ep.52 異形の薬術師
異形の顔が、ゆっくりとリーンへ向く。
一瞬だけ、濁った瞳の奥で何かが揺れたように見えた。
「エヴァルトさん……?」
次の瞬間。
「――リーン!」
レオンハルトがリーンを抱えて横へ跳んだ。
直後、巨大な前脚が二人のいた場所へ叩きつけられる。
――ドォン!
地面が大きく抉れ、土と小石が弾け飛んだ。
「きゃっ……!」
「下がっていろ!」
レオンハルトがリーンを離すと、すぐさま剣を抜いた。
怪物は止まらず、虎のような四肢で地面を蹴り、怒り狂ったように再び襲いかかる。
「待って! エヴァルトさん!」
「リーン、下がるんだ!」
「でも、今、名前に反応して――」
「中身まで無事とは限らん!」
ローウェンが叫ぶ。
怪物の前脚が横薙ぎに振るわれ、レオンハルトが剣で受け止めた。
ガキィン――!
重い衝撃音が森に響く。
「くっ……!」
レオンハルトの身体が僅かに押し戻される。
そこへ長い尾がしなった。先端の蛇が大きく口を開き、レオンハルトの首元へ襲いかかる。
「右だ!」
ローウェンの声でレオンハルトが身を屈める。蛇の牙が頭上を掠めた。すぐさま剣を振り上げるが、怪物は大きく跳び退いた。
着地と同時に、地面を抉るように爪を立てる姿。低い唸り声は獣そのものだった。
「……ひどい」
リーンが息を呑む。
人だった頃の姿は、ほとんど残っていない。
虎のような巨体。黒い鱗。蛇へと変わった尾。その全身を、黒紫色の筋が脈打つように走っている。
「レオン様……あれ、本当にエヴァルトさんなんですよね?」
「おそらくな」
レオンハルトは異形から目を離さない。
「身体そのものを作り変えられてる」
ローウェンが目を細めながら言った。
「元に戻せないんですか?」
「……無理だな。人間だった頃の身体が、ほとんど残ってない」
「そんな……」
「今は自分の身を守れ!」
怪物が咆哮し、再び、レオンハルトへ飛びかかった。爪と剣が激突する。一撃、二撃、三撃と。
レオンハルトが受け流しながら間合いを詰める。青白い魔力を纏った剣が、怪物の肩を切り裂いた。
――ッガァァァァ!!
耳をつんざくような咆哮。怪物が大きく暴れ、レオンハルトを振り払う。
「レオン様!」
「来るな!」
地面を滑りながらも、レオンハルトはすぐに体勢を立て直した。
レオンハルトは異形から視線を逸らさないまま、首元のアミュレットを掴んだ。
銀色のそれには、黒曜石が嵌め込まれている。
「――アルヴィン、グレン」
短く名を告げ、魔力を流し込む。
黒曜の剣をかたどった紋章が、一瞬だけ淡く光った。二人だけに送った、秘匿の緊急信号。これで異変が起きたことは伝わる。
(アルなら、この意味を察するはずだ)
レオンハルトはアミュレットから手を離し、再び剣を構えた。
『ロー!』
シルフィーが叫ぶ。
怪物が大きく仰け反っていた。蛇の尾が地面を激しく叩く。喉の奥が、不気味に膨らんでいく。
「……何か来るぞ!」
ローウェンが叫んだ。
次の瞬間、怪物の口から、黒紫色の液体が勢いよく噴き出した。
飛沫が弾け――一瞬で霧状に広がる。
「リーン!」
レオンハルトがリーンを抱き寄せ、その前へ出た。
片手を地面へ叩きつける。
「――凍てつく城壁よ、すべてを阻め。《氷晶城壁》!」
轟音とともに大地が凍りつき、幾重もの巨大な氷晶が突き上がった。
黒紫色の飛沫が、氷の城壁へ激しく叩きつけられる。
ジュッ――!
氷の表面から白煙が上がった。
だが――
「おい、横だ!」
ローウェンが叫ぶ。レオンハルトが振り向いた時には、もう遅い。
氷壁に叩きつけられた毒液が細かな霧となって弾け、左右から一気に流れ込んできた。
さらに、黒紫色の霧が背後へまで回り込む。
「息を止めろ!」
レオンハルトがリーンの頭を胸元へ押し込んだ。
アイリスも咄嗟に口元を覆う。
「師匠……!」
「動くな!」
前には氷壁、左右からは毒霧。
そして背後にも――
「くそっ……!」
逃げ場がない。黒紫色の霧が、一気に四人へ襲いかかった。
『もう』
場違いなほど落ち着いた声がした。ふわりと、シルフィーの長い緑の髪が舞い上がる。
『こんなの――』
迫り来る毒霧を前に、シルフィーは腰へ片手を当てた。
そして、にっこりと笑う。
『私がいるのに、可愛い子たちに浴びせるわけないでしょ!』
すっと片手を払うと
――風が爆ぜた
「きゃっ!」
凄まじい風が渦を巻き、リーンたちを中心に一気に広がった。
迫っていた毒霧が弾き返される。風はそのまま四人の周囲を高速で巡り、透明な膜のように包み込んだ。
押し寄せる黒紫色の霧が触れるたび、ことごとく外側へ吹き飛ばされていく。
「……シルフィー!」
『ふふん』
シルフィーが得意げに髪を払う。
『こんなの簡単よ?』
「……すごい」
『でしょう?』
「調子に乗るな」
『ローってば、ほんっと可愛くない』
「後にしろ」
ローウェンの金の瞳は、既に怪物を捉えていた。
毒を一気に吐き出した反動か。異形の巨体が僅かに沈んでいる。
「――おい!」
「分かっている」
レオンハルトがリーンから腕を離す。
「ここにいろ」
「レオン様……!」
風の膜が、一瞬だけ開いた。レオンハルトが飛び出し、青白い魔力を纏った剣を手に、一直線に異形の懐へ駆けた。
「――ッガァァァァ!」
怪物が爪を振り下ろす。レオンハルトは身体を捻り、紙一重でかわした。
続けて蛇の尾が迫り、勢いを殺せなかった蛇の牙が背後の木を砕いた。
だが、レオンハルトは振り返らない。青白い光が剣へ集まっていく。
異形の胸元。人であった頃の名残を僅かに残す、その場所へ。
「――終わりだ」
剣が閃いた。
青白い光が夜の森を切り裂く。
「――――ッ!!」
異形の身体が大きく仰け反った。そのまま、数歩よろめくと――
地響きとともに崩れ落ちた。
突如現れたキマイラを前にしても、レオンハルトの剣は揺るがなかった。
王国最強と謳われる騎士団長。
その呼び名が、決して大袈裟ではないことを思い知らされる。
(格好いい……!!)
思わず見惚れかけて――リーンは、はっと我に返った。
「あ!……エヴァルトさん!」
リーンが駆け出そうとする。
「待て」
ローウェンが腕を掴んだ。
「まだ近づくな」
「でも……」
怪物は動かない。荒かった呼吸も、次第に弱くなっていく。
レオンハルトは剣を構えたまま、慎重に様子を窺っていた。
やがて、ローウェンが小さく息を吐く。
「……もう動かないか」
「エヴァルトさん……」
リーンはゆっくりと近づいた。異形の顔は、もうほとんど動かなかった。
「……エヴァルトさん」
リーンが呼びかける。
「聞こえますか?」
反応はない。
「どうして、こんな……」
リーンは唇を噛む。
「誰が、あなたをこんな姿にしたんですか?」
その時、怪物の指が、僅かに動いた。
「……!」
濁っていた瞳が、ほんの少しだけ開く。
その奥で一瞬だけ――人の意識が戻ったように見えた。
「エヴァルトさん?」
「……ア……」
「え?」
唇が震える。
「……ル……」
掠れた声にリーンは耳を澄ませた。
「何ですか?」
「……ア……ル……ア……」
「……アルア?」
それきり、瞳から光が消えた。
「エヴァルトさん……?」
返事はなく、森に静寂だけが落ちた。
「……アルア」
リーンは小さく繰り返す。
「何のこと……?」
「分からん」
ローウェンが答える。リーンは異形となったエヴァルトを見つめた。
何を伝えたかったのだろう。人の名前なのか、場所なのか。
それとも――
その時だった。
『リーン!』
シルフィーの鋭い声。
「――っ!」
動かなくなっていた蛇の尾が、本体とは別の生き物のようにはね上がった。
大きく口を開け――
真っ直ぐリーンへ襲いかかる。
「リーン!」
視界が銀色に染まった。
レオンハルトがリーンを突き飛ばした、次の瞬間、蛇の牙がレオンハルトの右腕へ深く食い込んだ。
「――っ!」
「レオン様!!」
アイリスが素早く駆け寄り、剣を振った。蛇の顔は地面へ落ち、黒紫色の血が散った。
「レオン様、大丈夫ですか!」
「レオン様の腕が……!」
「……リーン」
「え?」
「怪我は……ないか」
リーンは目を見開いた。
こんな時まで――
「私は大丈夫です!それよりレオン様の腕が――」
「……そうか」
僅かに安堵したように、レオンハルトの表情が緩む。
「よかった」
その直後。
「……ぐっ」
レオンハルトが右腕を押さえ、僅かによろめいた。
「レオン様!」
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません!」
リーンはすぐにレオンハルトの腕を取った。
傷口から流れる赤い血に、黒紫色が混じっている。
「……待って」
それだけではない。
傷口の周囲から、細い黒紫色の筋が脈打つように広がり始めていた。
「毒……!」
「これくらい――」
「動かないでください!」
リーンは腰の小袋を探り、細い紐を取り出した。
傷は右腕。その上部へ紐を回し、血の巡りを抑えるように結ぶ。
「毒が回るのを少しでも遅らせます」
完全に止められるとは思っていない。それでも、何もしないよりはいい。
「師匠!」
「ああ」
ローウェンもすぐに駆け寄った。
「見せろ」
傷口を確認した瞬間、その表情が変わった。
「……まずいな」
「師匠?」
「かなりまずい」
ローウェンが黒紫色の筋へ指を当てる。金の瞳が険しく細められた。
「毒そのものに魔力が混ざってる。血だけじゃない。魔力の流れにまで入り込んでやがる」
「魔力の流れに……」
リーンの表情が強張る。
「じゃあ、この処置だけじゃ……」
「多少は意味がある。だが、こいつはそれだけじゃない」
ローウェンは傷口から伸びる黒紫色の筋を睨んだ。
「魔力の経路にまで絡みついてる。このままじゃ時間稼ぎにしかならん」
「そんな……」
「解毒には薬がいる。それも、そこらの解毒薬じゃ駄目だ」
「じゃあ……」
「屋敷へ戻るぞ。あそこなら薬も設備もある。足りないものは俺がどうにかする」
「はい!」
リーンは即座に頷いた。
「レオン様、聞こえますか? すぐお屋敷に戻りますから」
「……大袈裟だ」
「大袈裟じゃありません!」
思わず声が大きくなる。
「これは、本当に危ない毒なんです!」
「……そうか」
レオンハルトはいつものように返そうとした。
だが――
ふらりと身体が傾く。
「レオン様!」
リーンが咄嗟に身体を支えた。
「しっかりしてください!」
「……すま…ない」
「レオン様……?」
次の瞬間、レオンハルトの全身から力が抜け、リーンの腕の中へ崩れ落ちた。
「レオン様!レオン様!!」
「リーン、そのまま支えてろ!」
「はい!」
ローウェンが立ち上がる。
「すぐにガーディナス家へ飛ぶ。薬が必要だ、急ぐぞ」
その声には、一切の迷いがなかった。
『――ロー!』
シルフィーが鋭く叫ぶ。
『まだいる!』
「……何?」
森の奥でひとつ、またひとつ、気配が動いた。
アイリスの表情が変わる。
「……囲まれています」
木々の向こうに、人影が浮かび上がった。
一人ではない。二人、三人。
さらに、その奥にも。こちらを窺うように、静かに包囲を狭めている。
リーンは意識を失ったレオンハルトを抱きしめた。
「……こんなときに」
ローウェンが低く吐き捨てた。
レオンハルトは動けない。リーンを連れて、この人数を相手にしている時間もない。
そして――
アイリスが、静かに一歩前へ出た。
思わぬ連続の戦闘に。
RPGでも、ボス戦終わった!と思った後の戦闘って、メンタルやられますよね…
さて、続きは明日になります。




