ちていることは知っていた。
けれど、こうして街を歩くと、数字だけでは見えてこないものがある。
――このままでは、いけない
そう思いながら大通りへ出た時だった。
「……あら?」
見覚えのある青年が、野菜を並べた露店の前に立っていた。
地味な上着に、目立たない色の外套。
普段の華やかな装いとは違うものの、整いすぎた顔立ちと、隠しきれない品のよさは相変わらずだった。
「……また来ているのね」
声をかけると、青年が振り返った。
「お、ティアか。奇遇だな」
「奇遇だな、じゃないわよ。今日は何をしに?」
「ただの買い物だ」
「……あなたが?」
「ああ」
「相変わらず、嘘が下手ね」
「そうか?」
「少なくとも、私には通用しないわ」
ティアにあしらわれるように言われ、その青年は困ったように微笑んだ。
その笑顔も、まるで物語に登場する王子様のように完璧だった。
――本当に、胡散臭い。
もっとも、彼が時折お忍びで街を訪れることは、以前から知っていた。
民の暮らしを自分の目で確かめるためだ。
皇子様然とした胡散臭い笑顔はともかく、国を思う真面目さだけは認めている。
「それより、お前こそ何をしていたんだ?」
「ちょっと調べ物よ」
「また精霊のことか?」
「ええ。古い文献が見つかったって聞いたんだけど、期待外れだったわ」
「相変わらず熱心だな」
「当然でしょう。私たちには、果たさなければならない役目があるんだから」
青年は僅かに表情を改めた。
「……そうだな」
「それで、何か分かったのか?」
「いいえ。相変わらず、居場所どころか、確かな記録すら見つからないわ」
「……そうか」
「冒険者ギルドにも寄ってみるつもりだけど、あまり期待できそうにないわね」
「酒場にも顔を出していると聞いたぞ」
「情報が集まる場所だもの」
「お前、本当に貴族の令嬢なのか?」
「あら、失礼ね」
ティアは胸を張った。
「必要な情報を得るためなら、場所なんて選んでいられないわ」
「……まるで諜報員だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
青年は苦笑した。
「それで、あなたは?」
ティアは露店へ視線を向けた。
「今日は市居の市場調査かしら?」
「それもある」
「……それも?」
「実際に買い物をしてみれば、何がどれだけ変わったのか分かるだろう、物も人も」
「報告書では足りないの?」
「報告書には数字しか書かれていないからな」
その言葉に、ティアは少しだけ表情を和らげた。
「……あなたが皇太子になる頃には、少しは暮らしやすい国になっているといいわね」
「するつもりだ」
「でしょうね」
迷いのない返答に、ティアは小さく笑った。
「そういうところは、信用しているわ」
「そういうところは、か」
「ええ」
「……婚約者候補に対する評価としては、少々厳しくないか?」
「だって、私たち、お互いにその気はないでしょう?」
「……否定はしない」
青年、この国の皇子であるフェリクスは肩を竦めた。
「もっとも、お前には別に想う相手がいるようだが」
「……!」
ティアの表情が僅かに強張る。
「誰のことかしら?」
「さあ。それを知っていたら、わざわざ聞かない」
「……意地悪ね」
「お前ほどじゃないさ」
涼しい顔で微笑むフェリクスを見て、ティアは改めて思った。
やっぱり、この男は胡散臭い。
「……あなたはどうなのよ」
「何が?」
「誰か、気になる人はいないの?」
「残念ながら、今のところは」
「でしょうね」
「即答か」
「だって、あなたって誰にでも優しいじゃない」
「それが悪いことか?」
「悪くはないけど、本当に好きな人ができた時、どうするつもりなのかしら」
フェリクスは少しだけ考えるように視線を落とした。
「……どうするだろうな」
「考えたこともないの?」
「国のために必要なら、結婚相手も陛下の意向に従うつもりだ」
「……本当に真面目ねぇ」
「お前に言われたくない」
ティアは苦笑した。
自分もまた、高位貴族として同じ覚悟を持っている。
王家の使命を前にすれば、個人の想いなど後回しにしなければならない。
「ただ……」
フェリクスがぽつりと呟いた。
「どうせなら、一度くらいは、自分で選んだ相手と生きてみたいとは思う」
「……意外ね」
「そうか?」
「ええ。あなた、そういうことには興味がないと思っていたわ」
「酷いな。俺だって人間だぞ」
「ふふ、そうね」
ティアは微笑んだ。
彼女にも、心に決めた人がいる。けれど、その想いが叶うとは限らない。
「おや、兄さん。今日は奥さんと買い物かい?」
突然、露店の女主人が二人に声をかけてきた。
「ち、違います!」
ティアが即座に否定すると、フェリクスはにこやかに微笑んだ。
「残念ながら、まだ妻ではないんだ」
「ちょっと!」
「あらまあ!じゃあ恋人かい?」
「……そんなところだ」
「フェリクス!」
ティアが小声で抗議すると、フェリクスは何食わぬ顔で野菜を一つ手に取った。
「ところで、随分と値段が上がったようだね」
「ああ、そうなんだよ。雨が降らないもんだから、畑はからっから。仕入れも減る一方さ」
女主人は困ったようにため息をついた。
「それに、最近は物騒でねぇ」
「物騒?」
「ああ。スリが増えたと思ったら、今度は人が突然いなくなるって噂まであるんだよ」
フェリクスの手が僅かに止まった。
「……人が?」
「そうさ。若い娘だけじゃない。男もいなくなってるって話だよ。攫われたんじゃないかって、みんな怖がってる」
「……そうか」
「兄さんも気をつけなよ。あんた、顔がきれいだからねぇ。悪い奴に目をつけられたら大変だよ」
ティアは思わず吹き出しそうになった。
フェリクスは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。気をつけるよ。ありがとう」
「お嬢さんもね!」
「ええ、ありがとうございます」
二人は買い物を済ませ、店を離れた。
しばらく歩いたところで、フェリクスが口を開く。
「ティア、お前も色々と気をつけろよ」
「……ふん。誰に言ってるのよ?」
ティアは得意げに胸を張った。
「冒険者としてもAランク、魔導師としても一流の、このわたくしに!」
「……そうだったな」
「何よ、その反応」
「いや。お前なら攫う側が気の毒だと思っただけだ」
「失礼ね!」
フェリクスが小さく笑う。
だが、すぐにその表情から笑みが消えた。
「……冗談はさておき、本当に気をつけろ」
「……」
「相手がただのスリならいい。だが、人が突然消えているというのは気になる。もし、例の奴らだったら…」
ティアも表情を引き締めた。
「……そうね」
干ばつによる不作。
高騰する物価。
増え続ける犯罪。
そして、理由の分からない失踪事件。
帝都の街並みは、以前と変わらないように見える。けれど、その内側では確かに何かが変わり始めていた。
「……この国は、まだ持ちこたえられると思うか?」
フェリクスが静かに尋ねた。
ティアが彼を見上げると、その横顔には、いつもの完璧な笑顔はなかった。
そこにいるのは、いずれ国を背負う者として、民の未来を案じる青年だった。
「そのために動いているんでしょう、私たちが。この国を守るために」
「……そうだな」
フェリクスは僅かに笑った。
二人が見上げた空には、雲ひとつなかった。
雨の気配は、今日もない。
そして、帝都に広がり始めた不穏な噂もまた、消える気配を見せていなかった。
本編は明後日スタートです(*^^*)




