プロローグ 静かなる異変
静まり返った執務室。
壁一面に並ぶ書架には、古びた書物や地図が隙間なく収められている。
窓辺に立つ一人の男は、王都の街並みを見ながら静かに目を閉じていた。
規則正しい足音が部屋に響く。
「失礼いたします」
入室した部下は一礼すると、一枚の報告書を差し出した。
「例の件、調査結果がでました」
男は振り返り、静かにそれを受け取る。
報告書へ目を通した、その時だった。
「……そうか」
短く呟く。
「あの方とあろうものが、仕留め損ねたか」
驚きも焦りもない。
ただ事実を受け止めるような声音だった。
「対象は現在、王都へ移送中です。」
「名は」
「レオンハルト・ガーディナス」
男の手が一瞬だけ止まる。
「……ガーディナスか」
小さく目を伏せる。
「かの騎士一族は、実にしぶとい」
その一言には、長い年月を知る者だけが持つ重みが滲んでいた。
部下は続ける。
「もう一つ、ご報告があります」
「現場では、二種類の異質な魔力が確認されました。」
男は報告書から顔を上げる。
「一つは、対象の体内に残留していた魔力です。現存するいかなる魔法体系とも一致しません。」
「一致しない……?」
「もう一つは、周辺に残されていた魔力の痕跡です。こちらは現代の精霊魔法とは一致しませんが、古い文献に記された『失われた精霊魔法』と極めて近い特徴を示しています」
部屋に沈黙が落ちる。
男は窓の外へ視線を向けた。
王都では、人々がいつもと変わらぬ日常を送っている。その平穏とは裏腹に、男の思考だけが静かに巡る。
「記録にない力、失われた精霊魔法……」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「……まだ、私の知らない駒があるらしい」
部下は黙って次の指示を待つ。
やがて男は報告書を閉じた。
「監視を続けろ。ただし、こちらからは動くな」
「はっ」
部下が退室すると、再び静寂が戻る。
男は机の上に置かれた古い書物へ手を伸ばした。
そこには、数百年前から受け継がれてきた記録が眠っている。
そのすべてを読み尽くしたはずだった。
だが――
「……何かを見落としている」
男は静かに本を閉じる。
その瞳に浮かんだのは焦りではない。
未知への警戒と、わずかな興味だけだった。




