八話・歪みの中枢
神官はあれ以来は訪れることはなかった。
アッシュは街と外を往復するだけの特に変化のない日々を送っていた。
そして今日で探索を始めて七日目。
今は森で、ちょうど昼食を兼ねて休息を取っていた。
「…………」
この、ベルムの森とはダクトル最大の森林地帯である。
広さとしてはロデーヌが二つ収まるほどで、生い茂る植物には有益な種類も多い。
また野生動物も非常に多く生息しており、狩人たちの稼ぎ場でもあった。
だから平時には共有林として開放されており、狩りに炭焼きに放牧と人々によって様々な方法で活用されていたらしい。
とはいえそれも今は昔で、現在は魔獣が闊歩する魔境と成り果てている。
「こっちは、駄目だったな」
この森ではそこそこ背の高い木々がある一定の間隔をもって生い茂っているが、アッシュがいる場所は開けた広場だった。
うららかな正午の日差しが差し込むので、それだけならいかにも憩いの場にでも相応しい様子である。
しかし今は魔獣の死体が惨たらしく放置されており、常人ならとても落ち着けるような場所ではなくなっている。
「次は……」
しかし、そんな場所でも平然と食事を摂れるのがアッシュだった。
広場のすみに転がっていた大岩の上にあぐらで腰掛け、血塗れの左手でポーチに入れて持参した丸パンを齧っていた。
そしてその膝にはこの森がまだ共有地として利用されていた頃に作られた地図が置かれている。
「…………」
腹に入ればいいと、小さく握りつぶして持参した二つ目のパンを取り出す。
手袋についた血で地図を汚して、探索した場所を示す印の代わりにする。
もう始めて七日にはなるはずだが、それでも今のところはなんの成果も挙がっていなかった。
毎日毎日バツ印ばかり増やしている。
三つ目のパンをぼんやりと咀嚼してしまった後、アッシュは腰に下げた鉄の水筒を呷る。
そして行き先を決めて腰を上げた。
「……ごちそうさま」
こうなったしらみ潰しだ。
そんなことを考えるも、実は内心参っていた。
なにしろ支門は人の目に見えないのだから。
支門には、活性と非活性と呼ばれる二つの状態が存在する。
支門を守る存在である【門衛】という魔獣が生きている限りは常に活性化しているのだが、これがなかなかに厄介なのだ。
大量の魔獣を吐き出す上に、至近距離まで近づかない限り人間の目には見えなくなってしまう。
逆に言えば、門衛さえ倒せれば非活性化して魔獣をあまり吐き出さなくなる上に、目視でも確認することができるようになるということでもあるが。
とは言っても、この門衛が上位魔獣並みの力を持っているので簡単にはいかない。
故にアッシュが呼ばれたのだろう。
……ちなみに上位魔獣とは一度の戦役で二十半ばほどしか現れない非常に珍しい魔獣だ。
その強さは単騎で千の軍勢を薙ぎ倒すほどだと伝えられている。
見つければ殺す自信はあったし、実際いくらか殺してきてもいたが。
「…………」
思考を打ち切って鎖を手に巻いて走り出す。
もうどこから敵が来てもおかしくはなかったので警戒は怠らない。
広場を抜けると木々が視界を阻むようになる。
影に潜むような知恵は下等な魔獣にはないが、それでも死角に敵がいないとも限らないのだ。
人間の状態のアッシュはしぶといが、それでも脆い。
一瞬の油断が命取りになるだろう。
そんなことを考えた矢先に魔獣の群れと出くわす。
数はざっと見五十いくらほどで、構成はいつも通りオークにヒュドラ、それからハーピィ。
いや、いつも通りというよりも、実際には四の魔王の支門があるこのあたりにはそれ以外はいないと言うべきか。
四の魔王の魔獣……【咎人たち】の縄張りなので、他の魔獣はあまり寄り付かないのだろう。
アッシュは、どこへ行く気かゆっくりと移動する魔獣の群れの後をつける。
いくら探索に来たとはいえ、これだけの規模の群れならばそこらの村なら滅ぼしかねない。
倒しておくべきだろう。
一番多いオークを中心にして固まり、ヒュドラが行列からはみ出るような形で随伴する。
ハーピィは時折木に止まったりしつつ、嘆くような耳障りな鳴き声を上げながら群れの上空を旋回していた。
群れの中でもヒュドラは、闇夜でも人によく気がつくほど視覚が鋭い。
だが代わりに聴覚や嗅覚は大したことはなく、死角を意識してゆっくりと忍び寄れば先手を取れる。
「『魔物化』」
背後に生じた異様な雰囲気を感じ取ったのか、最後尾のオークが弾かれたように振り向こうとする。
が、もう遅い。
剣が深々と背を貫く。
「力よ、刃となれ」
オークは深手を負っても動こうともがく。
しかしアッシュの剣が炎を纏ったことで、身を焼かれ断末魔と共に絶命する。
すると流石に魔獣たちも気がついたのか、いくつもの視線がアッシュを射抜き森の中には一瞬で殺意が満ちる。
「…………ッ!」
オークが叫ぶように唸り、木に止まっていたハーピィが耳障りな声で騒ぎ立てながら飛び立った。
アッシュは、いまだ足元で燻っている死体を踏み越えて走り出す。
そして、まず近くで棒立ちになっていたオークを二体斬り捨てる。
そして、目の前に押し寄せてきた四体も魔術でまとめて薙ぎ払った。
「穿て『炎杭』」
詠唱の完了と共に振り抜かれたアッシュの左手から丸太のように太い炎の杭が放たれる。
オークたちの内、直撃した二体ほどは一瞬で絶命する。
だが他のものに対しては致命傷にまでは至らなかった。
なのでまた『杭』を飛ばす。
街と違ってここにはアッシュしかいない。
巻き込みによる被害の心配もないので、いくらでも魔術は使える。
だから、後ろに飛んで距離を取りつつ杭を連射する。
人間なら魔力が干上がるがアッシュなら全く問題はない。
押し寄せる群れの内の十体以上を焼き払う。
しかし、杭の乱射から生き残ったオークがアッシュに肉薄してきた。
手早く先頭の首を焼き斬ったが、同時に背後に気配を感じて身を翻す。
気配は、空からの奇襲だった。
つまりハーピィだ。
空から降下して、爪を突き立てるだけの下等な魔獣だ。
飛びかかりを避けながら体を捻り、無駄に人間に似た姿を縦に斬り裂く。
それから、すぐに正面に向き直り残りのオークを排除した。
さらなる敵のただ中に切り込む。
駆け足の勢いを乗せた斬撃で、三体のオークをまとめて斬り伏せた。
続けてもう一体は思いっきり蹴り倒す。
吹き飛んで、酸を吐き出そうとするヒュドラに激突した。
もつれ合う二体はそのまま溶解液にまみれて死ぬ。
しかし敵はまだ多い。
とりあえず、飛びかかってきたオークに鎖を投げる。
首を捕まえた。
抵抗しようとするから、一度思いっきり鎖を引っ張る。
すると、首がへし折れて大人しくなった。
だからそのまま、引きずり寄せて武器のように振り回す。
巨体の重量を鈍器として活用することにしたのだ。
容赦なく振り回し、周囲の魔獣をまとめて叩きのめす。
何度かそうしていると、衝撃で骨格がガタガタになったオークの死体がきりもみしながら飛んでいった。
首がねじ切れていた。
それを見届けて、血みどろの鎖を腕に戻した。
「…………」
周囲を見る。
大立ち回りのおかげか、大量の魔獣が集まってきていた。
だから、その群れを一掃するための魔術を使うことにする。
しかし複雑な魔術を用いるためには準備が必要だ。
形を並び立てるだけでは魔術は発動しない。
ルーンを刻んだメダルを何枚か並べれば魔術が使えるということはない。
組み合わせる際には形同士の重なる角度、深さ、大きさの比率、その全てが噛み合う必要があり、詠唱で再現するのならより難度は高くなる。
だが、魔物であるアッシュはある理由からそれらを簡単に使いこなすことができる。
「形よ、力を広げろ。永く力を留め、四辺に迸れ」
『地』のルーンに、『老兵』と『氾濫』を付け足す。
素早く詠唱を終えたアッシュに、体勢を整えたハーピィが爪を立てようと迫った。
だが無造作な一閃ではたき落とし、ヒュドラの猛攻をすり抜け、魔術を発動した。
「『大炎流』」
刹那、アッシュの周囲が白熱した。
凄まじい衝撃波を伴って膨れ上がった炎は、周囲の魔獣を等しく焼き払う。
つんざくような爆音と閃光の後、あたりに煙と木が燃える臭いが漂い始めた。
アッシュは少し歩いて、羽がもげて痙攣する消し炭のハーピィにとどめを刺す。
煙の向こうから斬りかかってきた、隻腕のオークの喉を一突きにする。
離れていて、難を逃れた魔獣も少しいたので残党を潰す。
と、そこでアッシュはある違和感に気がついた。
何かいる。
今感じたのは視線だった。
先程までの戦いを全て見ていたかのような、魔獣にあるまじき知性を秘めた視線だった。
敵の気配を探りながら油断なく身構えていると、視線の主はすぐに白煙の向こうから姿を現した。
「ああ、こいつを潰せばいいのか」
そうつぶやく。
見てわかった、こいつが門衛だ。
巨大な狼のような獣のシルエットに、そこかしこの毛が抜け落ちて底光りする黒く硬質な皮膚。
そして、その皮膜を破かんばかりに肥大化した骨格と、まるで裂けてしまったかのように巨大な口。
だが、最も異様で醜悪なのは頭部だ。
そこでは、雑然とはみ出した脳が絶えず脈動に合わせて飛び跳ねていて、顔の上半分を覆い尽くしていた。
その様は、まともな生物のものには到底見えなかった。
魔獣が現実の生物の特徴を悪意を込めて模倣したような姿を取るのは珍しいことではないが……中でもこれは悪い部類に入るだろう。
見ているだけで殺意が抑えきれなくなってきた。
舌打ちを一つ打ち、目の前の魔獣へとにじり寄る。
強いことはもうはっきりと分かっていた。
魔力を食う怪物……つまり魔物であるアッシュには、敵の魔力の気配が詳細にわかる。
だから目の前の敵が中位魔獣以上の力を持つことは読み取れる。
さらに、見た目が【咎人たち】やその他の分類に当てはまらない。
これは上位魔獣や門衛……その他の特別な魔獣だけの特徴だ。
まだ門衛ではなく上位魔獣であるという線もあるが、今まで一度も街に攻め入ることもなく森にいる時点でほぼ門衛と断定してもいいだろう。
「――――――――ッ!!」
気色の悪い狼が吠えた。
考え事をしていたアッシュから、思考による隙を嗅ぎ取ったのかもしれない。
生理的な嫌悪を煽るような巨体が動く。
そして、醜悪で出来の悪い工作のような見た目に反して、動きは風よりも速く、爪の一撃は岩よりも重い。
アッシュは剣では受けきれないとすぐに理解した。
飛び退いて回避する。
しかしそれで終わるはずもなく、魔獣はすぐに次の攻撃に移っていた。
当たれば即死の爪の連撃で休む暇もなく攻め立ててくる。
「…………っ」
それは凄まじい攻勢だった。
欠片も理性を感じられない、ひたすらに殺意を濃縮したような猛攻だった。
アッシュは入りくんだ木々を利用して退避し、一度準備をすべく大きく距離を取る。
それから、剣を払い炎を消して刃を鞘へと収めた。
「…………」
敵を前に剣を引くことを訝しんだ訳でもないはずだが、魔獣は動きを止めてアッシュをじっと見つめてくる。
そのどうしようもない愚鈍に小さく笑い、自らの心臓の位置に爪を立てた。
「『魔人化』」
低く、呻くように漏らされた声は、確かに魔獣にも届いたようだ。
何を感じたか地を蹴り、殺すために向かってくるがもう遅い。
ズクン、と。
心臓が疼いた。
魔物の本性が訴えかける。
殺せと。
目の前の敵を、殺してしまえと。
「殺戮器官開放――――『偽証』」
刹那アッシュの体は黒炎に包まれ、ほんの数分後にはもう、勝敗は決していた。