ep.5 夜を越えて
暑すぎて溶けそうです。皆さま、ご自愛ください。続きを宜しくお願いします。
―ふわり。
大きく渦を巻いた風が、薬店の棚に並ぶ乾燥薬草を優しく揺らした。
次の瞬間、風は静かにほどけるように消え、リーフェ薬店の中にはリーン、ローウェン、そして傷だらけの騎士の姿があった。
騎士は見えない風に支えられたまま、ゆっくりと診療台へ横たえられる。
ローウェンは小さく息をついた。
「助かった、シルフィー」
柔らかな風が彼の頬を撫でる。
リーンは風へ向かって嬉しそうに笑った。
「ありがとう、シルフィ!」
『ふふっ。可愛い子のお願いだもの』
鈴の音のような笑い声が部屋へ溶ける。
長い翡翠色の髪を揺らした美しい風の精霊は、愛おしそうにリーンを見つめると、その姿を風へ溶け込ませるように消えていった。
リーンに声は聞こえても、その姿は最後まで見えなかった。
「さて」
ローウェンは静かに男へ歩み寄る。
その顔を見た瞬間だけ、表情が僅かに引き締まった。
「……」
リーンは慌てて駆け寄る。
「師匠、この人……!」
「分かってる」
ローウェンは傷口へ手をかざした。
「普通の傷じゃない」
その低い声に、部屋の空気が張りつめる。
「お前は湯を用意しろ」
「……はい!」
リーンは返事をすると、慌てて薬棚へ向かった。
ローウェンは男の胸元の紋章へ視線を落とす。
(剣と盾の紋章、ガーディナス家とは。やはり、綻びはじめたか……。)
ローウェンは静かに目を閉じた。
再び男を見れば、胸元を覆う鎧は血で赤黒く染まり、その傷の深さを物語っていた。
ローウェンは迷いなく鎧を外し、傷口を確認する。
「……深いな」
肩口から胸へかけて裂けた傷。鋭い魔物の爪によるものだろう。傷の周囲には、黒く淀んだ魔力がわずかにまとわりついていた。
「師匠……」
リーンは不安そうに傷を見つめる。
「助かりますよね……?」
ローウェンは視線を上げない。
「助ける」
それだけだった。けれど、その一言でリーンの迷いは消えた。
「はい!」
「湯」
「もう沸いてます」
「針」
「ここです」
「止血薬」
「すぐ調合します」
薬研で薬草をすり潰す音が部屋に響く。交わされるのは必要な言葉だけ。
十年以上共に過ごした師弟だからこそ成り立つ呼吸だった。
ローウェンが傷を洗い、縫合する。
リーンは血を拭き取り、薬を作る。
無駄のない連携で治療は進んでいった。
ようやく縫合が終わっても男の呼吸は依然として浅く、額には汗が滲んでいた。
リーンがそっと額へ触れる。
「熱い……」
思わず薬棚へ向かおうとすると、ローウェンが静かに制した。
「違う」
リーンは足を止める。
ローウェンは男の胸元へ手を添えた。
「乱れてる」
その一言で、リーンは理解する。
「……魔力ですね」
ローウェンは小さく頷いた。
「星露草を」
「はい」
リーンは迷うことなく、夕暮れに森で摘んできた星露草を取り出した。
葉を丁寧にすり潰し、薬液へ溶かしていく。
青白い雫が薬へ混ざると、淡い光がゆっくりと広がった。
リーンは薬を口元へ運びながら、小さく呟く。
「みんなは高熱に効く薬草だと思っていますけど……」
「違う」
ローウェンが短く答える。
「星露草は、乱れた魔力を整える」
「だから結果として熱も下がる」
リーンは静かに頷いた。
世間では星露草は"高熱に効く薬草"として知られている。
だが、それは本来の効能ではない。
魔力の流れを整える。
それこそが、この薬草に秘められた本当の力だった。
薬が男の喉を通る。
しばらくすると、騎士の苦しそうだった呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
「効いてる……」
リーンの表情が少しだけ和らいだ。
「まだ安心するな」
「はい」
二人は交代で様子を見守り続けた。
夜は静かに更けていく。
薬草を煎じる音。
薪がはぜる音。
そして少しずつ落ち着きを取り戻していく呼吸。
長い時間が過ぎた。
リーンはようやく大きく息を吐く。
「……助かりそうですね」
「まだ分からん」
ぶっきらぼうな返事。
それでも、先ほどまでの張り詰めた空気は少しだけ和らいでいた。
緊張が解けた途端、疲れが一気に押し寄せる。
リーンはその場に座り込み、小さく欠伸を漏らした。
「眠いなら寝ろ」
「でも……」
「俺が見てる」
リーンは首を横に振る。
「最後まで一緒に診ます」
ローウェンは小さく息を吐いた。
「……頑固だな」
「師匠に言われたくありません」
思わず笑みがこぼれる。
ローウェンは何も返さず立ち上がると、薬缶を火へ掛けた。
薬草をひとつまみ。
やがて優しい香りが部屋へ広がる。
湯呑みに注ぎ、リーンの前へ静かに置いた。
「飲め」
たった一言。
リーンは湯呑みを両手で包み込み、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます、師匠」
返事はない。
ローウェンは診療台へ視線を向ける。
男の容態は落ち着いていた。
その時、不意に胸元から覗く銀色の剣と盾の紋章が目に入る。
ローウェンの視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……」
そっと毛布を掛け直し、視線を外した。
窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。




