エピローグ 千年前、竜の慟哭
ここで第四章は終わりです。
――千年前
人と精霊の間に生まれた小さな亀裂は、日に日に広がっていた。
魔物との戦いは終わらない。
王都では精霊の意思を介さず契約を結ぶ研究が進められ、それに反対する者と、必要な犠牲だと主張する者の声がぶつかるようになっていた。
それでもまだ、この頃は人と精霊が共に笑って過ごす光景も、確かに残っていた。
「リシェ」
呼ばれて、少女――リシェリアは振り返った。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃない。探したぞ」
若い騎士が呆れたように息を吐く。
「ローウェンがお前を探してる」
「あ……薬草の整理、途中だった」
「また抜け出したのか」
「抜け出したんじゃないよ。この子が来たから」
「この子?」
リシェリアが笑って指さす。
その先に横たわっていたのは、一頭の竜だった。
陽光を受けて輝く鱗。大きな翼を畳み、巨体を草原へ投げ出している。
けれど、騎士が近づいても警戒する様子はない。
竜は大きな頭をリシェリアへ寄せると、その手のひらへ鼻先を押しつけた。
「ほら。また甘えてる」
「……よくそんなものに触れるな」
「そんなもの、じゃないよ」
リシェリアが頬を膨らませる。
「この子にもちゃんと心があるんだから」
「分かってる。ただ、竜は竜だ」
「怖い?」
「まさか」
「じゃあ触ってみる?」
「遠慮する」
即答だった。
その様子がおかしくて、思わずリシェリアが笑った。
その声に反応したのか、竜が喉の奥で低く音を鳴らした。
「ほら。この子も笑ってる」
「それが笑ってるように聞こえるのは、お前くらいだ」
「そんなことないよ。ちゃんと聞けば分かるもの」
リシェリアは竜の鼻先を撫でた。
その周囲では、小さな風の精霊たちが竜の角に腰掛け、水の精霊が翼の上を滑って遊んでいる。
竜も、それを嫌がる様子はなかった。
若い騎士は、そんな光景をしばらく眺めていた。
「……随分、懐いてるな」
「可愛いでしょう?」
「俺といる時より楽しそうじゃないか」
「もしかして、嫉妬してる?」
「竜にするか」
「ふふ」
リシェリアが笑った。
若い騎士も、わずかに口元を緩める。魔物との戦いが続く中で、それはまだ残っていた穏やかな時間だった。
◇ ◇
その竜が姿を消したのは、それから間もなくのことだった。
「今日も来ない……」
リシェリアは森の向こうを見つめた。いつもなら数日に一度は姿を見せるのに、もう十日近く来ていない。
「気まぐれなんだろ」
隣に立つ若い騎士が言う。
「竜なんて、そんなものじゃないのか」
「……そうかな」
「心配しすぎだろ」
そう言われても、胸騒ぎは消えなかった。
精霊たちも、どこか落ち着かない。
そして――
数日後、空を裂くような咆哮が響いた。
リシェリアは手にしていた薬草を落とした。
「……今の」
知っている。
あの声を、聞き間違えるはずがない。
「まさか……」
外へ飛び出す。
「リシェ!」
若い騎士の声が追ってくる。
けれど、リシェリアは止まらなかった。
森へ近づくにつれ、空気がおかしくなっていく。
熱い、なのに、凍えるように冷たい。
荒れ狂う風の中に水が舞い、足元では大地が小刻みに震えている。
「何、この魔力……」
精霊たちが森から逃げてくる。
『こわい』
『いたい』
『にげて』
「待って! 何があったの?」
問いかけても、精霊たちは怯えて逃げていくばかりだった。
やがて木々が途切れる。
そこでリシェリアは、足を止めた。
「……そんな」
竜がいた。
何度も撫でた鱗。
自分を見つければ嬉しそうに鼻先を寄せてきた、大きな瞳。
間違えるはずがない。
あの竜だった。
けれど――
その身体には、黒い筋のようなものが幾重にも走っていた。
片方の翼を炎が包み、その周囲では水が渦を巻く。
風が木々を薙ぎ、大地が隆起する。
炎。
水。
風。
土。
本来ならそれぞれに存在するはずの力が、一つの身体へ無理やり押し込められているように見えた。
竜が苦しそうに首を振った。そのたびに魔力が暴れ、周囲を破壊していく。
そして、その足元には…
「……人が」
倒れた騎士たち。
壊れた馬車。
焼け焦げた大地。
竜がこちらを向いた。
「私よ」
リシェリアが一歩踏み出す。
「分かるでしょう?」
「リシェ、待て!」
追いついた若い騎士が腕を掴んだ。
「近づくな」
「でも――」
「あれを見ろ」
竜の足元に倒れた人々。
その向こうには、炎の上がる建物が見える。
「もう人を襲ってる」
「違う」
「何が違う!」
「あの子は、そんなことしない!」
リシェリアは腕を振りほどいた。
「何かあったの。絶対に――」
竜が咆哮する。
「リシェ!」
若い騎士が剣へ手をかけた。
その瞬間。
『――たすけて』
「……え?」
リシェリアの動きが止まった。
今の声は――
竜が苦しそうに身体を震わせる。
黒い魔力が鱗の隙間から溢れ、四つの力が再び暴れ始める。
それでも、確かに聞こえた。
『たすけて』
竜の瞳から、一筋の雫が落ちた。
「……この子」
「リシェ?」
リシェリアは青金色の瞳を見開いた。
「苦しんでる……」
「何?」
「怒ってるんじゃない。人を襲いたいんじゃないわ」
竜を見れば、その身体の中で、いくつもの魔力が互いを喰らうようにぶつかっている。
「誰かに……こんな姿にされたんだ」
若い騎士の表情が変わった。
「どういう意味だ」
「分からない。でも、この子の中にある力は、この子のものじゃない」
炎。
水。
風。
土。
リシェリアには分かった。
それらすべてが悲鳴を上げている。
竜も、その身体へ押し込められた力も。
「助けなきゃ」
一歩踏み出す。
だが、若い騎士がその前へ立った。
「駄目だ!」
「どいて」
「これ以上、近づかせない」
「この子は助けを求めてる!」
「それでも人を殺している!」
リシェリアが息を呑んだ。
若い騎士は剣を抜いた。その背後では、傷ついた騎士たちが呻いている。
遠くには、人々が暮らす村がある。
彼はそれを守る騎士だった。
「……俺は」
剣を握る手に力がこもる。
「人々を守らなければならない」
「待って……」
竜が吼えた。
騎士たちが一斉に剣を構える。
「待って!」
リシェリアの声が響く。
「この子は敵じゃない!」
けれど、再び放たれた咆哮に、その声はかき消された。
炎が舞い、水が渦巻く。
風が唸り、大地が割れる。
そして、そのすべての奥から
『――たすけて』
リシェリアだけが、その声を聞いていた。
読了ありがとうございました。
少しずつ、千年前に何が起きたのか、そのピースが見えてきました。
少しお休みをいただいて、第一部のラスト、第五章を始めたいと思います。
引き続き宜しくお願いします。




