第七話 今度は私が信じる
一睡もできなかった。
窓の外が白み始めても、アレクシスは机の前に座ったままだった。
目の前には、一冊の手帳。
『どうか、一度だけでも、私を信じてほしかった』
最後の一文が、何度読んでも胸を抉った。
「……私は」
声が震えた。
何をしていた。
何を見ていた。
婚約者だった。
最も近くにいるべき人間だった。
それなのに。
自分はエレノアの言葉を、一度も信じなかった。
――聖女が泣いていたから。
たった、それだけの理由で。
コンコン。
扉が叩かれた。
「お嬢様。殿下がお呼びです」
アレクシスは顔を上げた。
「……分かった」
◇ ◇ ◇
王太子の執務室。
昨日まで、自分の部屋だった場所。
だが、扉の前に立ったアレクシスは、なぜか緊張していた。
「エレノア様がお見えです」
「入れ」
聞き慣れた、自分の声。
アレクシスは部屋に入った。
そこには、自分がいた。
書類を片付ける仕草。
ペンを置く手。
視線の上げ方。
どれも完璧だった。
「座って」
エレノアが言った。
アレクシスは素直に従った。
しばらく、沈黙が続く。
先に口を開いたのは、アレクシスだった。
「……見つけた」
エレノアの眉が、わずかに動く。
「何を?」
「手帳を」
初めて。
エレノアが言葉を失った。
「勝手に見た」
「……そう」
怒らなかった。
責めもしなかった。
ただ。
少しだけ、疲れたような顔をした。
「すまなかった」
アレクシスは頭を下げた。
生まれて初めてだった。
誰かに。
心から謝ったのは。
「私は……君を信じなかった」
エレノアは何も言わない。
「何度も助けを求めていたのに」
返事はない。
「私は……」
声が掠れた。
「私は、君の敵だった」
長い沈黙。
やがて。
エレノアが小さく息を吐いた。
「今さらよ」
責める声ではなかった。
諦めた声だった。
「知ってる」
アレクシスは頷いた。
「だからこそ、教えてくれ」
エレノアが顔を上げる。
「セシリアは、いつからだ」
しばらく、彼女は黙っていた。
だが。
「……二年前」
静かに答えた。
「聖女として王都に来た時から」
アレクシスは息を呑んだ。
二年。
二年間も。
「最初は小さなことだったわ」
エレノアは遠くを見るように話した。
「花瓶が割れた」
「書類がなくなった」
「ドレスが破れた」
「全部、私のせいになった」
「……」
「あなたは、いつもセシリアを庇った」
否定できなかった。
事実だった。
「どうして、何もしなかった」
思わず口にしてから、アレクシスは後悔した。
何もしなかったのは、自分だ。
だが。
エレノアは苦く笑った。
「したわ」
「え……」
「証拠を探した」
「証人も探した」
「あなたにも話した」
そして。
「全部、失敗した」
その一言に、二年間の絶望が詰まっていた。
アレクシスは拳を握った。
「なら」
顔を上げる。
「今度は私がやる」
エレノアは目を見開いた。
「私が、セシリアの本性を暴く」
初めて。
エレノアの顔に感情が浮かんだ。
驚き。
そして。
ほんの少しの、悲しみ。
「……遅いわ」
「分かっている」
「今さら信じるなんて」
「分かっている!」
アレクシスは立ち上がった。
「でも!」
声が震えた。
「今度は、私が君を信じる」
部屋が静まり返った。
エレノアは、しばらくアレクシスを見つめていた。
やがて。
本当に小さく。
誰にも気付かれないほど小さく。
「……そう」
とだけ呟いた。
だが、その声は。
昨日までの諦めの声ではなかった。




