43. 地上の冥府
城塞都市ヴァローナを出発してから7日が経過した。旅路の半分は過ぎたといって間違いはない。リーベンハイム伯爵領地の最西端にある宿場町を出たのが今朝の出来事だ。ここから難所であるリオパーダを抜けるまで、宿の無い過酷な旅路が待っている。
周囲の景色は森林地帯に差し掛かっていることを示すように、木々が林立していた。ひとたび横を見ればまるで出口なんて無いかのような鬱蒼とした様子は、クアルスからヴァローナに向かう街道のものよりも遥かに広大な森が続いていることを予想させる。しかし、こんな雰囲気の場所ですらリオパーダの鬱蒼とした森林にはまるで劣るという。
「アッシは何度か行ったことがあんがね、あの森はこの比じゃねぇんだ」
そう話すのは、隣で馬車の手綱を操る御者の男だ。さすがに7日間も馬車に揺られていたらやることもなくなる。賊の襲撃が無かったのは幸いではあるが、最後の宿場を出てからは対向の馬車にも会わないとなると飽きも来る。
リオパーダに入るまで英気を養うということでカタリナ殿下は仮眠しており、その隣でナインと雑談をし続けるのは建設的ではないし殿下の邪魔になる。だから、結局僕たちは御者のとなりに腰をおろし、後学のためと馬車の操舵を観たり御者と話に花を咲かせていた。
「なんせ一面が夜のように暗ぇ。こんな木漏れ日なんてほとんどねェのよ。おまけに何処からともなく獣の遠吠えが聞こえる……始祖様を乗せてでもなければ、こんな道など選択肢にも上がらねぇ」
ハオランと名乗った御者の男が、おどけたように大袈裟な身震いを見せる。彼の話はいくつか聞いただけでも、リオパーダが想像していた以上の危険地帯であるという認識が深まった。
現状の見立てでは、リオパーダ地帯を踏破するのに丸一日以上かかる見通しだ。広大な上に起伏にとんだ一帯は、例え馬四頭の力であろうともそれだけの時間を要する。旅路を決するための勝負は恐らく明日になる。今日中にリオパーダの入り口付近までたどり着き夜を明かし、そして明日中に深層部を一気に踏破するのが目下の目標だ。
「……その大規模な森は、何処まで拡がっているの?」
横で一緒になって話を聞いていたナインが、そんな問いかけを口走った。おそらくはアストランテ王国の中部を半分覆い隠すほど、そんな壮大なスケールなんだろうと思っていた予想は、しかしハオランの答えでそれすらも見通しが甘かったと思い知る。
「そうだな……リオパーダだけでも帝国領土の一部を飲み込んでいる。その上フラントニア帝国の奥地も、ここみたいな広大な森が広がっているんだとよ」
一見して平然としているナインとは対照的に、僕は驚きが隠せない。人の手を拒む深層の森林が、リオパーダ以外にもあるということは、今まで知るよしもなかった。
「深層森林の出現が古代文明の崩壊の一因だって言ってる学者さんもいるくらいだ。この世界には、そんな代物が幾つもあるんだから笑えねぇよ」
「……それはまた恐ろしい話ですね。文明一つを滅ぼすだなんて」
ヴァローナで見た遺跡のことを思い出す。始祖族の霊剣や魔術によって打ち破れないような堅牢な建築物を造るほどの文明。それすらも飲み込むという逸話が存在するなんて、リオパーダのような深層の森林地帯の扱いはもはや災害級なのだろう。
人々の間で語り継がれている大英雄プリムスの伝説にも、鬱蒼とした森林というものは登場していた。国や街を呑み込まんとする森林を絶大な力により切り開き新たな集落を興し、そして人々に安寧の住みかを与える。なるほど、ただ強大な敵を打ち倒すだけではなく民を導くとなると、流石は原初の英雄、全ての人民の王として君臨するだけはある。
「神話世界から今日まで、深層の森ってのは逸話に事欠かないんよ。この国の王都サンクト・ストルツは英雄プリムス様が最初に森を切り開いて造った街だし、リオパーダの中には手付かずの古代遺跡が数多く眠ってるって噂だ。それに――」
「――森林により隔絶された西方の地には伝説の竜の国がある、とかね」
操車台と客室を仕切っていた布が払われると同時に、あくび混じりの声が聞こえた。目の端に付着した涙を乱雑にぬぐい、さっきまで寝息をたてていたはずのカタリナ殿下が眠そうな顔で姿を表す。
「失礼しました。煩くしすぎまし――」
「違う違う。もうそろそろリオパーダだろ。それにずっと寝っぱなしだと流石に疲れる」
邪魔だったわけではなかったことにひとまずは心のなかで胸を撫で下ろす。何処までも同じような森の続く道では、深層の森林がどこから始まるのかはさっぱりわからない。しかし彼女のような魔術を手足のように扱う始祖族には、その森が放つ魔力か何かを捉えるから分かるのかもしれない。
「カタリナ、様。竜とは一体……?」
「……ツカサはまだしも、ナインの敬語は大概付け焼き刃だね。まぁボクは気にしないけど。それで、竜だっけ。そもそも竜ってのは――」
竜、そんな荒唐無稽な存在なんておとぎ話のなかでしか聞いたことはない。人よりも遥かに巨大で強靭な体を持ち、強力な魔術を思うがままに操り、そして大きな翼を操り天を思うがままに駆け巡る伝説のような生き物。
プリムスの英雄譚において、彼らはかの大英雄と共に強大な敵と戦う存在として描かれていた。時に人の体という形もとって、竜達は世界を滅ぼさんとする魔将たちへと立ち向かったのだ。
だがそれが語られているのは、真実かどうかも怪しい古代から語り継がれている英雄譚。羽ばたきで竜巻を起こすやら森一つを焔で焼き尽くすやら、流石は神話というような強大さ。そんな天災級の存在と手をとった英雄プリムスがすごいのか、はたまたそうまでしなきゃ倒せなかった魔将たちがすごいのか、僕には知る由もない。
僕に推測できるのは、もしプリムスの元となった偉人が存在するのならば、おとぎ話の竜のモチーフになった者も存在するのかもしれない、ただそれだけだ。
そんな伝説の生き物である竜が国を作り、しかも深層の森林地帯の果てにあると噂されているのだ。もしそれが本当ならば、リオパーダのような森は人にとって荷が重すぎる。
ただでさえ魔力により異常な成長を遂げた獣たちが闊歩するうえに、その奥地には神話の生き物がすくう。そんな森が国のど真ん中や諸国の西側に鎮座する。そりゃあ、いつまでたっても大陸西側の姿も明らかにならないわけだ。
「……一応、竜は存在することになっている。百年ほど前に、竜の血族が王都に訪れたという記録があるんだ。父上――現アストランテ国王も、幼い頃にその目で見たと言っていたよ。でも、ボクのような若者は王族であっても見たことはないし、それが神話のような生き物であるかはまるで分からない」
そこまでを話し終えた彼女は、表情を険しくして馬車の向かう先へと視線を移した。いつの間にか木漏れ日は深まってきた木々によって弱くなり、顔に吹き付けられる湿った風は深い木々を予想させるように喉奥を濡らす。
そして遥か先に見えるほの暗い街道は、ただ明るさが無いだけではなく白い靄がかかったかのように視界を遮る。それを見た瞬間に、思わず生唾を飲み込んだ。
「……霧か。話には聞いてたけど、あれじゃ視界も何もあったもんじゃないよ」
「へぇ、この季節は特別濃いんで。リオパーダを抜けるまでは、ずっとあんなのが続きます」
朝のクアルスに広がっていたような霧とは、きっと根本的に質が違う。前後左右が白と黒の闇で覆い隠されるような、そんな圧迫感がリオパーダにはひしめいているのだろう。
そんな視界すらもままならないような深層の森林が、もう目と鼻の先に迫ってきている。頭上に伸びる木々の間からわずかに見えた景色でもわかる、全てを圧倒しかねないほどの巨木が林立する地帯へと入りつつあるのだ。なるほど、確かにそこらの森とは比較にならない危険さというのが、ようやく体感として心へと収まる。
「……王都の連中め、本当に酷い行路を指定してきたな。賊どころか、少し街道から外れただけでおしまいだ。皆、心してかかるよ」
今さら後戻りなんて出来やしない。この先にある王都へ到達するには、容易く命を落としかねない危険と神話世界の逸話に溢れたこの深層の森林を抜けるしかないのだ。




