三十一話・『杖折り』
黒炎を使い書庫を駆け抜けていく。
その速度は、アッシュ自身把握しきれないほどに速い。
しかし徹底的な反復練習により、移動量の制御は可能だった。
だから先に目的地、つまり必要な距離を決めて動くことで、過不足なくその場所に立つことができる。
これを繰り返して動き続ける。
「はぁ……」
その途中、アッシュはため息を吐いた。
憂鬱だと感じる。
もしミケリセンが魔王を召喚していた場合、詰みになる可能性が高いからだ。
なぜなら、ミケリセンはアッシュが自爆することを知っている。
知った上で呼ぶなら魔王に自爆は通用しないはずだ。
「…………」
そんな風に、悪いことばかり脳裏には思い浮かぶ。
重苦しい諦念が肩にのしかかっていた。
けれど、いささかも動きが乱れることはない。
高精度の黒炎を使用した移動により、アッシュは一分足らずで目的地へとたどり着く。
「……ここか」
シドによれば書庫の回廊の途中、小さな物置に地下室があるという。
物置に入ると、果たして乱雑に物が押しのけられた形跡があった。
ミケリセンが出入りをしたのだろう。
その場所に近づくと、引き剥がされた鉄の蓋が転がっている。
「…………」
移動の最中、外れていたフードを顔にかける。
そして無言で足を踏み入れて、階段を降りていく。
道の左右には例のガラス細工が埋め込まれていて、それが光っているため光源は確保できている。
不意に、蟲を通じてアリスが語りかけてきた。
『不思議ですね。サティアの音の探知にかからなかったんでしょうか?』
アッシュは油断なく視線を巡らせながら答える。
とはいえ、声を出さずに思念をもってだが。
『まぁ、そうだろうな』
いかなる理由なのかは不明だった。
それだけ魔王にとっては隠したい場所である、ということか。
もしそんな場所なら、ミケリセンが隠れ家に使うのも頷けた。
やがて、階段の終わりが見えた頃にアッシュは立ち止まる。
「……余分につけておいてよかったな」
小声でつぶやいた。
アリスが不思議そうに聞き返す。
『え?』
アッシュは何も言わず、一匹虫をつかんだ。
そして階段の先に投げ込む。
偵察のためだ。
放たれた蟲は勢いよく飛んでいく。
『ちょっ……酔うんですけどぉ?!』
アリスが悲鳴を上げる。
視界まで共有していたのかもしれない。
きりもみして飛んだことに物言いがあるらしい。
無視して状況を確認する。
『どうなっている?』
すると、不服そうな気配を引きずりながらも答えた。
『……別に、なにも』
『なにも?』
『何もいません』
何もいないと語るが、含みのある口調だった。
なにか魔王の心理を感じたのかもしれない。
ただ何もいないのは確からしいので、ひとまず先を急ぐことにする。
『居心地が悪いなら、感応は切っておけ』
念のため伝えた。
アリスはため息を吐く。
『快適ですよぉ〜。誰かに投げられなきゃね』
『次からは事前に言う』
『あと、アンダースローでお願いします。可能なら無回転で』
それから、階段の先に出た。
すると、地下にもまた書庫があることが分かる。
上のものとは異なり、薄暗く荒れ果てた場所だったが。
「…………」
アッシュは注意深く周囲を見回す。
こちらの書庫でも、多くのものが持ち去られているようだった。
しかし壊れたものだけは残っている。
かえってそれが物悲しさを誘うような気もする。
しかし気に留めることはせず、廃品の書庫をアッシュは進んでいく。
「扉?」
やがて、歩いていくとつきあたりに扉があった。
両開きの大きな……むしろ門、と呼ぶのがふさわしいような巨大な扉だ。
『投げますか?』
アリスの声がする。
そのつもりはなかったので否定した。
開けてしまえば目立つので、偵察もクソもない。
『いや、いい』
代わりに奇跡の詠唱を始めようと考える。
しかし、その前にアリスが止めにかかった。
どうやら彼女にも、魂胆をすっかり読まれていたようだった。
『アッシュさん。それは思考停止です。意味なんかありません。なにかあったら、逃げて戻ってきてください』
その言葉は正しい。
アッシュだって分かっているのだ。
自爆の存在を知られた上で、それをするのは無駄でしかないと。
さらにアリスは言葉を重ねる。
『一緒に戦いなさい。最後まで。あなたが私を連れてきたんです』
いつになく真剣な声で言われる。
何度も来るなと言ったのに、アリスは本気でこう考えているようだった。
「…………」
アッシュは鼻を鳴らして、何も答えずに扉を開ける。
―――
扉を開くと、そこには殺風景な石室が広がっていた。
いや、石室と言うにはあまりにも広すぎた。
壁も天井も、部屋の薄暗さに隠されて果てが見えない。
それほどに体積のある部屋なのだ。
室内には無数の柱が整列し、そこに据えられた燭台だけが唯一の光源だった。
そして、アッシュが入った扉の先には長い絨毯が敷かれている。
これも汚れ、破けた廃品同然のものでしかなかったが。
「ここは、魔王の間って感じだよな?」
声がした。
視線を前に向ける。
遠く、絨毯の先には玉座があった。
小さな階段を登り、小高い場所に据えられた石の玉座である。
そしてそこに腰掛けているのは、ミケリセンであった。
どこにそんな暇があったのか、きっちりと新品の礼服に着替えている。
「……いや、せっかく魔王陛下をお呼びするんだ。わたくしも、それっぽい場所を選びたくてね」
軽薄な様子でそう言った。
アッシュを試すような目で見ている。
動じずに言葉を返す。
「なら、そのご立派な椅子から降りろ。お前の席ではないのだろう?」
「それもそうだ」
場違いな朗らかさで笑って、ミケリセンは軽やかに立つ。
傍らに置かれた銃剣を手に取って。
「さて、やろうか」
こともなげに言う。
アッシュはまだ動かない。
可能ならもう少し情報を引き出したかった。
「魔王を呼ばないのか?」
「呼ばない。君が一人で来たから。呼ぶ必要がない」
アッシュ一人などどうにでもなる、というつもりなのだろう。
しかしそれも妙な話だ。
アッシュが味方を呼ぶとは考えないのだろうか。
「ハハハハハ……」
そう訝しんでいると。
ミケリセンが笑い声を漏らす。
眉をひそめた。
彼は構わず言葉を重ねる。
「なぁ、ここが君たちに見つからなかった理由……分かるかい?」
目を瞬かせた。
答えられずにいると、ミケリセンは小馬鹿にしたような顔で結論を語る。
「出入り口が変わるんだよ。時間帯によって。もう、君が来た道は使えないだろうな」
アッシュは納得して頷いた。
そして出口が分からなければ逃げることもできない。
さらに、逃げたところで魔王を呼ばれるのも避けたいところだ。
腹を決めて、魔物の力の縛りを緩める。
「『魔人化』」
焼死体の姿に変わる。
炭化した皮膚。
へばりついた焦げた肉。
魔人の姿が石室の闇に溶け込んだ。
山刀を抜き、左手で構える。
同時に心臓の力を解き放つと、ミケリセンはニヤニヤと気味悪く笑う。
「…………」
アッシュは何も言わない。
代わりに『偽証』の灰を生成し続ける。
造られた灰は周囲に広がり、霧のように漂い始める。
それがなにか形を得ることはない。
ただ薄暗い部屋の情景を霞ませていくだけだ。
「煙幕? やめときな、それじゃ逃げられない」
ミケリセンは一歩も動かずへらへらと笑っていた。
何も答えず、ただ右手を動かす。
人差し指をミケリセンに向けた。
「……『焼尽』」
漂う灰を一瞬で集める。
指先の熱に込めて弾丸に変える。
同時に、黒炎の機動で前進をする。
加速した瞬間に炎を放ち、速度を乗せた弾丸が放たれた。
直後、後方への機動で即座に停止した。
一瞬の出来事である。
多分、外からはほぼ動いたように見えていないだろう。
「は?」
それから、聞こえたのは呆けたような声だ。
声の主はミケリセンだ。
彼は腹に焦げた穴を空けられていた。
「…………」
それを見て、アッシュは舌打ちをする。
頭を消し飛ばすつもりだったからだ。
まだ加速撃ちでは狙いが定まらない。
移動速度が弾に加算されるため、弾速こそ跳ね上がるが……どうしても精密性には欠けてしまう。
「『焼尽』」
もう一度同じことをする。
超音速の射出が乾いた音を響かせる。
「っ……!」
次はミケリセンが動いた。
しかし避けきれない。
弾ではなく、アッシュの指の動きを頼りに動いたのだろう。
だから正確にはかわせず右肘がちぎれる。
銃剣が落ちた。
「『焼尽』」
さらに撃つ。
今度は転がるように動き、完全に回避した。
アッシュは少し驚くものの、やがて気が付く。
「未来視だな」
ミケリセンの右目が、金色の底光を宿している。
サティアのものに比べれば小さい光だ。
しかし同質の力だろう。
アッシュは淡々と撃ちながら、ミケリセンに語りかける。
「やはり、能力を模倣している」
クロードの力を使った時点で、とっくに気がついてはいた。
なので指摘するも返事は返ってこない。
アッシュが撃ち続けているからだ。
玉座から降りて、悪態をついて逃げようとしている。
「クソッ……!」
おそらくは射程外に逃れようという腹だ。
この炎が身に余るもので、短時間で消えることは見抜かれている。
しかし、この部屋ならどこだろうと間合いだ。
加速撃ちの弾速なら、端から端まで叩き込める。
「…………」
無言で撃ち続ける。
灰を霧のように展開している間、アッシュは最速で質量を固めることができた。
代わりに『偽証』は使えなくなるが。
壁で守る味方がいないなら、些末な問題だ。
右手に左手を添え、ほぼ一秒に一発のレートで連射を重ねた。
「ははは、すごいな。見えないよそれ」
ミケリセンが笑い、遠い闇のなかに逃げ込んだ。
けれど問題はない。
暗闇は常に魔物の眼に味方する。
敵の骨肉はじわじわと削り飛ばされる。
未来視により命中率は落ちたが、当たる内はやめない。
対応される前に射殺したかったので。
……しかし、さらに追い込みを強めようとした瞬間。
唐突に周囲で魔力が現れたのが分かる。
気配から察するに、数十はいそうだった。
けれど五十より多くはない。
敵が呼び出した魔獣だ。
「もうクズしか残っていないのか?」
上位魔獣がいないと悟って言う。
黒炎を使い、一番近い魔力の位置に跳んだ。
中位魔獣だ。
すれ違いざまに山刀で首を斬り落とし、余る勢いを壁を蹴って相殺する。
「……一匹」
石室の壁に深々と足が埋まる。
破砕音と共に亀裂が広がった。
そのまま、さらに黒炎を噴射して動く。
質量を持つ炎の放出は、優秀な速度と瞬発力を両立する。
初速から、中位魔獣程度には見ることさえ叶わない。
「二匹、三匹、四匹、五匹……」
残数を魔力の気配と照合しつつ、漏れがないよう丁寧に潰す。
移動と斬撃がセットになっているため、敵にはまるで反撃の機会がない。
一方的な虐殺になる。
十五秒ほどでミケリセンが呼び出した群れを一掃することができた。
「…………」
とはいえ、少し時間を稼がれてしまったとアッシュは思う。
これに乗じてミケリセンは姿を消していた。
だが眷属並みの魔力を持つ相手だ。
魔物の前で隠れられるはずもない。
感覚を研ぎ澄ますと、すぐに場所を特定する事ができた。
「そこか」
遠く、柱の陰に隠れていると分かる。
即座に射撃した。
柱を何本も貫いて、隠れた敵を黒炎が撃ち抜く。
はずだった。
「……『覇者たる片影』」
着弾前に、柱の裏からミケリセンが飛び出した。
おそらく、今のアッシュの半分程度は動ける。
驚異的な速度だ。
「次は身体強化か」
呟いた。
ミケリセンは強化した肉体を活かし、距離を詰めようとしているらしい。
鋭い眼でアッシュを見据え、柱を蹴る変則的な機動で追跡を始める。
トリッキーな動きは、狙わせまいと思ってのことだろう。
「『焼尽』」
黒炎を使用して逃げた。
大幅に距離が開く。
当然だ。
質量を付与した炎に追いつけるはずがないのだ。
「…………」
無言で、狙いすまして弾丸を放つ。
加速撃ちほどの弾速はない。
が、精度は上がっている。
追ってくる相手には十分だ。
つかず離れず、敵が避けられない近さで撃ち続ける。
「……『赤血陣』」
声が聞こえた。
ミケリセンが柱の陰を通った瞬間、その裏でなにか……赤い光が閃く。
同時に、さらに敵が加速した。
「こいつ……!」
アッシュは速度を調整し、同じ距離を保てるように動く。
けれどまだ加速は終わらない。
終わる気配さえない。
「『雷迅功』、『増力』、『金剛体』、『鬼神相』、『大加速』……」
うたうような声と共に、能力が発動し続ける。
雷を纏い、魔力が収束し、薄赤いオーラを纏う。
「!」
目を見開いた。
なにが起こったのかはすぐに理解できた。
無数の身体強化を重ねがけしているのだ。
雷を纏う足が、柱を蹴って移動する。
蹴った柱は軽くへし折れる。
姿が消えた。
「……ごめーん、追い越しちゃった」
声だ。
背後から。
血が凍りついたような危機感が巡る。
振り向くと、そこには誰もいない。
音の操作に騙されたか。
「残念、上だよ」
直後、頭部に過大な衝撃が叩きつけられる。
隕石にでも当たったかのような。
意識が一瞬でかき混ぜられて混濁する。
飛び蹴りを食らったのだと理解したのは、粉けた壁の瓦礫で身を起こした後だった。
『アッシュさん! 大丈夫ですか?!』
押し黙っていたアリスが安否を確認してくる。
ふらつきながらもそれに答えた。
「ああ……」
直前で黒い騎士の姿になった。
出し抜かれたと気づいた瞬間にだ。
おかげで、甲冑の生成が間に合って生きていられた。
火刑の魔人のままだったら……頭など潰されていただろう。
「……はぁ……はぁ」
息が整わない。
頭が揺れて、呼吸さえ上手くできないのだ。
けれど敵はご親切に待つことなどしない。
すぐに雷速の追撃が来る。
「正直……驚いたよ。君、強くなりすぎてるから」
一瞬で肉薄し、銃剣を操りながら言った。
その声は軽口のようだが、実際のところ違う。
底にあるのは残忍さだけだ。
「…………」
薄闇の中、鋭利な切っ先を閃かせて。
ミケリセンは白刃よりも冷たく笑う。
「……怖いよね。こんな勇者が量産できるなんて。ヒトの狂気は底無しだ」
アッシュは山刀で応戦する。
黒炎を使うと決めた時から、守りに特化した剣技を磨いてきた。
それでなんとか刃を受け流し、時に甲冑を利用して逸らす。
ただ、それだけでは防ぎきれない。
首を刃がかすめる。
「『焼尽』ッ!」
かろうじて離脱した。
まだ瞬間速度なら分がある。
残る優位はやはり黒炎だ。
逃げを織り交ぜ、時に攻めることもする。
火の弾丸を防ぐ手段がないから、受けに回って敵の攻撃は途切れる。
「…………」
無言で戦う。
途中でアリスが何か言った気がした。
聞いている暇がない。
ミケリセンが強すぎるのだ。
法外な怪力とスピードだけではない。
どれかの能力で硬化したのか、山刀程度は生身でも弾いてくる。
理不尽の塊のような相手だ。
「久しぶりだ。こんな、戦いらしい戦いは」
敵が、ひとりごとのように漏らす。
突いて、撃って、斬りながら。
銃と剣の全てを巧みに操り、時に槍にしてアッシュを斬り刻む。
その体技はこれまでとは全く違う。
目を引くのは、軽業師のような奇抜さか。
全速で走ったかと思えば、流れるようにすり足に切り替わる。
壁をも足場に跳んで、宙返りから蹴りに繋げた。
跳躍とともに消え、黒炎を避け、揺れた重心を側転で立て直す。
剣士であり、獣にも近く、弓士に重なり、拳の理合を見せることさえもある。
予測不可の変則体術で翻弄し、あらゆる姿勢から指先一つの銃撃で刺すのだ。
技を尽くした狩りの途中、ミケリセンが口を開く。
「聞いて。……ガーレンは、いつも踏み潰すだけなんだ。なんの感慨もなく、あっさりとね」
冷え切った声。
剣戟の間に届く。
蜻蛉返りに礼服の裾がはためいた。
勢いを乗せた蹴り。
銃床の殴打。
後方宙返りからのトリックショット。
腕の一振りで、魔法の結晶を雨と降らせる。
「簡単に何十万も死ぬ。だから…………ああ、なんだ? それがなんだ? まぁ、別にいいか」
アッシュはその蹴りを受け、打撃を流し、銃弾を避け、結晶を黒炎で迎撃した。
死は常に紙一重だ。
答える余裕などない。
立て続けに。
無から生じた雷の鞭が振るわれて、唸る。
「…………」
死の気配に歯を食いしばった。
この狂人の考えは不明だ。
なぜ、庭の戦闘で本気を出さなかったのかも。
ゴーストに斬られ、逃げ回っていた理由も。
しかし確かなのは、敵が自分よりもずっと強いということである。
「……っ」
苦しい息を漏らす。
いくつもの能力の駆使で追い込まれた。
逃げ回っていつしか部屋の隅だ。
そう長くは対抗できないと分かってはいたが。
当然のように、ダメ押しの一手まで来る。
「学べよ。罠はある。ここはわたくしの庭だぜ」
すぐに気が付く。
目の前、ミケリセンの背後だ。
魔獣の死体があった。
オークが二体。
柱の裏、四肢を釘打ちで固定され。
干からびた死骸を塗料で黒く塗りつぶし、闇の中に隠してある。
その二体の心臓が赤く光った。
これを背に、ミケリセンは無機質に言葉を紡ぐ。
「左目、左足、耳、右腕、八秒」
異変はすぐに起きた。
まずアッシュの右目が見えなくなる。
左足の感覚が消え、音が世界から消え失せた。
この消失はきっと、一瞬のことだったのだろう。
けれどその一瞬さえ致命的だ。
「――――」
音のない世界で、ミケリセンの唇が動く。
動きを読む余裕はない。
周囲から強力な……あまりにも強い魔力の気配を感じる。
そして、右腕が動くことに気づいた。
「……『焼尽』」
次の瞬間、黒炎が爆ぜる。
自分を中心に黒炎の膜を作り、球状の衝撃波として広げたのだ。
要は全方位への炎の盾である。
「へぇ。そういうのもあるのか?」
耳をミケリセンの声が打つ。
聴覚が回復したのだ。
警戒してか、敵は距離を取り軽率には踏み込まない。
今起こったことを理解しきれていないのだろう。
相手にとって黒炎は唯一の急所だ。
浅い斬り合いが続く間に、アッシュは頭の中で思考をまとめる。
「…………」
まず、安定して扱える炎は総量の1パーセントだ。
1パーセントの炎を一秒間。
これがアッシュの限界である。
しかし先ほどの盾においては、10パーセントまで引き出した。
この場合、新たな制限がつくことになる。
十三秒に一回、0.8秒まで。
破れば即座に暴走する。
守ってさえ、アッシュの自我を右腕が蝕む。
そういう制限だ。
十分な練習もできていないため、使いたくなかったが。
もはや背に腹は代えられない。
なので、どう使うかを考える。
「まぁ、時間稼ぎか」
結論を口にする。
味方が入り口を見つけ、突入するまでの時間を稼ぐ。
魔王の召喚を阻止しながら待つ。
それが一番太い勝ち筋だ。
アッシュは右肩の蟲に、つまりアリスへと語りかける。
『悪いが、救援が必要だ。頼む』
『……もうずっとやってます』
すでに探してくれているらしい。
アッシュは頷いて、短く返事をしておいた。
『助かる』
戦いが再開する。
ミケリセンは容赦なく罠を起動し、アッシュをじわじわと追い詰めていく。
しかし、そこは逃げに徹することで生き延びる。
命綱は十三秒に一回、0.8秒の黒炎操作だ。
全周の盾に加え、炎の剣や炸裂でほどよく威嚇を行う。
逃げ続けるアッシュに対し、一歩踏み込ませない抑止力を見せつけた。
そうしていると、やがてミケリセンは立ち止まった。
「……なんだよ。つまらないな。逃げ回ってさ」
無視して逃げ続ける。
気まぐれで距離を稼げるなら歓迎だ。
可能な限り離れ、黒炎を使うのをやめる。
こうして蓄積した狂気を冷ましていると。
また、ミケリセンが口を開いた。
「もういい。もう飽きた。終わりにしよう」
その時。
アッシュの中で致命的な……不可逆な何かが起こった。
ズクン、と強く心臓が鼓動する。
視界が歪み、世界が二重になる。
そして脳に全ての血流を詰め込んだような。
頭痛が。
「……『杖折り』」
最後に聞いたのはそんな声だ。
そして完全に正気が消える。
何かを認識するような、時間すらなく。
―――
「あのさ、いつでもこうできたんだ。今までのは、遊びみたいなもんだよ」
ミケリセンはそう呟き、発狂した魔物を眺めている。
呪わしい咆哮と共に、かつてアッシュと呼ばれた魔物は黒い炎を撒き散らしていた。
言葉を続ける。
「……もちろんクロードもね。君はあの子に、勝った気でいたけど……本当は、いつだって壊せたんだ」
魔物を制御するための、封印の魔術を。
と、最後にそう言い足して。
狂ってしまった魔物に背を向ける。
封印が破棄された今、あの魔物が人間に戻る術はない。
なのでもう、彼はステキな仲間というわけだ。
仲良く人類を殲滅する仲間。
今日も明日も殺しまくる。
死のうが生きようがどうでもいい存在。
「……おっと」
未来視もどきで、自らの危機を察する。
軽く身を翻して回避した。
サティアの未来視は不完全だが、ミケリセンの劣化コピー品は輪をかけて不良だ。
とはいえ、便利である。
背後から振りかかる、火の粉を察知できたのだから。
「火達磨になるって、あんな感じか……やだねぇ」
幻視した、自分が燃え果てる情景を思い返す。
ため息を一つ、少し足早に歩き去ることにした。
魔物の暴走に巻き込まれては下らない。
そして。
「なんだ、またか?」
再び身をかわした。
今度は炎の波だ。
石室の地面を割り、あふれ出す黒炎の一部が運悪く当たりそうになったらしい。
「…………」
振り向いて魔物を見る。
吠えるのはやめたらしいが、炎は膨張し続けていた。
いまや部屋の三分の一を飲み込むような勢いである。
「……さっさと出たほうがいいか」
また背を向けようとした。
怠けず全力で逃げるが吉だと確信して。
しかし、不吉な直感がその足を留める。
「あれ?」
回避した。
渦巻く黒炎の向こうから、小さな……本当に小さな火の粉が飛んできたのだ。
まっすぐに。
まるで狙いすましたかのように。
「おや……」
さらに火の粉が飛ぶ。
目を凝らすと、火は針のように尖った形状をしていた。
かすかな動揺と共に回避し続ける。
「いや、おかしいな」
四度目の火の粉を避けた。
瞬間。
足元から黒炎が噴き上がり、ミケリセンの鼻先を焦がす。
「あー、なるほど」
猛火にのけぞって、にやりと笑う。
銃剣を握り直した。
「なぁ。暴走してないだろ〜、お前?」
下がりつつ問う。
黒く黒く燃える炎の向こうで。
魔物はじっと、ミケリセンを凝視していた。
鈍い、底光りの眼光を、深い血色に揺らめかせて。




