第十六話 失ったもの
冷たい鉄格子が、重い音を立てて閉じられた。
ガシャン。
その音だけが、薄暗い牢獄に響く。
セシリアは、その場に立ち尽くしていた。
「……嘘」
ぽつりと呟く。
「こんなの、嘘よ」
数時間前まで。
自分は誰からも愛される聖女だった。
王太子は自分を守り。
貴族たちは自分を敬い。
誰もが微笑みかけてくれた。
それなのに。
今は冷たい牢の中。
誰一人として、自分を見ようともしない。
「殿下……」
震える声で名を呼ぶ。
「迎えに来てくださいますよね……?」
返事はない。
静寂だけが続く。
◇ ◇ ◇
どれほど時間が経っただろう。
石畳に響く足音が近付いてきた。
カツン。
カツン。
セシリアは勢いよく立ち上がる。
「殿下!」
鉄格子へ駆け寄る。
だが、そこに立っていたのは近衛騎士だった。
期待に輝いた瞳が、一瞬で曇る。
「……あなた」
騎士は無表情のまま告げた。
「王命です」
「聖女セシリア」
「本日をもって聖女の称号を剥奪します」
その一言が、胸に突き刺さる。
「……嫌」
「また、正式な裁きが下るまで、この牢で身柄を拘束します」
「嫌よ」
「以上です」
騎士は踵を返す。
「待って!」
セシリアは鉄格子を掴んだ。
「殿下は!?」
騎士の足が止まる。
「殿下は私に何もおっしゃっていなかったの!?」
ほんの数秒の沈黙。
やがて騎士は、小さく首を横に振った。
「殿下から、お言葉はありません」
それだけ言うと、去っていった。
足音が遠ざかる。
やがて何も聞こえなくなった。
「…………」
セシリアは力なく座り込む。
嘘だ。
そんなはずがない。
アレクシスは優しい。
きっと今は忙しいだけ。
明日になれば来てくれる。
明後日かもしれない。
そう。
きっと。
――きっと。
◇ ◇ ◇
翌日。
誰も来なかった。
その翌日も。
さらに翌日も。
訪ねてくるのは食事を運ぶ兵士だけ。
誰も話しかけない。
誰も笑わない。
誰も、自分を見ようとしない。
「どうして……」
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「どうして私なの……」
悪いのは。
全部。
「……エレノア」
その名を口にした瞬間。
涙が止まった。
「そうよ」
震える声が、次第に低くなる。
「あの女が現れなければ」
「殿下は、ずっと私だけを見ていてくださった」
違う。
自分は何も悪くない。
悪いのは。
全部。
「あの女よ」
セシリアは立ち上がる。
そして、何度も何度も石壁を叩いた。
「エレノア!」
ドン!
「全部!」
ドン!
「あんたのせいよ!」
拳の皮が破れる。
血が滲む。
それでも叩き続けた。
「返して!」
ドン!
「私の人生を返しなさい!」
力尽きるように、その場へ崩れ落ちる。
血の付いた手が、床へ滑った。
「……許さない」
小さな呟き。
「絶対に、許さない」
ぽたり。
一滴の血が、石畳へ落ちる。
古びた床の隙間へ、ゆっくりと染み込んでいく。
セシリアは気付かなかった。
自分の血が、どこへ流れていったのかを。
薄暗い地下牢の奥底。
誰にも知られることなく。
長い、長い眠りの中で。
何かが、静かに目を開いた。




