DILECTUS TUUS ITALIAN MASTIFF あなたの愛しい軍用犬 II
昼をだいぶすぎたが、夕方にはまだ早い。
軍施設まえの大通りは、通る人の数はそう多くはなく、車の通りもまばらだ。
フレックスタイム制が定着して一世紀近くになる。通勤時間も退勤時間もそれぞれのはずだが、道路が混む時間帯とそうではない時間帯があるのはなぜなのか。
施設の玄関口をあとにし、アレクシスは教会に向きそうになった足を止めた。
今日はダニエルは用事があると言っていたのだったか。
出来合いの料理でも買って帰るかと思う。
空は晴れていてきれいな空だが、またチラチラと雪が舞ってきていた。
寒くなるんだろうか。
そう考えながら合成革の手袋を直す。
ダニエルは、夜までには帰るんだろうか。
それとも遅くなるのか。
軍服の内ポケットのあたりをさぐり、准将からあずかった封筒を確認する。
私的な用事と言っていた。福音書とやらはダニエルの私物なのか。
どこで准将と接点があったのか。
教会は軍施設から歩いて行けるほどの距離だ。カトリック関係の資料を見たければ相談するのも道理だが。
こんな接点があったのなら、准将のIDは自分でさぐればよかったのでは。
そこまで考えいたり、アレクシスははたと目を見開いた。
准将の執務室へと出向くまえ、IDを盗むチャンスと考えたのではなかったか。
緊張ですっかり忘れていた。
アレクシスは額に手をあてた。
まったく使えん。ダニエルにもそう思われるのでは。
どうする。忘れものをしましたとでも言って准将の執務室に戻るか。
そして、いまここでIDを打ちこんでみてくださいと。
無理すぎる。
だいたい諜報のやり方など、防ぐ側として手口を習った程度なのだ。ダニエルのように実践を知っているわけではない。
「バス、来ますよ」
かたわらから声をかけられる。
近づかれていたことに気づかなかった。アレクシスは軽く目を見開き、自身の横を見た。
落ちついた雰囲気の軍服の男性がいる。
やや細身だが、身長はアレクシスとあまり変わらないくらいか。
黒髪短髪の端正な顔立ち。
「コールドウェル大尉……」
さきほど言葉を交わしたばかりの大尉だと気づく。
「覚えてくださってましたか」
コールドウェルが穏やかな口調で言う。
ていねいな言葉遣いはクセか何かなのだろうか。階級はおなじ。年齢は少し上に見えるのだが。
「人を覚えるのは苦手な方なんだと思ってました」
コールドウェルがそう続ける。
大通りの向こう側で、二階建てのバスがいちど停車して発車する。
コールドウェルは、アレクシスの様子をチラリと見た。
「バスをお使いではないんですか?」
「フリーゲージトレインだ」
アレクシスは答えた。
「……以前どこかで会ってるか?」
「いえ。会ってませんよ」
コールドウェルが答える。
「人を覚えるのが苦手とは?」
「初恋の女の子の名前すら覚えていない間抜けだとお聞きしたので」
コールドウェルが肩をゆすり笑う。
アレクシスは無言で眉をよせた。
「私の同僚から?」
「いえ」
アレクシスと擦れちがうようにして、コールドウェルがスッと歩を進める。
「その女の子とやらから」
アレクシスは目を見開いた。
あの子について何か知っているのか。
「あの子は……」
「軍用犬は軍用犬らしく、余計なことをしないで待機しているべきでは?」
イラついた口調に感じた。
例えがあまりといえばあまりだが、アレクシスはそこに言及する気も削がれて、去って行くうしろ姿を見ていた。
軍施設から歩いて十分ほどの駅につく。
入口のガラス製の自動ドアから入ると、ひろい構内に響くざわめきが耳に飛びこんだ。
外套についてしまった雪を軽くはらい落とし、アレクシスはブレインマシンを起動させた。
通勤用のレールパスを表示し、改札口に向かう。
観光客も多いこの駅は、改札口付近に来るとさまざまな行き先をしめした路線図の立体画像がならんでいる。
駅名や路線名はこの国の言語で表記されているが、海外から来た人間がブレインマシンを通すとそれぞれの言語に翻訳されて表示されるらしい。
疑問な点はブレインマシン内のAIが答えてくれるが、観光客向けとしては華がほしいのか、奥にインフォメーションコーナーがあり美男美女のアンドロイドが利用客の対応をしている。
今日は帰ったら何をしようか。
ここのところは以前とおなじようにダニエルが毎晩泊まっていた。
急に一人となると、時間を持てあましそうだ。
映画でも観ようか。
個人宅のディスプレイでダウンロードして簡単に観られるが、こういうときは昔ながらの人が集まる映画館もいいかと思える。
一世紀まえまでには減る一方だった映画館は、三十年ほどまえの懐古映画ブームで盛り返し、いまでは郊外に行けば何軒かはある。
そうか分かった。さみしいときに行くところなのか。アレクシスは眉間にしわをよせた。
すぐ横を外国人らしき人々の集団が通りすぎる。
一気に改札口の付近が混み出した。軽く人に揉まれる。
ふと下半身を触られた気がして、アレクシスは立ち止まった。
腰のあたりをなでた手がススッと前に回り、外套越しに股上のあたりをさぐる。
「なん……」
いまどき同性愛はとくにタブーというあつかいではない。こういった目に会ったことは一、二回ほどはあるが。
「この野郎……!」
アレクシスは口走った。
「軍人を痴漢するとは、いい度胸だ」
ふり向いて相手の腕をつかむ。
捻り上げようとしたが、相手は力を込めにくい指先に勢いをつけて腕を動かし、外した。
合気道の動きだ。アレクシスは相手の顔を見た。
きれいな金髪に、外套の合わせから覗き見える司祭服。
ダニエルだ。
「は……?」
アレクシスはぽかんと恋人の顔を見た。
「何してんだ、おまえ……」
「人恋しそうな顔で歩いてるからだよ」
ダニエルがひらひらと手をふる。
アレクシスは顔をゆがめた。
表情にまで出ていたのか。
「でも安心したよ。あなたが痴漢してきた相手にホイホイやらせるような人じゃなくて」
「AVでもあるまいし」
アレクシスは顔をしかめた。
「ああ……そうだ」
そう続けて、外套の合わせをめくる。軍服の内ポケットをさぐり、准将からあずかった封筒をとり出した。
「おまえに渡してくれって。ジンデル准将が」
ダニエルが真顔になる。封筒を受けとると、開封して中を覗いた。
アレクシスは、目線だけを動かしてチラリと中を覗き見た。やはりUSBチップのようだ。
「ありがと」
ダニエルはそう言うと、封筒を外套の内ポケットに入れた。
「つづきはあしたね」
「つづき……」
「痴漢のつづき」
ダニエルがふたたびヒラヒラと手をふり、駅の免税店のほうへと立ち去る。
あしたはいったい何をされるんだ。
アレクシスは見送りながら口元をゆがめた。




