エピローグ 千年前、守るための力
このお話で第3章は終わりです。
――千年前
世界樹から一枚の葉が落ちたあの日から、季節はいくつも巡った。
森から現れる魔物は一向に数を減らさなかった。一つの群れを退ければ、また別の場所に現れる。森を越え、街道を塞ぎ、時には人の暮らす村にまで押し寄せた。
それまで人と精霊が共に穏やかに暮らしていた世界は、少しずつ姿を変えていった。城壁は高くなり、街道には兵士が立ち、日が暮れる前には町の門が閉ざされる。
そして今日もまた、戦いを終えた騎士たちが傷ついた仲間を連れて戻ってきた。
「……ひどい傷」
少女は眉を寄せた。目の前に座る青年の腕に巻かれた白い布に、すでに赤い血が滲んでいる。
「見せて」
「この程度なら問題ない」
「問題あるから血が出てるんでしょう?」
少女が睨むと、青年はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように腕を差し出した。
巻かれていた布を解く。現れた傷を見て、少女の顔が曇った。
「……また無茶したでしょう」
「必要なことをしただけだ」
「それを無茶って言うの」
傷口へ薬を塗ると、青年が僅かに顔をしかめる。
「痛い?」
「……痛い」
「素直でよろしい」
少女が小さく笑い、青年もつられるように口元を緩めた。
その時、淡い光が二人の間へ舞い降りた。小さな精霊だった。
『いたい?』
「ちょっと怪我しただけだから」
『なおしてあげる』
精霊がふわりと浮かび、淡い光が青年の腕を包んだ。深かった傷が、ゆっくりと塞がっていく。
「すごい……ありがとう」
『よかった』
精霊は嬉しそうに少女の周りをくるくると回った。
その様子を、青年は黙って見つめていた。傷のあった腕へ触れる。痛みは、ほとんど消えていた。ほんの一瞬で。
「……これほどの力が」
「え?」
「いや」
何でもない、と首を振った。
少女は気づかなかった。青年がもう一度、自分の腕を見つめたことに。
◇
「また三つ、村が襲われた」
その夜、世界樹から少し離れた建物の一室で、ローウェンが低い声で告げた。机の上に広げられた地図には、いくつもの印がつけられている。
「三つも……住んでいた人たちは?」
「一つは避難が間に合った。残りは……まだ分からない」
少女が唇を噛む。青年は黙ったまま地図を見ていた。印が、以前より明らかに増えている。
「兵が足りない」
重い沈黙が落ちる。
『人間だけで戦う必要はないでしょう』
窓辺に座っていたルナティスが口を開いた。
『私たちも力を貸すわ。ただし――精霊自身が望んだ時だけよ』
「……望まなければ?」
『戦わない。私たちは、人間の武器ではないもの』
「人が死んでも?」
『ええ。助けたいと思えば助ける。それが、私たちと人間の関係よ』
青年は何も言わなかった。
「精霊の力を使うんじゃないよ」
少女が静かに口を開く。
「力を貸してもらうの。精霊は道具じゃないもの」
「……分かっている」
青年は答えた。
けれど、その脳裏には昼間の光景が残っていた。裂けていた腕。流れていた血。それを、ほんの一瞬で癒した光。
もし、あの力が戦場にあれば。
今日死んだ部下も、守れなかった村の人々も、助けられたのではないか。
◇
数日後。
「……馬鹿なことを始めやがった」
ローウェンが珍しく苛立ちを隠さず、机の上へ紙を放った。
「王都の魔術師連中だ。精霊の意思を介さず、契約を成立させられないか研究してるらしい」
少女の手から、薬草が一本落ちた。
「そんなこと……できるの?」
「できるかどうかじゃない。やろうとしてることが問題なんだ」
少女の顔から血の気が引いた。
「止めないと」
「俺からも話をする」
「私も行く」
「駄目だ。今のお前が行けば、余計に話がこじれる。お前はここにいろ」
少女は納得していない顔をしていたが、やがて小さく頷いた。
ローウェンが部屋を出ていく。残された少女は、床へ落ちた薬草を拾った。
「どうして……今まで、ずっと一緒にいたのに」
答える者はいなかった。ただ、窓の外にいた小さな風の精霊が、不安そうに揺れていた。
◇
その日の夕方、少女は世界樹の根元に座っていた。
以前ならここにはたくさんの精霊がいた。笑って、遊んで、人間の子供たちに悪戯をして。けれど今は少ない。戦いが始まってから、人里へ近づかなくなった精霊も増えた。
「……寂しくなったね」
『怖がってるのよ』
隣に座るルナティスが答えた。
「人間を?」
『……分からない。今までとは、何かが違うの。この木も、ずっと苦しんでる』
少女は世界樹の幹へ手を触れた。
「大丈夫だよ。私たちがいるから」
『……ええ』
ルナティスは笑った。けれど、その表情にはどこか不安が残っていた。
「――ここにいたのか」
声に振り返る。青年が立っていた。
「今日も人が死んだ。俺の部下も。昨日まで笑っていた男だ。妻と、生まれたばかりの子供がいる。西の村も間に合わなかった」
「……」
「もっと力があれば、守れた」
少女は何も言えなかった。青年の拳が、強く握られる。
「精霊には力がある。俺たち人間にはない力だ。なぜ使わない」
「精霊だって生きてる」
「分かっている」
「だったら――」
「だが、人間も生きている!」
声が響いた。少女が目を見開く。青年自身も、一瞬だけ驚いたような顔をした。
「……悪い」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。やがて少女が、青年の握られた拳へそっと手を重ねる。
「悔しいんだよね。守れなかったことが」
青年の拳から、僅かに力が抜けた。
「私も悔しいよ。助けられるなら、みんな助けたい。人も、精霊も」
少女は笑う。
「どちらかを犠牲にして、どちらかを助けるんじゃなくて、一緒に助かる方法を探したい。そのために、私がいるんだと思うから」
風が吹き、少女の髪が揺れる。小さな精霊が、嬉しそうにその髪へ降りた。
『だいすき』
「私も大好き」
少女が笑う。青年は、その姿を見つめていた。
以前なら、自分も笑っていたはずだった。けれど今は、なぜか胸の奥に黒いものが滲んだ。
精霊たちは彼女に触れる。彼女は精霊たちに笑いかける。自分には聞こえない声で、自分には分からない世界で、彼女たちは心を通わせている。
「……俺には、分からない」
「え?」
「これだけの力を持ちながら、なぜ使わない。人を救える力があるなら、使うべきなんじゃないのか」
「……違うよ」
少女は悲しそうに首を振った。
「力を持っているからって、誰かのものになるわけじゃない。守るためでも、誰かを犠牲にしていい理由にはならないよ」
青年は答えなかった。ただ、遠くに見える町を見つめる。
あそこには、人がいる。守らなければならない命がある。そして明日も、誰かが死ぬかもしれない。
その時。
『……違う』
小さな声がした。少し離れた場所で、ルナティスが青年を見つめていた。その声は、青年には届かない。
『それは、守ることじゃない』
風が吹く。世界樹の葉が、ざわざわと揺れた。
青年はまだ知らなかった。人を守りたいと願った、その気持ちが。いつか、最も守りたかった人を失うことへ、繋がっていくことを。
――すべての始まりは、誰かを守りたいという、ただそれだけの願いだった。
読了ありがとうございました。
次から第4章スタートです(*^^*)
リーンが早くレオンの恋心に気づいてくれますように笑
本編前に、一度、登場人物を整理したいと思っています。ですので、次は明日の朝アップします。




