十話・祝杯(1)
風呂を出て、アッシュは夕暮れの中を走っていた。
さっきからずっと笑いっぱなしのグレンデルに手を引かれて。
「しかしめでたいな。お前がいてくれてほんとに良かった! すごいよアッシュは」
彼は嬉しそうに言って、アッシュの先を走っている。
とはいえ、手を引く方が義足なので大した速さではない。
ややぎこちない走りに歩幅を合わせていると、街の人々が声をかけてくることがあった。
「あら、グレンデル様。どうしたんですか。嬉しそうですね」
「ああ、おばちゃん、また今度話す!」
「あまり急ぐと転んでしまいますよ!」
彼はよく話しかけられる。
そして、彼が話している間は街の人々もアッシュのことをあまり怖がらない。
先ほど迂回して行ったばかりの広間を横切りながら、不思議だと思う。
「アッシュ、今日はお祝いだ。なんでも好きなもの食べてもいいぞ。超高級料理店に連れて行ってやるからな」
走りながら振り向き、笑顔で言う。
転びそうになって慌てて姿勢を整えた。
こうまでまっすぐに笑顔を向けられることは、ほとんどない経験である。
少し居心地悪く思いながら、アッシュは答えた。
「夜も忙しいから、あまり遅くなるのは困る」
アッシュは夜も魔獣を狩り続けているからだ。
しかしその言葉は聞こえなかったようだ。
ただ嬉しそうに足を急がせていた。
「…………」
しばらくそうやって移動していた。
行き先には、なにやら大衆居酒屋らしき建物が見えてくる。
その店は、おそらく宿も兼ねているのだろう。
三階建ての高さがあり、伸びた煙突からはもくもくと煙が立ち上っている。
そして入り口の上には大きな看板が掲げられていた。
薄汚れた板に『犬のしっぽ亭』と記されているようだ。
「ここか?」
アッシュが聞くと、グレンデルは真面目くさって頷く。
「そうだ」
超高級料理店?
―――
店の中は、一見してかなり混沌としていた。
気の利いたインテリアと言えば、入ってすぐの犬の木像だけだ。
いかにも賢そうな顔で、十字架を前におすわりをしている。
後はごみごみとした光景だけが広がる。
円卓や長机が狭い間隔で詰め込んであって、ほとんどが男たちに占領されていた。
おまけに窓が少なく、外の明かりが入ってこない。
いくつかランプが下げられているが、それでも薄暗い。
形容しがたい熱気に満ちた店内には、葉巻やら酒やら汗やらの臭いが充満していた。
しかし、悪臭に関してはアッシュにとやかく言う権利はないだろう。
むしろアッシュは、本当なら各テーブルに血なまぐささを謝って回る必要があった。
「ここはこんなだけど、飯がすごく美味しいんだ。……嫌か?」
その言葉にアッシュは首を横に振る。
食べ物に好き嫌いなどなかった。
「気にしなくていい」
実際かしこまった料理店よりはよかった。
なので気にしなくていいと言うと、グレンデルは安堵したように表情を緩ませる。
「そうか、良かったよ」
それから彼はカウンターに向けて歩きだす。
比較的空いている席だった。
途中、肉体労働者と思しき男の一団に声をかけられたりしつつも、グレンデルは席につく。
アッシュもそれに倣った。
「あら、いらっしゃいませ。グレンデルさん」
グレンデルへ給仕の少女が挨拶をする。
アッシュと同じくらいの年頃だろう。
酒を載せたお盆を片手に、微笑みながらピースサインを送っている。
グレンデルも笑い、水を持ってきてくれるよう頼んだ。
「ああ、どうも。後でいいから水を二つ頼む」
「ここは居酒屋ですけど?」
「お酒も飲むよ」
ぱたぱたと立ち去った少女を尻目に、アッシュは問いを投げた。
「君はずいぶんこの街で慕われてるようだ」
「ああ……。街の連中に言わせれば、俺は英雄らしいぜ」
照れくさそうにしてグレンデルは続ける。
「昔、ちょっと兵隊が出払ってる時にさ。中位魔獣が二体攻め寄せてきたことがあって。その時、俺は……ちょっと前に出て戦ったんだ」
アッシュは目を瞬かせる。
兵員が少ない状況で、中位魔獣を二体も退けたのだと。
それで、彼はみなに英雄だと言われているらしかった。
「すごいな、本当に」
心から賞賛を伝える。
中位魔獣は、最も強いと言われる人間がようやく倒せるような敵だ。
それほどの存在なのだ。
現に、アッシュが人間の頃はまったく歯が立たなかった。
それを寡兵で、しかも群れごと二体も相手にするのは並の戦士ではない。
人間の中ではほとんど最強に近いと言っていい。
だが、グレンデルは控えめな表情で謙遜をした。
「よせよ。それで足を失ったし、お前ほどじゃないって。……ああ、そうだ。これメニューな」
グレンデルの手から紙を一枚受け取る。
この店の品書きである。
しかし、いくつかの料理が書かれている他は、全てが酒で埋め尽くされていた。
「…………」
料理の少なさに、肩透かしを食らったような気がする。
けれど黙ってメニューを見ていると、グレンデルが横から声をかけてきた。
「メニューは少ないけど、なんか言ったら大体作ってくれる。そういう店なんだ」
「なるほど」
つまりは食べたいものを勝手に言えということか。
しかし、食べ物の好き嫌いが薄いので好きなものを言えと言われても困る。
なんとかメニューの中から選ぼうとしていると、グレンデルが見かねたように眉を下げた。
「良かったら、今日は俺に任せてみるか?」
「助かる」
「ああ、気にするな」
申し出を素直に受け入れて、メニューの紙を返した。
すると給仕の少女がちょうど水を持ってきてくれる。
彼女がグレンデルと話す横で、アッシュは水が入った木のコップを傾けていた。
やがて、注文を終えたグレンデルがアッシュに語りかけてくる。
「なぁアッシュ、アッシュは剣が好きなのか?」
「好きではないけど、昔からよく使っていた」
言いながら、コップから顔を上げる。
また例のやたらきらきらした気配を醸ち出し始めていた。
矢継ぎ早に質問が続く。
「それ、剣は一本だけか?」
「ああ」
「折れないのか?」
「折れない。『不壊』の魔術が刻まれている」
『不壊』とは魔術のルーンだ。
この剣の刃はルーンを刻まれた魔道具なのだ。
剣の魔道具を作るのはかなり難しいが、『土』の基礎ルーンの扱いに長けた鍛冶師が仕事をしてくれた。
剣の機能を損なわぬほどに小さく……しかしあらゆる線の深さ、比率を寸分も違えることなく刻印している。
なので剣は『不壊』の意味を得て、魔力を注ぎ続ける限りは折れない魔剣となったのだ。
もちろん燃費は壮絶に悪いが、魔物の魔力なら問題なく使えるので重宝している。
というような説明を受けて、グレンデルは納得したように頷いてみせた。
「へぇ……。『不壊』ねぇ……。血糊はどうしてんの?」
「燃えてるからつかない」
「なるほど」
ふふっと笑って、彼はまた目を輝かせる。
「なぁ、もっとすごい装備ないのか?」
「すごい装備?」
「『かの剣は蒼雷を纏い、ただ一撃で四の魔王を討ち果たせり』……みたいな」
雷鳴の勇者の伝記を引用した言葉だった。
アッシュは思わず鼻を鳴らす。
なぜならそれは武器ではないからだ。
神に選ばれた勇者にのみ与えられる聖典魔術……固有聖剣術式についての記述だ。
当たり前だが、アッシュにそんな力はない。
ただのちっぽけな魔物だ。
「期待させて悪いが、俺の手持ちはこれだけだ」
そう言って卓上にポーチを投げ出す。
興味津々で見つめるグレンデルを尻目に、アッシュは中からメダルを取り出す。
「基礎ルーンのメダルだ。これを触媒にして魔術を使う。手持ちは『炎』と『器』と……後は『光』だ」
『炎』は言わずもがなだが、『器』は属性を持たない基礎ルーンである。
一部の特殊な上位ルーンと共に魔術に用いられる。
そして『光』は身体強化や治癒魔術を扱う際に使用する。
「『光』? アッシュは強化が使えるのか?」
驚いたような問いが来る。
アッシュは淡々と否定した。
「いや、まさか」
身体強化魔術は稀有な才能だ。
凡骨のアッシュが持ち合わせているはずもない。
「治癒の方だ。……あまり使わないし、才能もないが」
「なるほど」
アッシュの下手な治癒魔術でも、長々とかければ応急処置程度にはなる。
魔力はいくらでもあるのだから、持っていて損はない。
あとは、手遅れで死ぬ人間にかけると、痛みを緩和してやれる。
「……残りは紙束と鎖だけだ。紙は、血を使えば即席の触媒になる。鎖は色々と使う」
アッシュは一通り話し終えたつもりで黙る。
しかしグレンデルには足りなかったようだ。
衰えぬ勢いで、根掘り葉掘りの問答を続ける。
「じゃあ……」
そんな彼に、アッシュが若干困り始めた頃。
ようやく給仕の少女が料理を持ってきた。
「どうぞ、こちら白パンともちもちと特製スープの各二人前大盛りです!」
歯切れよく口にした。
さらに滑らかに言葉を続ける。
「白パンの小麦は五度も惜しみなくふるいにかけたものしか使用してません! もちもちのお芋は同じ重さの金と交換できる最高級のもので……」
切れ目なく快活に話し続けている。
それを半笑いのグレンデルが遮った。
「待て、それはどこまで本当だ?」
「全部嘘です」
そう言ってピースした少女に、グレンデルはにやりと笑う。
アッシュの方に向き直って口を開いた。
「この娘嘘つきなんだよ」
「そんな、実の妹に向かって酷い……」
「ほらな?」
ずいぶん微笑ましい様子だが、反応に困ったアッシュは頭をかいた。
仲がいいのは結構だがこちらに振られても困る。
なんと言えばいいのかわからない。
黙っていると、給仕の少女は仕事に戻っていった。
「じゃ、あたしはこれで失礼しますね。またご用があればなんなりと」
スカートをはらりと舞わせて踵を返した。
その背を見送りつつ、アッシュはカウンターの上の料理に目を向ける。




