三十三話・吊られた世界(2)
とある荒野に、くたびれ果てた帝国兵たちがいた。
暗い曇りの空の下。
百と少しの軍隊は、全員が泥に汚れ、疲れ切った表情でとぼとぼと進んでいる。
縦に二列で並ぶ兵士たちの中には、自分で歩くことすらままならない負傷者もいる。
そうした者は、朦朧とした表情で隣の仲間に支えられていた。
そんな彼らの前で、一人の男が声を上げた。
「全隊、止まれ! おい、貴様らに、この俺がありがたい命令を授ける! 耳かっぽじってよく聞け!!」
ことのほか威勢のいい声だった。
四十ほどの、体格のよい男である。
彼は兵士たちを指揮する士官だった。
なので、彼の命令に従い兵士たちは足を止める。
薄汚れた部下たちの顔を見回し、先頭で怒鳴り散らした男は言葉を重ねた。
「これより我らはエリアCのヘリウス大隊に合流する! しかし! その前に寄生虫を炙り出す必要がある! ……分かってるな? 並べッ!」
落雷のような声が一息に指示を伝えた。
兵士たちはそれぞれに答えを返すが、その声には覇気がない。
これから、何が起こるのかは分かっているのだ。
縦二列の行軍を解き、横に広がって並んでいく。
「よーし、いいか……野良犬どもめ。見てろ、まずはこの俺様が手本を見せてやる!」
じろりと兵士たちを睨みながら、士官は腰につけたナイフを取り出す。
そしてそれを、自らの右胸に突き立てた。
「…………!」
痛みにか歯を食いしばる。
しかし声一つ上げることはない。
やがて、忌々しげにナイフを引き抜き、部下たちへと怒鳴り声を投げつける。
「見てたな、貴様ら? 同じようにやれ! もし寄生虫がいれば、汚らしい触手が這い出てくる! 見逃すなよ!」
要は、ガーレンの寄生体への対抗策である。
触手が傷を治癒する性質を利用した、苦肉ではあるものの効果的な判別法だ。
士官は左端に立った兵士をナイフで指し、怒号をもってならうように命じる。
「では、立派な人間サマである俺に従え! こっちから一人ずつ前に出て、手前の肉にナイフを刺すように!」
言われて、指名された兵士が前に出る。
軍服の袖をまくり、ナイフをゆっくりと自らの左腕にあてる。
それを見ながら、あくまで威勢良く士官は語りを続ける。
「安心しろ、我らが帝国製は切れ味がいい! きれいに切れるんで痛みもない! 良かったなァ!」
しかし、その兵士は中々腕を切ろうとはしない。
士官は痩せこけ、鬼気迫る相貌で兵士をじっと睨んでいる。
武器であるライフルを抱え、ゆっくりと歩き回りながら。
「どうした? 早くやれ! 貴様、ナイフより鉛玉が好みか?!」
恫喝に近い言葉を受けて、ようやく兵士は動いた。
怯えきった表情で腕にナイフを突き立てる。
しかし寄生体は出てこない。
それを見て、何故か兵士は泣き始める。
「良かった……俺、き、寄生されてない……寄生されてない……」
「ブツクサ言うな、どけ! 無駄なおしゃべりがしたけりゃ、除隊してお人形でも拾ってこい! クズが!!」
それから、一人ずつ前に出て証明を行う。
兵士たちはほぼ寄生されてはいなかったが、やはりいないということもない。
見つかれば、必ずきっちり三発の銃声が響く。
士官が睨みを利かせながら、歩き回って指示をしているのだ。
「いいか! 一番近い奴が撃て! 足に一発、腹に一発、頭に一発! 止めて、倒して、トドメだ! それ以上は一発も撃つな! 無駄撃ちしたバカは俺にブッ殺されると思え!!」
やがて、そんな調子で確認が終わる。
士官は寄生体の死体に歩み寄り、そのまぶたを一人ずつ閉じさせる。
さらに手にはしっかりと銃を握らせ、空が見えるように横たえた。
寄生虫を弔うのではなく、無念の中で果てた仲間への追悼である。
「……よし、人間だけになった。喜べ!!」
喜べ、という言葉に残った兵士たちが笑う。
士官も笑った。
屈託のない表情で、声を上げて笑った。
「いい笑い声だ! 貴様ら、腹いっぱい息をしておけ! じきにできなくなる!」
それから、士官は自らの言葉通りに深く息をした。
深呼吸をして、兵士たち一人ひとりの顔を見る。
「……では、本当の作戦を伝えよう。さっきのは魔獣どもに聞かれちまったからな」
魔獣たちは見たもの、聞いたことを共有する。
だからもう合流の道は閉ざされた。
それに、みな分かっていたのだ。
狩り出された敗残でしかない己らには、もはや生き延びる望みなどないことを。
「これから、我らは市民たちの救援に向かう。ガーレンの人でなしどもに踏み荒らされた街を救う」
そこまで語って。
士官はつと目を伏せた。
勝ち目がないことも、彼には分かっていたからだ。
唇を噛み締め、血を吐くような声で部下たちへと語りかける。
「……だが、おそらく成功はしない。不幸なことに、貴様らの指揮官は無能のクズだ。犬死にとなるだろう」
それでも、と。
士官は顔を上げる。
怒りと誇りを瞳に燃やし、低い声で語りを続ける。
「それでも……我らはきっと語る。死ぬ前に、全員が市民たちに叫ぶ。『次が来る』と『希望はある』と」
士官は悔しげに唇を噛む。
そして、疲れ切った仲間たちの顔を見た。
彼は、これから部下たちを死なせてしまうことがやり切れなかった。
同時に、市民たちのために死ぬことに意味を感じていた。
どうしようもない葛藤に耐えきれず、やがて士官は部下たちに背を向けた。
「……この、馬鹿な作戦に賛同する者だけ……ついてこい。俺は振り向かん。貴様らに、こんなことを強制はしない」
言い置いて、士官は歩き始めた。
しかし、その背に一人……また一人と兵士たちが続く。
そして汚れ切った顔で、傷ついた体で笑う。
「…………」
全員の足音が揃った時、士官は自ら約束を破った。
息を震わせ、涙をこらえながら振り向いた。
そして部下たちに荒っぽい冗談を投げかける。
「残念だ。ここには、頭の足りないやつしかいないようだな」
その言葉に、兵士たちは口々に軽口を返す。
学校は途中でやめたとか、小隊の人数より上の数は知らないとか。
それに、士官はニヤリと笑って口を開く。
「いいだろう! では貴様ら、胸を張れ! 顔をよく拭いて、余裕があらば靴も磨け! みすぼらしい格好では、市民に乞食と勘違いされる!」
―――
……そんな、悲壮で美しい決意が数時間前のこと。
猛々しく街に突入した決死隊は、あっけなく命を散らしてしまった。
理由は一つ。
運悪く門のそばにいた、キラーとミケリセンに鉢合わせたからだ。
「……何がしたかったんだ、こいつら?」
キラーは呟く。
百余名の遺骸が散らばる通りを歩きながら。
やがて一人、死に損ないを見つけて目を留める。
「……次が…………来る……必ず……。市民、たちよ……どうか、希望、を…………」
うわ言のように、虫の息でつぶやく四十ほどの男だ。
見た目からして士官だろう。
腹と頭が潰れた死にかけなので、実験体にも使えそうにない。
ゴミを見るような目で見下ろし、キラーはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「聞こえちゃいないさ。誰にもな」
ついでのように魔物の兵士に始末を命じた。
興味もなく歩き去る。
背後で虫の息が途絶える気配がした。
「まぁ、聞こえたところで。希望なんざ、ここにあるとは思えねぇが……」
それから、キラーはミケリセンのもとに歩み寄る。
彼は兵士たちの死体を無表情で見つめている。
空っぽの目で、銃剣を手に立ち尽くしていた。
「…………」
その姿を見ながら、キラーはふと違和感を感じる。
彼が作った死体の数が少なすぎるのだ。
「……?」
ミケリセンはキラーより圧倒的に強い。
これまでだって、誰よりも狡猾に戦い大量の人間を殺してきた。
正直、キラーとしては殺人者としての彼を認めているし、『痛みの書庫』での活躍にも期待を寄せていた。
なのにその彼が、あまり多くを仕留めてはいない。
よく見れば、手にした得物も銃剣などという見慣れぬ物で。
「……まぁ、いいか」
ため息を吐く。
きっと気まぐれか遊びだと納得して。
今はただ面倒な仕事を済ませておくべきだった。
「ミケリセン様……失礼。ご要望の通り、ガキを用意しておきました」
キラーは語りかける。
淀んだ目で死体を見ていたミケリセンが振り向いた。
そして、数秒後に出来の悪いからくりのような仕草で頷く。
「感謝する、キラー」
棒読みの言葉が返ってきた。
キラーは揉み手をして、卑屈に笑いながら媚を売っておく。
「いえ……宰相殿のご要望ですから。それに、ガキはもう遊び飽きました。まぁ、赤子はちょっとやれませんが……」
話しながら、キラーは陶酔するような気分になる。
赤子はいい、最高の実験体だと。
なにせ、奴らは素晴らしいほどに成長期なのだ。
第一次成長や第二次成長など比較にならない。
爆発的な発達の時期。
改造に実験に用途は尽きない。
わりに希少なこともあり、最高の素材だ。
「…………」
思い出して、へらへらと笑っていると。
黙ってミケリセンはその場を去る。
キラーは背を見送りながら、気まぐれで足元に視線を落とす。
「おお、こりゃ見事だ」
足元に散らばる死体……つまり、ミケリセンが殺した死体だ。
その全てが、漏れなく銃弾によって頭を抜かれていた。
「もしやあの旦那、なにやら哲学があるのかもな……?」
穴の開いた死体たちを見比べながら、キラーはくつくつと笑いを漏らす。
ああ今日もいい日だと思いながら。
―――
「大丈夫、怖がらなくていいよ」
夜半に。
自らに割り当てられた一室で。
ミケリセンは声をひそめて語りかける。
「怖がらなくていい。何もしないさ……」
相手はキラーが用意した子供たちだ。
首輪をつけられ、鎖で引っ立てられてここに来た。
目の前で家族を殺されたりもした。
当然、ひどく怯えて震えている。
「うっ……うぅ……」
子供たちは泣いている。
女児が三人、男児が二人だ。
いずれも六歳ほど。
性欲処理に使うと言って連れてこさせた。
ミケリセンはかがみ、にこにこと笑顔を作って話しかける。
「わたくしはね、君たちを逃がしてあげるつもりなんだ。大丈夫……別の国まで、連れて行ってあげるよ」
ミケリセンは『痛みの書庫』に向かうと決まっていた。
これを利用して子供たちを逃がすつもりだった。
しかし、子供たちは容易には信じない。
幼いとはいえ、簡単にガーレンの人間を信じるほど愚かではないのだ。
けれどやがて、一人の少女がぽろぽろと涙を流しながらミケリセンに縋る。
「……弟も助けてくれる?」
彼女は肉親を助けるため、意を決して口を開いたのだ。
それにミケリセンは頷いた。
作り笑いを深めて、何度も何度も首を縦に振って。
「もちろん。その子はどこにいるの?」
「連れて行かれちゃった……キラーって奴に。あの子まだ、まだ……赤ちゃんなのに…………」
ミケリセンは一瞬、言葉に詰まる。
そして十秒、笑顔の裏で考えてから答えた。
唇をわずかに引きつらせながら。
「……それは、少し厄介だ。でもきっと助けるよ」
「本当?」
「ああ、本当さ。少し時間がかかるけどね。君たちを逃がした後に……きっと……わたくしが助けてあげよう」
その言葉に、少女はぱっと表情を明るくする。
目に涙を浮かべたまま、ミケリセンの手を取って笑った。
「ありがとう!」
作り笑顔のまま、ミケリセンはじっと少女の目を見る。
逸らさぬように気をつけていると、激しい吐き気がこみ上げてきた。
「…………」
強く喉を握り、こらえる。
子どもたちには悟られぬように。
そうしていると、彼らも少しずつミケリセンを信じ始めた。
食料を分け与えてやると、部屋の奥のベッドで喜んで眠りについた。
「……赤子は、無理だ。キラーが手放すとは思えない。横取りできる理由もない。無理だ」
部屋の隅で。
小さなランプの光を前に、椅子に座ったミケリセンはブツブツと独り語りを続ける。
「無理だ。いや、赤子を試してみたいとでも言えば……それで信じるか? ……どうすればいい? 諦めるしかない。怪しまれる。全員は救えないんだ。いや、救うってなんだ……どうせ、いつか世界中を殺すだろ……?」
数時間、彼は同じようなことを呟き続ける。
やがて深夜になる。
誰もが寝静まった頃、頭を抱えて、食いしばった歯の隙間から涙声を漏らす。
「やめてくれよ……今日は、ちゃんと眠れると思ったのに。やめろ……頼むから、そんなこと聞かせないでくれ…………全員は、救えないんだ……わたくしには……どうしようもないんだ…………」
弱々しい息で、乱れた髪を掴みながら。
首が締まったように、細い言葉をミケリセンは口にする。
そして、そのまま眠ってしまった。
だから最後の言葉を聞いていた少女が……部屋から出たことにも気が付かなかった。
―――
朝方。
部屋のドアが蹴破られる。
ミケリセンの部屋だ。
かつては町長の屋敷だったという家の、上等な扉をぶち抜いて……血まみれの肉を一つ、手に下げた男が荒い足取りで上がり込む。
「おい。聞いたぜ」
その男はキラーだ。
居眠りをしていたミケリセンは、はっとして顔を上げる。
そしてキラーが手に下げた肉、つまり……例の少女を見つけ、瞳を凍らせた。
構わず、キラーは畳み掛けるように言葉を重ねる。
「逃がそうとしたんだってな? ガキどもを」
キラーが侵入してきたことに子どもたちが気が付く。
飛び起きて、悲鳴を上げながら逃げようとした。
しかしそれは果たせない。
キラーはすでに能力を使っている。
部屋の床を侵食し、同化していたのだ。
結果として、床板がひとりでに剥がれ、生き物のように動き、子どもたちの足を貫いて止める。
悲鳴が響いた。
しかし一切構わずに、キラーはミケリセンに詰め寄る。
「こいつ、テメェに預けたはずが……弟助けるんだって忍び込んできやがった。……で、捕まえたら話したよ。どっかの国に逃がそうとしてたこともな」
少女が嘘をついている可能性は十分にあった。
しかし頭に血が上りきったキラーにその考慮はない。
彼は馬鹿ではないが、思い込みが強い人間なのだ。
しかして、今回はその妄執も的を射ていた。
言い返さないミケリセンに勢いづき、顔をのぞき込んで射殺すように睨みつける。
「おい。お前、魔王殿下に逆らう気か? だとしたら許せねぇ。誰が相手だろうがブッ殺してやるぜ」
ミケリセンは、半ばパニックに陥っていた。
大義は……少なくとも、ガーレンという組織の中でのそれはすでにキラーの手中にある。
この事実が広まれば、宰相の立場も危うい。
「…………」
彼にとって、もはや立ち位置を気にする意味はない。
それでも、自由に動けなくなることは避けたかった。
翌日に控えた『痛みの書庫』での任務は、命より重要だったからだ。
だから、なんとか反論を絞り出す。
「……そんなことはない。こいつらは、ただの玩具さ。ちょっと騙して遊んでただけで」
震える声で言い訳を語った。
すると子どもたちが泣き叫んで、ミケリセンを罵倒した。
いや、本当に罵倒していたのかは不明だ。
もう長い間ずっと頭の病気で、幻聴がよく聞こえるのだ。
「じゃあ、殺せよ」
キラーはあっけらかんと言い放った。
ミケリセンは平静を保とうとするが、顔が痙攣していることを自覚する。
「今殺せ。ここで、殺してみろ。できたら信用してやる」
血走った目で語る。
殺せば信じると。
ミケリセンは、黙ったまま目を泳がせる。
さらに何かを探して手を彷徨わせ始めた。
「じ、銃を……取ってくれ。銃が必要だ……」
「あ? 魔法でも撃てばいいだろうが」
訝しむような表情でキラーが言った。
すると、ミケリセンはあらぬ場所を見ながら、全く違うことを語り始める。
「そういえば、まだ一度も犯していなかった。殺したくない」
「ここで犯せよ。見といてやるぜ」
ミケリセンはそれに、しばらくブツブツと呟きを漏らす。
キラーは舌打ちを打つ。
何度も。
五度ほど、心底苛立たしげに舌打ちを続ける。
そして、キラーは手に持っていた少女を壁に叩きつけて殺した。
「いい、分かった。テメェは裏切り者だ。間違いない。そう判断した」
ミケリセンは、壁に張り付いた肉片を見る。
次に自分の手を見て、囚われた子供たちを見た。
それを何度も繰り返し、乱れた呼吸を整えながら、一人の少年のもとに歩み寄る。
「……ごめんね」
ほとんど無意識に繰り返す。
手を伸ばして、細い首を絞める。
少年は泣き叫んでいたが、息が詰まってすぐに黙る。
小さな体に必死で力を込め、のたうつだけになった。
「…………っ」
だがついに絞め殺そうとした時……不可逆の瞬間を前に、ミケリセンは崩れ落ちてしまう。
「あ、あ……あぁぁ……うううぅ……ううううぅ……」
そして、次の瞬間。
目の前で子供たちの体が弾けた。
ミケリセンは身が竦んで動けなくなる。
真っ暗な目で、震えながらぬるい血溜まりを凝視した。
「……ああ〜。分かったよ、ミケリセン」
キラーはそう言って、笑いながら歩み寄ってくる。
表情が剥がれ落ちた、宰相様の姿を楽しげに見つめた。
ニヤニヤと笑って、隣に座り込んで口を開く。
「お前がどうなったのか分かった。書庫の任務に志願した理由も……まぁ、そういうことだよな?」
かくり、と。
壊れた人形のように、ミケリセンの首が傾く。
否、頷いたのだ。
「…………」
心底馬鹿にし尽くしたような顔で、キラーはミケリセンを見下す。
そして手を取り、血溜まりの中に導いた。
子供の肉に触れた相手の表情をのぞき込む。
何かを確かめたキラーは、笑い混じりの囁き声を届けた。
「なるほどな。テメェは反逆者じゃねぇ。ただの役立たずってわけだ」
俯いたミケリセンの表情は余人には伺えない。
けれど血まみれた手で彼の背を叩きながら、キラーは最後の言葉を口にする。
「ま、じゃあいいや。さっさとくたばって来いよ、この出来損ないめが」
―――
やがて、ミケリセンが書庫に旅立つ日が来た。
たった一人、早朝に。
見送りすらなしに門の外へと歩いていく。
手には何も持たず、身一つの姿で。
「お待ちください……!」
しかし、そんな彼を呼び止める者がいた。
ミケリセンはゆっくりと振り向く。
そこには一人の若い兵士がいた。
「君は、確か……以前、キラーの実験に割って入った子か」
ミケリセンは覚えていた。
少し前の話だ。
実験だか食事だか知らないが、魔物の兵士の虐殺を止めようとした兵士がいたと。
しかしそれはルール違反なので、あくまで厳しい声をもって言葉を返す。
「……国に送還するまで、謹慎を命じてあるはずだ。なぜ、こんなところまで来た?」
その問いに兵士は答えない。
ただ泣き笑いをして、穏やかな声で語りかけた。
「ミケリセン様。……私を、覚えていますか?」
覚えてはいた。
ルール違反をした兵士として。
しかし、なにか遠い文脈で聞かれているとミケリセンは理解する。
「……君を? いや、すまない……覚えがない」
だからそう答えた。
旧知の者の中に、この青年は居ないはずだったから。
すると、兵士はまた微笑んで目元を拭う。
「無理もありません。あれはもう十年も前……懐かしい。まだ妹様も、セイラ様も……ご存命の時でした」
何かを悟ったようにミケリセンが目を見開く。
兵士も頷いて、肯定するように言葉を紡いだ。
「私は、ほんの小さな子どもでした。城の兵士の子どもでした。でも城の中庭で、あなたが遊んでくださった。他の子どもたちと一緒に」
兵士の言葉を聞いて、ミケリセンは懐かしげに目を細めた。
思い出したのだろう。
確かに、かつてはそうした日々があったのだ。
小さく息を漏らして、目の前の兵士に微笑みかける。
「……そうか、君は、あの時の子どもか」
「ええ、そうです。トーマスです」
「覚えてるよ。君の誕生日に、一緒にケーキを焼いた。あの時は、母上が用意を手伝ってくれて……」
ガーレンはもともと、小さな国なのだ。
そして貴族と平民の距離が近い。
こぢんまりとした城にはしばしば民衆も出入りし、こうした交流の一幕さえもあった。
かけがえのない思い出を抱くように、ミケリセンは微笑みを浮かべながら俯く。
「懐かしいな……そうか、あの時の子か……」
優しい声だった。
しかし一方で、滲む悲しみが息を震わせてもいた。
言い表せない感情に満ちた声が、また兵士へと言葉を投げかける。
「立派になったね。よく……君は、勇気を出したね。すごいよ、本当に」
キラーに割って入ったことだ。
あの時の子供が、変えようのない邪悪に立ち向かう勇気を持つ大人になってくれていた。
その事実は、ミケリセンにとって眩しくもあり、後ろめたくも感じることだった。
しかし、当の本人は悔しそうに俯いてしまっていて
「私は……わ、私なんて」
それから、ボロボロと大粒の涙を流す。
悔しげに拳を握りしめて。
「何もできなかった……何もできなかったんです……私は、あまりにも、弱くて……」
「そんなことはない。君はすごいよ。……本当に、立派だよ」
ミケリセンは兵士を励ました。
さらに涙ぐんで自らの罪を吐露する。
「僕は、強い力を与えられたけど……それでも、なにもしなかった。できなかったんだ。そんな僕に比べたら、君は……」
しかし、その独白を兵士が遮る。
「いえ。あなたは子どもを逃がそうとした! それに、送還だって……私を、国に帰すために……! わかったんです、あなたは何も変わっていない……! あなたは……!」
今度はそれをミケリセンが遮る。
冷え切った声でもって。
彼の言葉を全て否定するように。
「違う。偽善だよ。そんなの」
沈黙が続く。
兵士は何も言えなかった。
ミケリセンは茫洋とした目で彼の姿を見据えている。
「…………」
やがて、何かに気がついたように目を瞬かせた。
そして青年へと泣いたような微笑みを投げかける。
「……ああ、ああ、でも、もう決めたんだった。中途半端はもうやめだ。やっと勇気が出たからね。僕も」
ミケリセンは背を向ける。
また歩き始めた。
ぶつぶつと、虚空へと呟きを漏らし続ける。
「……そうだ。君たちが、もう苦しまずにいられるように。かわいそうなみんなが、もう誰も殺さなくてよくなるように。決めたんだ」
その姿は、端的に言って異常だった。
少なくとも兵士にはそう映った。
壊れたものが、死骸が、糸で吊られて動かされているような。
悲しみと痛ましさを感じ、兵士は思わず叫びをあげた。
「ミケリセン様っ!」
遠くなった背が一度だけ振り向いた。
彼は兵士に手を振って、穏やかな声で別れを告げる。
「見送りに来てくれてありがとう。……君は、あんまり無理をしちゃだめだよ」
それから、ミケリセンは同じ言葉を繰り返す。
きっと、君たちが楽になるように。
幸せになれるように。
頑張るから。
……と。
まるで、なにかに憑かれたかのように。
小さな声で、何度も何度も。
自らの魂に刻みつけるように、繰り返して……兵士の前から去って行った。




