44. 深い森の狩人達
嫌な予感というものは、往々にして現実のものとなる。リオパーダへ入る間際に感じた、この霧の深い森で何かが起こるかもしれないという予想は、今まさに形となって牙を剥いていた。
白靄にかすれた異様な光景のなか、吐息の音が生々しく響き渡る。これは決して危険な状況に追い込まれた自分自身が吐き出したものなどてはない。馬車が全力で駆けるなか、馬や客車の車輪ではない、何かかが地面を走る気配を感じる。
「右側、くるよ!!」
甲高く響くはカタリナ殿下の叫び声。手に持った剣の柄は手汗と霧でぐっしょりと濡れて、しかし滑り落とさぬよう一層強く握りしめる。白い闇の中に見え隠れする朧げな影と気配、それが一段とはっきりとした輪郭を現した。
一瞬の刹那。濃い灰色の巨体が霧の中から飛び出した。纏わりつく霧を振り払うかの如く、馬車と並走していたその巨体はひと際大きく飛び上がる。強靭な体を見せつけるかの如く宙を舞い、研ぎ澄まされた刃のような牙と爪が馬車へと襲い掛かる瞬間――
「しつこい――連中だ!!」
その軌跡に目掛けて突き出されたカタリナ殿下の鉾槍が、深々と灰色の胴体中央部に突き刺さった。霧の中に一瞬だけ飛び散る赤色の水滴、そして短く響く悲鳴のような鳴き声。鉾槍に心臓を穿ち抜かれたその襲撃者は、しかし瞬時に振り落とすには聊か巨大に過ぎた。
仲間の死骸が投げ捨てられるその隙を縫い、霧の中から更なる襲撃者の姿が露わになる。カタリナ殿下の上半身を引き裂きかみ砕かんと大口を広げた新手。そんな獰猛な死というものが迫っているというのに、彼女は恐怖などではなく逆に殺気をその眼に滾らせ続ける。
「ツカサッ!!」
「わかって……ますよォ!!」
殿下に言われるよりも早く、両の手に握り締めたものを振りかぶる。ごうと霧を切り裂いて振るわれるは、鈍くくすんだ色の軌跡を描く青銅の金属棒。
刃のような牙が殿下を穿つその前に、その襲撃者の顔面に向けて杖を打ち据えた。青銅の棒身を伝った衝撃は、生き物を殴打したとは思えないほどに鈍くそして硬い。しかしのどが潰れたようなうめき声が聞こえ、そして霧の中に見え隠れしていた巨体が姿勢を崩して地面へと叩きつけられた。
一瞬の攻防の中で露わになった巨大な獣の姿を目に焼き付ける。あれがこのリオパーダの森で群れを成して脅威を形成する、魔力により異常な成長を遂げたオオカミだ。尾を抜いた体長が自分の身長に到達しかねないほどの巨体は、短い悲鳴を残して再び霧の中に消え失せた。
「くッ……」
手のひらに未だに残る感触に舌うちを鳴らす。手の骨の、その芯まで響かんばかりの強烈な衝撃は、数少ない頼みの綱である青銅の棒を取り落としかねないほど。だから、その痺れに気を取られていた僕は、更に襲い掛かってきていた巨体に気が付くのがコンマ数秒だけ遅れてしまった。
霧を破って表れる、三頭目の巨大な狼の口蓋。棒を構えるよりも先に、その大あごは僕の頭を寸分の狂いなくかみ砕く――その暴虐的な死という未来は、頬の僅かに右側を通過した刃によって呆気なく潰えた。
「……ツカサには、手出しさせない」
標的を逃がした頭は、巨体と共に馬車の縁へと打ち付けられた。口蓋の上側に突き立てられた巨大なナイフからはとめどなく鮮血が流れ出し、馬車やオオカミの体毛を容赦なく赤く染め上げる。いくらその全身を頑強な毛皮や筋肉という鎧で包もうとも、生き物の規範から外れない以上は口の中まで堅牢のわけがない。
生命維持のための急所を穿ち抜かれた巨体は、反撃どころか不規則に痙攣を続けるばかり。ようやく棒を手に体勢を直した僕の隣で、ナインはオオカミの巨体に足を向ける。
「はっ、面白いッ!! 容赦の無さでは、君ほどの逸材はそうそう居ない!!」
細身の彼女のどこにそんな力があるのか。オオカミの巨体は彼女の蹴りによって呆気なく宙に浮き、すぐに地面に打ち付けられ霧の中へと消えていった。その様は、まさにただの作業と言わんばかりのもの。更なるナイフを両手に持ち、表情には何の感慨も無くナインは淡々と周囲に注意を払う。殿下が場違いに嬉しそうな声をあげても、眉の一片も動きはしない。
速力を落とさずに走行を続ける馬車の上で、眉間から流れ出した汗を拭うことなく青銅の棒を構えて気配に耳をすませる。扱いなれない武器、そしてこの奪い去られた視界。与えられた条件は最悪と言って過言ではない。しかし、それでも抵抗をしなければオオカミの群れに縊り殺され、そして彼らの腹を満たす肉片になり下がる。そんなことは真っ平ごめんだ。
馬の吐息と車輪の立てる音の他は、若干の沈黙が流れる。つい先ほどに始まったオオカミの襲撃は、第一波に続いて第二波はしのいだのかもしれない。しかしそれでも、油断は出来るわけがない。一旦は気配が遠のいた霧の中、しかし街道と並走して奴らはまだ森林を縫うようにして虎視眈々とこちらを狙っているかもしれない。
「一端は、連中を追い払えやしたか」
「多分ね。でも油断はしないことだ。一息ついている最中に、何処からともなく頭を食いちぎられたら嫌だろう」
この異常な状況下でも顔色一つ変化さえずに淡々と馬たちの操舵を取り続けていたハオランが、ようやく一息を吐いて表情を渋らせる。彼はこの場にいる中で最もリオパーダになれている人間だ。その彼がまだ表情を崩さないということは、ここのオオカミたちはこんなもので引き下がるほど軟な連中ではないということだ。
彼がひとたび手綱を揺らせば、馬たちの走る速度は途端にゆっくりとしたものへと変わる。彼らもまた、オオカミの襲撃という事態に動じることもせず、ハオランの指示に従い続けた強者たちに違いは無いのだ。
「……随分長く追い回されました。すぐに次の襲撃があれば、こいつらも流石に持ちやせんよ」
一見すれば変わらぬペースで歩き続ける彼らであっても、その実は全速力での走破を強いられたがために相当体力を消耗してしまったのだろう。ハオランの険しい顔つきは、それをありありと物語っている。
「そりゃそうだけど、どこで休ませるというんだい。街道のど真ん中で休息していたら、今度こそ逃げきれないよ」
「……アッシに心当たりがあります。この近辺には、リオパーダ中央部を貫く大河に流れ込む支流がいくつか存在しやす。アッシの記憶が正しければもうそろそろ、リオパーダに僅かしかない休憩所として使える川の中州があるはずです」
馬たちのペースが落ちたおかげで、周辺を流れる音がある程度は耳に届くようになる。霧に満ち溢れた空間において、音というものは実際に目で見るよりも多くの情報を伝えてくれる。木々の間を弱弱しい風が吹き抜ける風と共に、僅かな水の流れるような音が耳へと届く。
決してそれは濁流のような全てを押し流すような性質のものではなく、きっとハオランの言う通りに中州まで行ける程度のごくごく浅い川であるのだろう。
「……良いよ、そこに行こう。こんな霧のど真ん中よりかは、周囲が川の方がいくらかは奇襲の恐れも少ないだろうからね。それに水場があるということは……あの妙な汚れもいくらかはマシになるだろう」
結局、誰の反対意見も出ることは無く、ハオランの先導の元でその中州へと向かうこととなった。リオパーダに突入してからは初めてとなる、街道から外れた道を行き始めるその最中、僕はこの襲撃が起きる寸前の出来事を思い出していた。
きっと、この場にいる皆がどこかしらの違和感を覚えているはずだ。リオパーダに差し掛かってからいくらかまでは安定していた旅路と、先ほどの襲撃の間にあったとある出来事。僅かな間だけ取った休息と、その直後に現れた獲物を襲うにしては異常に殺気立ったオオカミたちの群れ。
そしていつの間にか、この馬車の荷台の後方部に塗りたく垂れていた大量の血液。飲み水のいくらかを犠牲にして洗い流したとはいえ、その場所には未だに木目を犯すどす黒い血痕が鎮座しているのだ。




