第六話 信じてもらえなかった記録
その夜。
アレクシスは、エレノアの部屋に一人でいた。
眠れなかった。
目を閉じれば、セシリアの笑顔が浮かぶ。
『私、上手だったでしょう?』
あの声が耳から離れない。
そして。
『私は何度も言ったわ。聖女様に嫌がらせなんてしていないって』
エレノアの言葉も。
アレクシスは大きく息を吐いた。
部屋の中を見回す。
昼間は気付かなかったが、この部屋には奇妙なほど無駄がなかった。
華美な装飾も。
趣味の品も。
ほとんどない。
まるで、誰かに「贅沢だ」と言われないようにしているかのようだった。
「……こんな部屋だったのか」
婚約者なのに。
自分は、エレノアの部屋に入ったことがほとんどなかった。
いつもエレノアの方が、自分の元へ来ていたから。
ふと。
机の上に積まれた本の隙間に、一冊の薄い手帳が見えた。
開いてはいけない。
そう思った。
だが。
気付けば、手はそれを手に取っていた。
日記だった。
几帳面な文字で、日付が記されている。
アレクシスは、恐る恐るページをめくった。
『三月十二日。
本日も聖女様が階段から落ちたと騒ぎになった。
私はその場にいなかった。
けれど、皆は私がやったのだと思っている。
殿下だけは信じてくださると思った』
アレクシスは、息を止めた。
さらにページをめくる。
『四月二日。
殿下に相談した。
でも、聖女様が嘘をつくはずがないと言われた。
悲しかった』
次のページ。
『四月二十日。
聖女様が自ら腕を傷付けて、私のせいだと泣いた。
殿下は、また私を叱った』
ページをめくる手が震える。
『五月一日。
どうしたら信じてもらえるのだろう』
『五月七日。
殿下に嫌われたくない』
『五月十五日。
殿下を愛しているから、諦めたくない』
『五月二十七日。
苦しい』
そこから先は。
日記ではなくなっていた。
ただ。
同じ言葉が、何度も書かれている。
『私はやっていない』
『私はやっていない』
『私はやっていない』
アレクシスの視界が滲んだ。
「……違う」
何が違うのか。
分からない。
だが、否定したかった。
こんなはずはない。
自分は。
エレノアを守るべき婚約者だった。
なのに。
守れていない。
それどころか。
彼女を追い詰めた側だった。
その時。
コンコン、と扉が叩かれた。
「お嬢様。お夜食をお持ちしました」
若い侍女の声だった。
アレクシスは慌てて手帳を閉じた。
「あ、ああ」
侍女が部屋に入ってくる。
そして。
机の上の手帳を見て、顔色を変えた。
「あ……」
「どうした?」
侍女は、びくりと肩を震わせた。
「も、申し訳ございません!」
なぜ謝る。
そう尋ねようとした時だった。
「その日記……捨てなくても、よろしいのですか……?」
「……捨てる?」
侍女は青ざめた。
「あ……いえ……その……以前、お嬢様が……」
言葉を濁す。
「言ってくれ」
アレクシスが促すと、侍女は泣きそうな顔になった。
「以前……お嬢様が……」
『こんなものを書いても、誰も信じないもの』
アレクシスの心臓が、止まりそうになった。
「……そう、言っていたのか」
「はい……」
侍女は俯いた。
「でも、捨てられなくて……。いつか、誰かが信じてくださるかもしれないと思って……」
誰か。
誰のことだ。
婚約者である自分ではなかったのか。
アレクシスは、ようやく理解した。
エレノアは。
もう、自分に信じてもらえるとは思っていなかったのだ。
それでも。
最後の最後まで。
自分に真実を見せようとしていた。
「……下がってくれ」
「はい」
侍女は深々と頭を下げ、部屋を出ていった。
一人になった部屋で。
アレクシスは、再び手帳を開いた。
最後のページ。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『どうか、一度だけでも、私を信じてほしかった』
アレクシスは、その文字を見つめた。
そして。
初めて、自分が取り返しのつかない過ちを犯したのだと知った。




