ep.36 戻り始めた日常
第四章、本編スタートしました。
宜しくお願いします。
――レオンハルトがローウェンを訪ねる少し前。
リーンが王城から攫われた事件から、十日余りが過ぎていた。
「リーン様、そろそろお休みください」
「……まだ始めたばかりですよ?」
薬草園の作業台で、リーンは顔を上げた。目の前には、切り分けた薬草と小さな乳鉢。久しぶりに触れる薬草の香りに、ようやく日常が戻ってきたような気がしていた。
「ですが、レオンハルト様から――」
「無理はさせるな、ですよね? もう何回聞いたか分かりません」
「それだけ心配されているということです」
リーンは自分の頬へ触れた。腫れはほとんど引いている。肩にもまだ多少の痛みは残っていたが、日常生活には支障がない。医師からも、短時間であれば薬術の仕事へ戻っていいと言われている。
「三時間ですよ?」
「三時間です」
「まだ全然働いてません」
「十分だ」
聞き慣れた低い声が割り込んだ。
「……え?」
リーンが振り返る。薬草園の入口に、レオンハルトが立っていた。
「レオン様。いつからいたんですか?」
「今来た」
作業台へ近づき、その上を見る。
「何をしていたんだ」
「傷薬の補充です。そろそろ作っておこうと思って」
「明日でいい」
「今日できます」
「明日でもできる」
「……レオン様」
「何だ」
「最近、私に何もさせてくれなくないですか?」
レオンハルトが僅かに眉を寄せた。
「そうか?」
「そうです。ちょっと歩けば休め、荷物を持てば置け、薬草園に来たら一時間で終わり」
「医師の指示だ」
「絶対それだけじゃないですよね?」
「気のせいだ」
「気のせいじゃありません!短時間なら仕事していいとも言われました」
「だから三時間やっただろう」
「三時間しか、です!」
リーンは思わず頬を膨らませた。それを見て、レオンハルトが僅かに目を細める。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「絶対笑いました!」
少し離れたところで、アイリスが口元を押さえている。
「アイリスも笑ってる!」
「申し訳ございません」
「絶対申し訳ないと思ってないですよね!?」
久しぶりに響いたリーンの明るい声に、レオンハルトの表情が僅かに緩んだ。その変化に、リーンは気づかなかった。
あの日から夜になると、リーンは時折うなされている。本人は覚えていない。だが、アイリスから報告は受けていた。
それでも、ローウェンから預かった薬を飲ませるようになってからは、以前より深く眠れるようになったらしい。目の下に残っていた疲れも薄れ、ここ数日は顔色もずいぶん良くなっている。
昼間はこうして笑っている。それを見るたびに安心する一方で、胸の奥には、消えないものが残っていた。
あの地下施設で見た、怯えた顔。もう二度と、あんな顔はさせたくなかった。
「とにかく、今日は終わりだ。部屋へ戻れ」
「子供じゃないんですから」
「分かっている」
レオンハルトは答えながら、作業台の端に置かれていた薬草の籠を持ち上げた。
「あ、それ私が持ちます」
「俺が持つ」
言い切られた。
「……はい」
リーンは諦めて、その隣を歩き出した。
薬草園を出ると、柔らかな風が吹き、リーンの茶色い髪を揺らした。ふと、先日の丘を思い出す。風に揺れる花と湖。二人だけの秘密だと言った場所。
『二人しか知らないなら、秘密には違いない』
なんとなく、レオンハルトの顔を見た。
「何だ」
「み、見てません!」
「見ていただろう」
「たまたまです!」
リーンは慌てて前を向く。なぜか顔が熱い。
(……なんで?)
今までも、こうして二人で歩いたことくらいある。それなのに、あの丘へ行ってから、時々、妙に意識してしまう。
(変なの)
胸元へ手を当てる。心臓が少しだけ速い。
その時だった。指先が、服の下にあるペンダントへ触れた。
「……?」
微かに温かい。そう思った瞬間――
――ガタン。
景色が揺れた。
――ガタン、ゴトン。
規則正しい音。何かが走っている。窓の向こうを、見たことのない建物が次々と流れていく。たくさんの人。吊り下げられた広告。並んだ座席。手元には、小さな四角い何か。指先で触れるたび、光る画面が切り替わっていく。
『……り、次で降りるよ』
誰かの声が聞こえる。
懐かしい。そう思った。胸の奥が、締めつけられるほどに。知っている声。何度も聞いたことがある。なのに、誰なのか分からない。
『聞いてる?』
笑う声。振り返ろうとした。
「リーン」
別の声がした。
「……っ!」
視界が戻る。目の前に、レオンハルトがいた。
「大丈夫か」
「……レオン、様?」
いつの間にか、腕を掴まれていた。
「急に立ち止まった。顔色が悪い。また何か思い出したのか」
リーンはすぐには答えられなかった。今見たもの。あれは、この世界のものではない。
「これは昔からたまにあるやつで……言っても信じてもらえないと思うんですが、前世の記憶があるんです」
レオンハルトの眉が僅かに動いた。
「前世?」
「はい……突拍子もないですよね」
リーンは少し困ったように笑った。今まで、積極的に誰かへ話そうと思ったことはなかった。自分でも説明できないことだ。幼い頃以前の記憶がないこと。それなのに、この世界には存在しないはずの物や料理を知っていること。
話したところで、信じてもらえるかも分からない。だから、ローウェン以外にはほとんど話したことがなかった。
なのに、レオンハルトには、なぜか隠そうという気持ちが起こらなかった。
「私、昔から時々、この世界にはないものが浮かんでくるんです。料理とか、物の名前とか、道具とか。見たこともないはずなのに、なぜか使い方まで知ってたりして。だから私、前に生きていた時の記憶なんじゃないかって思ってるんです。前世、ってやつじゃないかなぁーと」
言ってから、リーンはレオンハルトの顔を窺った。
「……信じられませんよね?」
「お前がそう言うなら、そうなんだろう」
「……え?」
「嘘をつく理由もない。俺にはそれで十分だ」
「……」
あまりにも当然のように言われて、リーンは瞬きをした。信じる、と言われたわけではない。ただ、自分が話したことを、そのまま受け止めてくれた。
それが、何気ない会話のように。
「ローウェンは知っているのか」
「はい。昔から師匠には話してましたから」
「……そうか」
レオンハルトはそれ以上、聞かなかった。あの老人が、リーン自身の口から話すべきことまで勝手に明かす人間ではないことは、分かっている。
「……レオン様って、時々、すごいですよね」
「意味が分からない」
「私もよく分かりません」
リーンは少しだけ笑った。不思議だった。ずっと自分の中にあったことなのに、話してしまえば思っていたより怖くない。むしろ、少しだけ胸が軽くなった気がした。
「それで、何が見えたんだ?」
「あ……乗り物、だと思います。たくさん人が乗っていて」
「馬車か?」
「ううん。馬はいなくて……もっと速くて……」
説明しようとして、リーンは首を傾げた。
「変なんです。今までは、知識だけだったんです。料理とか、物の名前とか。こういうものがあったな、とか。思い出すというより、最初から知ってる感じで」
リーンは胸元のペンダントを握った。
「でも今のは……違いました。本当に、そこにいたみたいで」
ガタン、ゴトンという音。窓の外を流れていく景色。手の中にあった光る画面。
そして――あの声。
「声まで聞こえたんです」
「声?誰のだ」
「分かりません」
リーンは小さく首を振る。
「でも……すごく懐かしかった」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
「怖いか、思い出すことが」
リーンは考えた。白い部屋。泣き声。痛み。あの記憶は怖い。思い出そうとするだけで、身体が強張る。
けれど、今の声は違った。
「……分かりません。でも、怖い感じじゃなかったです」
「ならいい」
レオンハルトが腕から手を離す。その瞬間、なぜか少しだけ、名残惜しいと思った。
「どうした」
「な、何でもないです!」
レオンハルトが歩き出す。リーンも慌てて、その隣へ並んだ。
けれど、頭の中には、まだあの声が残っていた。
『……り、次で降りるよ』
(誰だったんだろう……)
思い出そうとしても、その先だけが、霧に覆われたように見えなかった。
ただ、ひとつだけ、不思議に思う。
これまで自分が〝前世の記憶〟だと思っていたものと、今見たものは――どこか違う気がした。
◇
その日の夕刻。レオンハルトは執務室で、一枚の報告書を読んでいた。
「三日前からです」
机を挟んで立つグレンが説明する。
「最初は西の森で二件。その後、北街道付近でも目撃されています。種類は、ゴブリン、牙狼、フォレストボア。それから昨日、森の浅い場所でオーガが一体」
「オーガ? そこは生息域じゃない」
「その通りです」
隣にいたアルヴィンが地図を広げる。王都を囲むように、いくつかの印がつけられていた。
「まだ被害は?」
「幸い、重傷者が二名。死者はいません。ただ、数はどんどん増えています。昨日だけで、それ以前の三日間とほぼ同数の報告が上がっています」
「急すぎるな」
「ええ。季節的な移動とも考えにくい」
「何かに追われている可能性は?」
「斥候を出しています。ただ……」
アルヴィンが一枚の報告書を差し出した。
「討伐した個体の一部から、妙な反応が出ています。魔力です。通常の魔物より、明らかに不安定だったと。一体だけではありません」
レオンハルトは報告書へ目を落とした。
――不安定な魔力。
その言葉には覚えがある。ロブの地下施設。檻に入れられていた魔物たち。
「遺体を処分する前に確認しろ。魔石も血液も残せ。可能なら生け捕りも一体」
「承知しました」
「薬術院には?」
「……まだ知らせるな」
アルヴィンがレオンハルトを見る。
「ロブの件がありますからね」
「ああ。別の人間に調べさせる」
「手配します」
レオンハルトは窓の外へ目を向けた。夕日に染まった王都。人々はいつもと変わらず、街を行き交っている。
まだ誰も気づいていない。王都の外側で少しずつ、何かが変わり始めていることに。
「……増えている、か」
レオンハルトが低く呟いた。
――千年前、世界樹の下で鳴り響いた警鐘。
今の時代にはもう存在しないもの。
だから、すぐに気づくことはできなかった。
かつて人と精霊の関係を変えた異変とよく似たものが、再びこの地に現れ始めていることを。
レオンの恋愛度、だいぶ上がってきました。
でも、まだまだこれからです。
頑張れリーン笑
続きは明日の夜です。




