二十七話・皆殺し
実戦訓練の翌日。
仲間たちはそれぞれ、昨日の戦いで見つけた課題に取り組んでいるようだった。
ノインもまた、訓練を続けていた。
涙の池に水を戻し、美しい姿を取り戻した庭園で、ゴーストと組手をしている。
けれど残り二日だというのに、目立った成果は得られていない。
特に組手は散々で、彼からは一本も取れたことがなかった。
……と、考えていると、そのゴーストが口を開く。
「前に言っただろう。お前は、俺に勝つ必要はない」
組み手の合間。
息を保てず膝をついていたノインは顔を上げる。
まだ上手く話せず、返事をすることはできなかった。
ゴーストは言葉を重ねる。
「痛みがない分、より慎重に身を守れ。これは刻印をあてにせず、生き延びるための訓練だ」
彼はそこまで言って、ほんの一瞬だけ言い淀む。
そして、ノインをまっすぐに見て問いを投げかけてくる。
「……しかし、なぜお前は俺に勝とうとする?」
言われて、ノインは俯いた。
そのまましばらく黙り込んでいたが、やがてか細い声で問いに答えた。
やはり目を伏せたままで。
「あたしも、役に立ちたいんです」
口にした途端、胸の奥で何かが軋んだ。
みんなが強くなっていく。
なのに自分だけが同じ場所に立ち尽くしている。
その焦りは、もう何日も前からノインの喉元に絡みついていた。
『私は大丈夫ですよ。修行でとっても強くなりましたからね〜』
アリスの言葉を思い出す。
彼女はずいぶん強くなったと聞く。
なのにみんなを守りたいと言ったノインだけは、言葉が先走って中身がない。
その空虚さが重く圧し掛かってくるのだ。
「……そうか」
ゴーストはそのように答えた。
否定するようでもないが、認めたというわけでもなさそうだ。
しばし考えるような間を置いて、彼はまるで諭すように語りかけてくる。
「ノインよ。俺は、嘘が得手ではない。だから正直に言うが……お前は、戦士に向いていない」
目を見開く。
はっきりと、向いていないと言われてしまった。
何も言えずに唇を噛んでいると、ゴーストはさらに言葉を重ねた。
「それに……体も、もはや戦いには耐えないだろう」
指導にあたって色々と事情を聞いていたのだろう。
そして実際、ノインの体は禁術の負荷によって崩壊している。
加えて、膨大な魔力を用いる刻印を常用したことで魔力の流れに綻びが出ていた。
キメラによってひとまずは死からは逃れたが、回復か強化の刻印を使えば、またすぐに危うくなるという。
「…………」
ノインは何も言えずに俯く。
自分に何もできないということを改めて突きつけられたからだ。
しかしそうしていると、ゴーストはまた言葉を重ねる。
「だが……それでもお前が戦うというのなら、守る術を身に着けろ」
顔を上げる。
ゴーストはじっとノインを見つめていた。
「分かるか? お前が身を捨ててまで戦う必要はない。もっと他の仲間を信じてやれ」
彼は仲間を信じろと言った。
その言葉はノインの中にはない考えだった。
「…………」
声もなく、どうすべきかを考え始める。
しかし彼の言うことが具体的に想像できない。
神のために戦って死ねとしか、修道院では教えられてこなかったせいだ。
「信じる……」
声に出してつぶやく。
信じるにはどうすればいいのかを考えていると、ゴーストが言葉を継いだ。
少し膝を折って、ノインに目線を合わせて語りかける。
「それと、自分が生きることも考えろ。お前が死ねば、みなが悲しむことを忘れるな」
目を見開く。
いざとなったら刻印を使おうとしていることも、彼には見抜かれていたのだろう。
そしてさっきの言葉の意味も少しだけ分かった気がした。
理屈ではなく、ただみんなで、笑って書庫から帰還するような光景を幻視したのだ。
叶うならそれがいいとノインは思う。
そうなりたくてここに来たのだと。
「……はい」
小さな声で返事をする。
まだ上手く言葉にはできないが、少しだけ分かった。
信じればきっと。
少しだけ、いま見た光景に近づけるのだということが。
「ありがとうございます。あたし、考えてみますね」
そう告げると、ゴーストは深く頷く。
無言で肩に手を置いて、励ますように二度叩いた。
と、そこで横合いから声が聞こえる。
「……いいことを言うわね、ゴースト。私も感じ入ったわ」
声に振り向くと、サティアがこちらに歩いてきていた。
いつも通りの鎧姿で、槍を背負っている。
彼女は微笑んでノインたちを見ていた。
「サティア様」
ノインはそう言って目を瞬かせる。
今彼女はアリスと召喚獣の研究をしているはずだった。
しかしなぜかここに来ている。
もしかすると用事があるのかもしれない。
「どうかしましたか?」
笑って歩み寄ろうとする。
けれど、ゴーストが手を引いてノインを引き戻した。
「下がっていろ」
すでに抜く手も見せずに剣を抜いている。
さらに次の瞬間にはサティアに斬りかかっていた。
「なにを……」
言葉を失うノインをよそに、サティアとゴーストが戦い始めた。
無言で剣を振るうゴーストに対し、サティアは薄気味悪い笑みを浮かべている。
二人はたった数秒で、十数回は打ち合っただろう。
目まぐるしく槍と剣を交えながら、その間隙にサティアが口を開く。
「まったく、どいつもこいつも。簡単に見抜いてくれる。こいつは見た目から声、体重と身長までぴったりになる……って、能力なんだけど?」
それで、数拍遅れてノインは状況を理解する。
ミケリセンがサティアに化けて襲撃をしてきたのだ。
軽い調子で嘆くミケリセンに対し、ゴーストは淡々と言葉を返す。
「装備の重さまで真似ておけ。足運びに出ていたぞ」
するとミケリセンは笑って、瞬きの間に本来の姿に戻っている。
へらへらと笑いながらも、槍を振るう手を止めることはない。
「なるほど、流石だ。じゃあ、お友だちを呼んじゃお」
左手で指を鳴らす。
すると、地中から大量の魔獣が出てくる。
言うまでもないが、ミケリセンの仕込みである。
取り囲まれ、ノインは助けを呼ぶことすらできなくなった。
しかし指を鳴らした瞬間の、わずかな隙をゴーストは見逃さなかった。
ミケリセンの左腕が宙を舞う。
「ふふ……三度目だね、ゴースト。君に腕を斬られるのは」
言いながら、ミケリセンが槍を投擲した。
明らかにノインを狙った軌道だった。
反応すらできなかったが、辛くもゴーストが方向を逸らす。
「!」
その隙にミケリセンは下がろうとする。
ゴーストは落ちた左腕を踏み越えて、追跡をしようとした……その時。
切られた腕を指さして、ミケリセンが笑う。
「言い忘れてた。それ、爆発するよ」
言葉の意味を理解する間もなく、ゴーストの足元が火を噴いた。
耳をつんざくような轟音と共に地面が揺れ、巻き込まれた魔獣たちが肉片と化す。
「ゴースト様!」
名前を呼ぶ。
息を吸うと、焦げたような臭気が嗅覚を刺した。
助けなければ、と思い刻印に魔力を回そうとする。
だがそれを読んだかのように、鋭い静止の声が届く。
「使うな……!」
続いて、爆発が残した煙の中からゴーストが飛び出てくる。
彼はミケリセンから離れるように、後ろへと飛び退いている。
「ここで退くとは冷静だ。でも残念、能力を使ったね?」
にたり、とミケリセンが笑った。
そしてゴーストの近くに立っていた魔獣が姿を変えた。
三の魔王の魔獣、ワーウルフが杖を構えた魔術師……シドの姿に変わったのだ。
「……『拘束』」
シドの声だった。
けれどそこには、人形じみた空虚さのみがあった。
抑揚のない、感情を削ぎ落とした音。
まるで呪文を唱える装置のような。
しかして、意志の有無に関わらず魔術は発動する。
見えない束縛がゴーストの四肢に絡みつき、彼の動きを縫い止めた。
「やったね〜」
その刹那をミケリセンは逃さない。
軽い調子で声を放り、一瞬でゴーストの前に現れる。
何故か銃剣は使わず、左の拳を振りかざしていた。
そのままにこやかに言葉を続ける。
「さぁ、歯を食いしばって? ……『覇者たる片影』」
まず、獣の唸りのように風が鳴った。
次いで軋み、潰れるような音と共にゴーストが消える。
直後に衝撃があり、庭の土に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
ミケリセンを中心に瞬間的な地鳴りが轟く。
おぞましいほどに強い破壊の余波である。
振り抜いた形からして、それは徒手空拳の一撃であったろうか。
だが言い切れないのは視認ができなかったからだ。
確かなことは一つ。
全てを圧倒するような暴力が荒れ狂い、叩きつけられたという事実である。
「…………っ!」
すぐにゴーストの姿を探す。
見失って中々見つからない。
周囲を見回すと、まるで引きずられたような血痕が伸びている。
視線で先をたどると、金属の破片がめり込んだ肉塊……そう表す他ない姿が目に入った。
「……ひどい」
血の気が引いた。
ぞっとして声を漏らす。
けれどなにより驚きだったのは、まだゴーストが立とうとしているということだ。
真っ赤な手で土を掴み、血溜まりに落ちることを繰り返す。
それをミケリセンは鼻で笑い、ゆっくりと歩み寄って見下ろした。
「すごいね、君って」
無感動な声が耳を打つ。
それから銃剣を構えられ、まだもがいているゴーストを照準する。
「本当に……尊敬するよ」
言葉とは裏腹に、その声には何の感慨も籠もっていなかった。
言いながらゆっくりと銃剣を向けて、立て続けに四回発砲する。
四肢が完全に破裂し、にわかに血溜まりの色が濃くなった。
ここまで、たった一分足らずの出来事である。
「……さて、こっちはどうしようか?」
そう言って、ミケリセンはゆっくりとノインを見た。
声も出せずにいると、にやにや笑って言葉を重ねる。
「生かしておいた方が楽しめそうだなぁ。君のような失敗作は、わざわざ始末する意味もないしなぁ」
ノインのことを知っているような口ぶりである。
なので失敗作と言ったのだろう。
力を失った惨めな兵器だから。
しかし、今それはどうでもよかった。
「…………」
ノインはシドを見る。
彼は寄生体に支配され、虚ろな瞳で宙を見つめていた。
次に地に伏したゴーストを見る。
苦しげな息を漏らして、痙攣しながらも動こうともがく。
「おい、しつこいぞ。全く……キメラの改造のせいか?」
吐き捨てて、ゴーストを足蹴にして転がす。
ノインは強く煮えるような感情を抱いた。
それが怒りだということすら自覚しないままに。
「あなたは、何が目的ですか?」
そう語りかけた。
ミケリセンは意表を突かれたように目を瞬かせるが、すぐに緩んだ笑みに戻る。
「君たちを皆殺しにすること」
「それは方法であって、目的ではありません」
じっと、見つめて指摘する。
どうしてかミケリセンは目を細めた。
小さくため息を漏らし、また答える。
「だったらなんだ? 手段が目的で悪いかい? 君になんの関係がある?」
吐き捨てるように言って、返事を待たずにミケリセンが銃を向けてくる。
たとえ刻印を使ったとしても銃の魔法を避けることはできないだろう。
しかしノインは、身を守ることなど考えてはいなかった。
「…………」
ミケリセンの背後に、先ほどの爆発で消し飛んだ魔獣たちの血溜まりがある。
ノインは話しながらロザリオから血を出して、細い流れにして地伝いにそこに伸ばしていた。
血溜まりの血はノインが操る血と混じり合い、すでに支配下にある。
だから今なら、ミケリセンの背後から攻撃をすることができた。
「もうこんなことはやめて。シド様を離して」
最後にそんなことを語りかけた。
応じないなら血の刃を飛ばすつもりで。
ミケリセンは笑って、嘲るように舌を出した。
「やーだねっ。こいつはわたくしのおもちゃだ」
「……!」
その言葉に、さらに激しい怒りが沸き上がる。
衝動のままに血の刃を生成し、背後からミケリセンに飛ばした。
しかし命中する、と思った瞬間に思わず刃の制御を乱してしまう。
それは取り返しのつかないことなのだと、頭のどこかで自制をかけてしまったから。
「……なんだよ、興ざめだ」
ミケリセンは、ほんの少し前のめりに体勢を崩した。
しかしそれだけだ。
引き裂かれ、血に汚れた礼服の上着を脱ぐ。
冷めた目でノインを見つめ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「君、強いとか弱いとか以前の問題だろ」
ミケリセンの声から……表情から、軽薄な笑みが消えていた。
「おい、人も殺せないくせにここに来たのか? 殺せもしないくせに……偉そうに、自分の要求を宣ったのか? この、どうしようもないグズめ……」
へらへらと笑っていた男の目が、別人のように凍りついている。
その瞳にはわずかな憐憫や共感もない。
ただ、毒虫の死骸を見るような蔑みだけがあった。
この男がこんなにも感情を見せたのは、おそらく初めてだろう。
気圧されて、ノインは涙をこらえながら後ずさる。
足が絡まりそうになってよろめく。
「……うっ」
さっき血の刃を崩したのは、迷いがあったからだ。
殺人という一線を越えることに身が竦んだ。
判断を下すことを避けて、ただ本能的に手が止まった。
けれど、迷いの代償はすぐに突きつけられる。
地に伏したゴーストを見る。
虚ろな目をしたシドを見る。
二人とも、ノインが躊躇ったから救えなかった。
みんなを守りたいと言っておきながら、いざとなったら何もできない。
それがノインという人間だった。
「……ごめんなさい」
誰へともなく謝って俯く。
ミケリセンへの憎しみは、自分の無力さへの怒りに変わっていた。
目眩がするくらい自分が情けなくて、惨めだった。
万策尽きて死を待つだけのノインに、興味を失ったような冷めた視線が刺さる。
「……『不死たる片影』」
なんらかの力を使用し、ミケリセンは腕を一瞬で復元させる。
そして、虚空から取り出した礼服の上着の替えを纏い、再び銃をノインへと向けた。
「もう死になよ、失敗作。お前は、ここに立つ資格がない」
銃口がノインの額を捉えた、瞬間。
背後で空気が爆ぜる音がした。
熱風が髪を巻き上げ、黒い残像が目の端を横切る。
焼け付く匂いが鼻腔をかすめた。
「!」
疾走の軌跡に焦げ跡が残る。
地面が、まるで雷に打たれたかのように黒く灼けていた。
何が起きたのか理解する前に、それはもうミケリセンの横までも駆け抜けていた。
一瞬、すれ違いざまの斬撃で鈍い光を閃かせて。
「……来たな、骸の勇者。上位魔獣は、足止めにもならなかったか」
斬られたか……右脇腹から血を流しながら、ミケリセンが呟く。
その遥か後方で、アッシュが黙してしゃがみ込んでいる。
火刑の魔人の姿で、左の山刀を低く構えていた。
「…………」
アッシュは黙ったままノインの方を見た。
次にシドを見て、ゴーストを見る。
最後に身じろぎもなく統制された魔獣の群れを見て、彼はようやく口を開いた。
「キメラ、合わせろ」
同時に、ゴーストの周囲が鉄の箱に覆われる。
アッシュが能力を使って保護したのだ。
同時に土が隆起し……なにかが、その箱に向けて地中を突き進んでいるのがわかる。
来た方向に目を向けると、キメラが腕の触手を潜らせていた。
つまり箱で守り、触手で治すのだ。
「処置が終わりました」
と、キメラが言った。
アッシュは箱の面を一つだけ消す。
続いて触手が素早くゴーストを引きずり寄せた。
「すごい……」
鮮やかな連携に目を奪われていると、ノインの腰にも触手が巻き付いた。
「えっ」
声を上げる間もなく、景色がすさまじい速さで流れていく。
そして気づけばキメラの足元にへたり込んでいた。
目を白黒させるノインを見下ろして、キメラがにっこりと微笑んだ。
「もう安心ですよ」
急に張り詰めていた糸が切れて、思わず泣きそうになった。
けれどこらえて、大きく頷いて返事をしようとする。
しかし、そこでつと声が聞こえる。
声の主はミケリセンだ。
「ちゃんと見なよ。治せてないぞ〜」
にたにたと笑って指摘した通り、ゴーストの傷は癒えていなかった。
「……そんな」
言われて、気づいたキメラが目を見開く。
そしてまたゴーストに杖を向けるが、魔術が発動しない。
これを見てアッシュは目を瞬かせ、思案のあとで口を開く。
「クロードと同じ力か」
別に答えを求めている風ではなかった。
もちろんミケリセンは何も答えず、へらへらと罵倒を返すだけだが。
「さぁ、その女が失敗したんじゃないの? まったく、治せない治癒士なんて……まるでゴミだね」
アッシュはその言葉には耳を傾けない。
最後まで聞かずにキメラと言葉を交わす。
「ゴーストは保ちそうか?」
「はい。彼は私が改造しました。この程度で死ぬようには作っていません」
アッシュは頷いて、今度はノインに目を向けてくる。
「ノイン」
名を呼ばれた。
顔を上げると、彼がじっと見つめているのが分かる。
数秒のあいだ、何も言わずにそうしていた。
傷がないかを確かめているのだと気づく。
しかしやがて、右手……ロザリオの血を使った手が汚れているのを見て、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「よく頑張ったな」
短い言葉だった。
それだけなのに、張り詰めていたものが崩れそうになる。
「……違うんです」
声が震えた。
声だけではなく、肩も。
おこりのように震わせながら懺悔をする。
「あ、あたしは……何も、できなかったんです…………」
褒められて、嬉しくて泣きそうになったのではない。
自分が何もできなかったという事実を改めて突きつけられたからだ。
シドやゴーストを裏切り、躊躇ったという惨めさが、喉の奥からせり上がってくる。
「…………」
アッシュは何があったのかを聞かなかった。
ただ肩に手を置いて、軽く叩いた。
まるで、それが正しかったのだと許すように。
「気にするな。あの男は、君の相手ではない」
低く沈んだ声でアッシュが言う。
その言葉に重ねるように、別の声が庭の向こうから届いた。
「私も……そう思うわ。関わっても悪いことしかないもの……」
サティアだった。
なんらかの足止めを踏破してきたのか、彼女は血に塗れた姿だった。
「ご安心、返り血よ」
先読みして語り、ゆっくりと歩み出てくる。
白銀の鎧が赤黒く汚れ、背負った槍の穂先からは、まだ生々しい雫が滴り落ちていた。
その後ろにアリスが続く。
彼女は何も言わず、ただミケリセンを睨みつけていた。
「……ふふふ」
この場に立つ敵を見渡して、ミケリセンが喉の奥で笑った。
嬉しそうに。心底、愉快そうに。
「いいねぇ、勢揃いだ」
その声が合図だったかのように、空気が変わった。
庭園の隅で、ぽつりと火が灯る。
次いで書庫の壁にも。広場の外、廊下の柱にも。
まるで見えない手が次々と燭台に火を点けていくように、書庫のあちこちで炎が産声を上げた。
……『火を放つこと』。
つまりはルール違反だ。
自分の襲撃に注意を引きつけている間に、ミケリセンは裏でこの準備を進めていたのだ。
アッシュたちが出現するタイミングに合わせるように。
「さぁ、始めよう」
炎に照らされて、ミケリセンの顔に濃い影が落ちる。
同時に、糸の切れた人形のようだったシドが動いた。
虚ろな瞳のまま、機械的な動作で杖を構える。
……さらに、轟音。
広場の中央で爆炎が渦を巻いて、その中から炎の衛兵が姿を現す。
地獄の焦熱を翼に変え、黒い影が静けさと共に漂っている。
「……皆殺しだ」
ミケリセンが冷たく宣言した。
歪んだ笑みはそのままに、けれどその目だけが、炎よりも昏く燃えている。
まるでその瞳の火に呼応するように、書庫を焼く炎が、一際大きく揺らめいた気がした。




