ep.59 風の精霊王
ガーディナス邸へ戻ったレオンハルトとアルヴィンは、リーンとローウェンを執務室へと呼んだ。
ダミアンから聞いた話で、どうしても確認しておきたいことがあったからだ。
「お帰りなさい、レオン様。アルヴィンさん」
「ああ」
「ただいま戻りました」
新たな怪我をしていないことを確認して、リーンは小さく息を吐いた。
「何もなかった。大丈夫だ」
「……なら、よかったです」
視線が合い、リーンは慌てて目を逸らした。自分の気持ちに気づいてしまってから、こういう瞬間が増えた気がする。
「それで?」
ローウェンの声に、リーンは我に返った。
「わざわざ俺まで呼んだってことは、何か分かったんだろ」
「ええ」
アルヴィンが答える。
「ダミアン・アストレア卿の監察卿としての権限は停止されました。現在は王城内で身柄を預かっています。ただ、すべてを聞き出せたわけではありません」
アルヴィンは、ダミアンが最上位と思われる魔法契約を結んでいたことを説明した。
「命を代償にする契約か。そりゃ無理に聞き出すのは難しいな」
「はい。ですが、いくつか気になる話を聞くことができました」
アルヴィンは一度言葉を切った。
「千年前の歴史についてです。かつて人と精霊が共に暮らしていた時代、現在と似たような魔物の異常発生やマナの乱れが起きていたそうです。そして、その話の中で、世界樹の存在が出てきました」
ローウェンは何も答えなかった。
「師匠?世界樹って、あの昔話に出てくる大きな木のことですよね?本当にあったんですか?」
「……ああ。存在する」
「え? 今も、どこかにあるんですか?」
「そうだな」
あまりにもあっさりとした返答に、リーンは目を丸くした。
「じゃあ、どこに?」
「それは知らん。俺が知っているのは、世界樹が実在するってことくらいだ。シルフィーと契約しているからな。あいつから聞いたこともある。だが、世界樹については、俺にも分からないことが多い。それに、知っているからといって、何でも話していいわけじゃない」
「何か制約があるのですか?」
「魔法契約のようなものじゃない。ただ、精霊が守っているものを、俺の判断で勝手に明かすわけにはいかないんだ」
「……なるほど。ダミアン卿は、世界樹には大地のマナを循環させ、穢れを浄化する力があると話していました。それが事実なら、現在問題になっている魔力汚染にも、何らかの関係があるのではないでしょうか」
「……大地の浄化、か。だが、世界樹については俺から答えられることは少ない。詳しく知りたいなら、精霊に聞くしかないだろうな」
ふわりと室内の空気が揺れた。柔らかな風が巻き起こり、見慣れた翠の髪が揺れる。
『あら、世界樹の話?』
「シルフィー!」
『ふふ。ずいぶん懐かしい名前が聞こえたから、来ちゃった』
「シルフィーも世界樹を知っているんですよね?」
『もちろんよ。ちゃんと存在しているわ』
「じゃあ、どこに――」
『でもね、リーン。それ以上は、話せないわ』
「……え?」
『世界樹のことはね、誰にでも話していいものじゃないの。今はまだ、その時じゃないわ。ごめんね、リーン。でも、こればかりは教えられないわ』
「……分かりました」
その様子を、アルヴィンは不思議そうに見つめていた。先ほどからリーンは、誰もいない空間に向かって話しかけ、時折驚いたり困ったような表情を浮かべている。
「……ローウェン殿。今、リーンさんはシルフィー殿と話しているのですよね?」
「ああ。そういや、お前たちには聞こえてなかったな」
「師匠、今さらですか!?」
「忘れてた」
悪びれもなく答えると、ローウェンは片手を上げた。
「面倒だな。少し繋ぐぞ」
指先から淡い光が零れる。ふわりと風が揺れ、レオンハルトとアルヴィンの周囲を一度だけ通り抜けた。
「これで聞こえる」
『あー、聞こえるー?はじめまして、でいいのかな?シルフィーよ』
「……本当に、聞こえる」
『ふふ。レオンの声は何度も聞いてるけどねー』
「……俺を知っているのか?」
『もちろん。リーンの周りによくいるもの』
「シ、シルフィー!余計なことは言わなくていいです!」
「これなら話が早いだろ」
アルヴィンはまだ驚きを残しながらも、すぐに表情を戻した。
「……では、シルフィー殿にも一つお聞きしてよろしいでしょうか。世界樹について、何かご存じなのですか?」
『知ってるわよ。でも、世界樹については話せないの。ただの大きな木じゃないのよ。それだけは覚えておいて』
少なくとも、世界樹が実在することは確かめられた。だが、それがどこにあり、現在の異変とどう関係しているのか。肝心な部分は、依然として謎のままだった。
「……それでは、話を変えましょう。現在、各国で起きている異変についてです。グランシェルでは干ばつと不作。サイルードでは地脈の乱れ。ミスティでは水脈異常。レイガルドでも魔物の凶暴化が確認されています」
『ああ、そのことね』
「これらは、すべて魔力汚染によるものなのでしょうか」
『んー、全部がそうとは限らないわね。精霊たちの力が弱くなれば、土地にも影響が出るもの。特に、精霊王たちに何かあったら大変よ』
「……精霊王?」
『あら、知らない? 火、水、土、風。それぞれの精霊たちを束ねる存在よ。私もその一人だもの』
室内が静まり返った。
「…………え?」
数秒遅れて、リーンの口から声が漏れた。
「ええええええっ!? シルフィーが!? 精霊王!?」
『うん』
「うん、じゃないですよ!」
『だってリーン、聞かなかったじゃない』
「聞くわけないでしょ!?普通、自分の知ってる精霊が精霊王かもしれないなんて考えないよ!」
『そっかぁ』
「もう……!」
リーンは頭を抱えた。アルヴィンも言葉を失い、レオンハルトですら、珍しく目を見開いていた。
「……ローウェン殿。ご存じだったのですか?」
「知ってるに決まってるだろ。契約してんだから」
「師匠、聞いてないよ!」
「聞かれなかったからだ」
リーンはがっくりと肩を落とした。
「……シルフィー殿。精霊王とは、具体的にどのような存在なのでしょうか」
『んー? 精霊たちにとって、力の中心みたいなものかしら。私たちが弱れば、同じ属性の精霊たちも影響を受けるわ。力が不安定になったり、数が減ったりすることもあるの』
「それが、土地の異変につながるのですね」
「精霊は世界のあちこちに存在してる。風、水、火、大地。細かく分ければもっといるが、大きく分ければその四つだ」
ローウェンが口を挟んだ。
「精霊は土地へ力を巡らせ、自然の均衡を保つ役割も担っている。だから、その頂点にいる精霊王が弱れば、影響は少しずつ広がっていく」
「でも、レイガルドでは、そこまで大きな異変は起きていませんよね?」
「それはまあ――シルフィーが踏ん張ってくれてるからな」
「シルフィーが……」
リーンは改めて、ふわふわと宙を漂う翠の精霊を見上げた。いつもと変わらず呑気で、楽しそうに揺れている。さっき「精霊王だ」と聞かされたばかりだが、やはり目の前にいると、国の自然や均衡を一身に支えている偉大な存在だとは、にわかには信じがたい。
『なぁに?』
「……いえ。本当に、すごい精霊だったんだなって思って」
『ふふ。今さら?』
「今さら実感したんですよ!」
「では、他の精霊王についてもご存じなのですか?」
『いるのは分かるわよ。気配もなんとなーく感じるし』
「では、交流も?」
『ないない。だって別に会う用事ないもの』
「同じ精霊王同士でも?」
『うん』
「そういうもんだ」
ローウェンが口を挟んだ。
「精霊を人間と同じように考えるな。奴らは本来、人とは価値観も考え方も違う。精霊同士だから仲間だとか、同じ精霊王だから親しくするとか、そういう感覚もほとんどない。気に入るか、気に入らないか。極端に言えば、それだけだぞ」
するとシルフィーが、にこりと笑ってリーンの周りをくるりと回った。
『私はリーン、好きよ? 面白いし』
「……面白いってなに?」
『それだけじゃないけどね』
リーンには、やっぱり精霊の考えていることはよく分からない。
「では、他の精霊王に異変が起きているかどうかまでは、分からないということですね」
『んー……全部は分かんない。でも――グランシェルの奴は、ちょっと気になるかなぁ。少し前から気配が弱いのよねー』
「弱い?」
『消えてはいないわよ。でも、前よりずっと遠い感じ。炎の子たちに聞いた話だと、ずーっと引きこもってるらしいわ』
「……精霊王が、引きこもるんですか?」
『なんかねー、気に入ってた人間が死んじゃったみたい。それから人間のことが嫌になったのか、興味なくなったのか知らないけど、全然出てこなくなったんだって』
「いつ頃の話です?」
『さあ? 人間の時間なんていちいち数えてないもの』
「だから言っただろ。人間と同じ感覚で考えるな」
『でも最近は、前より気配が弱くなってるわよ。寝てるだけならいいんだけどねー』
アルヴィンの表情が変わる。
「グランシェル……」
その呟きに、レオンハルトが視線を向けた。
「アル」
「はい。先日お話しした術式の件――あれも、グランシェルです」
黒い核。エヴァルトの身体を蝕んでいた術式。レオンハルトの右腕に残った毒。それらは完全に同じものではない。だが、ローウェンによれば、どれも魔力へ人為的に干渉した痕跡があった。そしてアルヴィンは、その構造の一部に似た古い術式を見つけている。
「グランシェルで研究されていたものと似ている、と言っていたな」
「はい。現在、外交官を通じて詳しい資料を取り寄せています。術式を生み出した魔導師についても調査を依頼していますが……」
まだ返答はない。だが、偶然と片づけるには、重なりすぎていた。
干ばつ。不作。増加する魔物被害。古い術式。他国の暗殺者。そして――弱まりつつある、炎の精霊王。
「……随分と揃ってきたな」
「ああ」
レオンハルトが自分の右手を見る。まだ、指先は思うように動かない。その手を見た瞬間、リーンの胸が締めつけられた。
「レオン様……」
思わず呼ぶと、レオンハルトが顔を上げた。
「どうした」
「……いえ」
本当は、言いたいことがあった。早く治したい。もう一度、この人が思うように剣を握れるようにしたい。そして――もしグランシェルへ行くのなら、その時は。
「アルヴィン。資料はいつ届く」
「早ければ、明日には」
「分かった」
レオンハルトは短く答え、もう一度右手へ視線を落とす。
「……グランシェルで何が起きている」
その国の名が、静かに部屋へ落ちた。
これまで別々に見えていたものが、少しずつ一つの場所へ集まり始めている。
千年前の異変。世界樹の存在。精霊王。黒い核。そして、レオンハルトの右手に残された毒。
その先にあるのは――炎の国、グランシェル。
シルフィーの正体、そして炎の精霊王の異変。
バラバラだった手掛かりが、すべて「グランシェル」という一つの国へと集約してきました。
レオンハルトの腕の毒を治すため、そして世界の異変を突き止めるため、物語は大きく動き出します。
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