第四話 聖女の笑み
「エレノア」
低い声だった。
アレクシスは思わず顔を上げた。
目の前にいるのは、自分だった。
いや。
自分の身体に入ったエレノア。
彼女はいつものアレクシスの顔で、静かにアレクシスを見つめていた。
「少し話がある。来なさい」
有無を言わせぬ口調。
周囲の貴族たちは、安堵したように頷いている。
「さすが殿下だ」
「聖女様を守ってくださった」
「エレノア様も反省なさるといいのですが……」
反省。
何を。
アレクシスは何もしていない。
だが、誰も信じてはいなかった。
エレノアは踵を返した。
アレクシスは黙ってその後を追った。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、中庭から離れた回廊だった。
人の気配はない。
エレノアは足を止めた。
「……どうだった?」
静かな声だった。
アレクシスは答えられない。
「今のを見ても、まだ私が嘘をついていると思う?」
「私は……」
言葉が出ない。
確かに見た。
セシリアは自分で転んだ。
自分で頬を叩いた。
それなのに、誰も気付かなかった。
「何かの間違いかもしれない」
ようやく絞り出した言葉に、エレノアは小さく息を吐いた。
「そう」
怒りも、呆れもない。
ただ、諦めたような声だった。
「なら、もっと見て」
その時だった。
「王子殿下」
甘い声が響く。
二人が振り返る。
そこには、セシリアが立っていた。
涙の跡は綺麗に消えている。
「セシリア」
エレノア――アレクシスの姿をした彼女が穏やかに応じた。
セシリアは可憐に微笑む。
「少し二人でお話ししてもよろしいでしょうか」
「ああ」
エレノアは頷いた。
そしてアレクシスを見た。
「エレノア。ここで待っていなさい」
「……はい、殿下」
自然とそう返事をしていた。
「後で話を聞く」
その口調は、まさしくいつものアレクシスそのものだった。
エレノアはセシリアを伴い、その場を去っていった。
アレクシスは、一人回廊に取り残される。
静かだった。
聞こえるのは、遠くから響く談笑の声だけ。
どれくらい経っただろうか。
数分か。
あるいは、ほんの少しだったのかもしれない。
「……あら」
甘い声がした。
アレクシスが顔を上げる。
そこには、セシリアが一人で立っていた。
笑っている。
先ほどまで泣いていたとは思えないほど、綺麗な笑みだった。
「驚きました?」
アレクシスは目を見開いた。
その声は。
今まで聞いたどの声とも違っていた。
「……何のことだ」
「あら」
セシリアはくすくすと笑う。
「さっきのことですよ」
一歩。
彼女が近付く。
「私、上手だったでしょう?」
アレクシスの背筋が凍った。
「君は……」
「自分で転びました」
もう一歩。
「自分で頬も叩きました」
さらに一歩。
「でも、誰も気付かなかった」
アレクシスは後ずさる。
目の前の少女は。
いつも微笑んでいた聖女ではなかった。
「なぜ……そんなことを……」
「だって、邪魔なんですもの」
セシリアは首を傾げた。
その仕草だけは、いつもの聖女と同じだった。
「エレノア様が」
「……っ」
「王子殿下は優しいから。私が泣けば、いつだって助けてくださる」
嬉しそうに微笑む。
「今日もそうでした」
アレクシスは言葉を失った。
確かに。
今まで何度も。
自分は彼女を助けてきた。
何の疑いもなく。
「王子殿下は私を愛しています」
断言だった。
「だから、エレノア様は邪魔なんです」
彼女はアレクシスの顔を覗き込む。
「でも安心してください」
その笑顔は。
聖女のものではなかった。
「あなたは、いずれ悪女として処刑されるんですから」
そして。
くるりと踵を返す。
「では、ごきげんよう。エレノア様」
軽やかな足音が遠ざかっていく。
アレクシスは、その場から一歩も動けなかった。
頭の中で。
何かが、音を立てて崩れていく。
――自分は、何を見ていたのだろう。
――何を信じていたのだろう。
そして。
――エレノアは、ずっとこれを一人で受けていたのか。
初めて。
胸の奥に、重い後悔が生まれた。




