38. 飼い犬と副官
つい前日に、カタリナ殿下は僕がナインによって良いように使われている可能性を示唆した。でもそのカタリナ様自身も、自分をうまいこと扱おうとしているのではないか。明かしたら危険そうな弱味を握られた分、余計に質が悪く感じる。
「……ツカサ。私は、あの始祖族の女は危険だと思うよ」
果たしてそのナイン自身はどうなのかというと、彼女はカタリナ様の提議に対して難色を示していた。一体それはどうしてなのか。そう聞くまでも無く、ナインは僕の目を見据えてしっかりとその考えを話しきった。
「あの女についていく。それはつまり、ツカサが今以上に戦乱へと巻き込まれていくということだよ」
彼女が王族でありながら副官という存在を要するような軍の立場である以上、殿下に付き従うということは戦いに直面する機会も多くなることに直結する。今が平静の世であれば問題は無かった。しかし現実は、要衝の地であるこの街で帝国の勢力が武装蜂起をけしかけた。もはやこれは平静などとは程遠く、ヴァローナでの出来事が早馬で伝えられた暁にはきっと国の中央はてんやわんやだろう。
「それだけじゃない。始祖族と私たちは、決して同じじゃない」
後になって考え直してみたら、このあとに続く言葉が最も心を揺り動かすものであった。
「……人間は、馬車を引く馬や猟を補佐する猟犬に対して、親愛を感じることはあっても自らと対等だとは決して思わない。それと同じ、アイツは私たちとは違う生き物――あの女にとって、ツカサは"多少興味深い犬"でしかないのかもしれないよ」
始祖族と僕たちの価値観は異なっているけど、もしかしたら始祖族の中でも変わり者かもしれないカタリナ様であれば何かしら通じ合うものがあるのかもしれない。しかしそんな考えも、この一言で幻のようにフッと掻き消えてしまった。
思い返してみれば、傭兵たちから一緒に逃げたあの夜だってカタリナ様の反応は面白そうな玩具を前にしたかのようだった。種族の違いという側面から考えてそのあり方を否定する気は無くとも、自分が関与することに良い気はしない。
それに、そんな存在に対して自分を預けることが出来るのか。副官になるということは、カタリナ様の元に下るということだ。命のやり取りが交わされるような戦場で、果たしてあの人が"多少興味深い犬"に対してどこまで気を払うというのだろうか。無いとは願いたいものだが、つまらなくなったから見殺しにするだなんてことが起きない保証は何処にも無いのだ。
僕が旅に出た目的とは、自分の過去を知るためだということだ。仮に身分の保証はされたとして、今後の行動の幅は間違いなく狭まるだろう。彼女の軍門に下ることとなれば、果たして何処まで目的から遠ざかることとなるのか。
「今ならば、まだ引き返せるよ」
「……垂らされた手綱を放り出すってことか」
今の僕には選択肢が無い、強制といって差し支えのない状況。だけどまだ、彼女の副官になるという話は確定されたわけじゃない。一晩の間に決意を固めろという時間的な猶予だけは与えられた。だから首を縦に振るよりも先に、そもそも問題を放り出してしまうという荒技が残されている。
「――私は、あなたを戦乱に巻き込みたいわけじゃない。ツカサと一緒に、私の知る昔のあなたの痕跡を探したい。私の望みは、ただそれだけなんだよ」
彼女の囁きは、僕にとって都合がよすぎる物だ。口で話す言葉とは裏腹に、腹の内に本当の望みを抱えていてそれを明かしていないのかもしれない。カタリナ様だけじゃなくて、ナインも僕を何らかの形で利用している可能性は捨てきれない。
そんなことは頭では理解をしているのだというのに、彼女の言葉は思わず信じてしまいたくなるのだ。カタリナ様の言葉によってナインの在り方に疑念を自覚したにもかかわらず、まるで思考がそう操作されているかのよう。
夜明けと同時にこの部屋を脱出しようなどと本気で計画を練ることとなったきっかけは、きっと艶めかしいほどに甘く聞こえてしまったナインの言葉なのだろう。
* * *
「……本当に脱出しちゃったよ。というか、脱出できちゃったよ」
これまでの経緯を思い返しながらこそこそと動き回っている内に、僕たちは借り受けている商工会の宿舎前へとたどり着いていた。小声で本当にあの砦から脱出できてしまったことに驚きの念を呟いていると、隣を歩くナインが不思議そうな表情で首を傾けた。確かに何らかの荒事に慣れているかもしれない彼女ならばここまでの道筋は普通なのかもしれないけど、僕にしてみれば色々と無茶のあるものだった。
そもそもが部屋から出た後の経路について、僕自身は細かいことはあまり考えてはいなかった。砦と市街地との間は、それなりに高さのある壁で一面が仕切られている。それを突破するために、適当に出入り口付近に潜伏し、兵士によって開門された辺りでこっそりと出ていこうとくらいは考えていた。
しかしナインは、あろうことかその壁をよじ登って乗り越えるという荒技を提案した。おそらくは彼女にとってはそれが普通の選択であり、しかもやってみたら案外行けてしまったというのがたちが悪い。
未だ周辺は夜明け直後で薄暗く、それでもって山間の湿気により街は朝もやに覆われている。だから周辺は輪をかけて人けが感じられず、この商工会宿舎であってもそれは変わらない。古びた扉に手をかけたが、僕たち以外に活動している人は誰もいなさそうだ。
先の武装蜂起で商工会の受付所も大きな損害を被った。広場での一斉蜂起と共にこの街の流通をも麻痺させようと攻め入ってきたのだろう。反乱兵によって受付担当一人が殺され、受付所のロビーは戦闘によって大きく荒れた。しかし受付所と隣接するこの宿舎は大きな被害は見受けられず、古びた内観や軋んだ音を立てる階段など何も変化はない。
一旦は自分たちの借り受けた部屋へと戻り、ヴァローナから他の街に移動するための準備をする。これが、ナインと共に話し合って決めた今後の方針だ。いきなりヴァローナの深部に潜伏をするよりも、一応は拠点を持っておく方がよほど堅実だ。それにこの街を出る前に、自分の痕跡を探しておいた方が良いだろう。
然したる意味は無いけども、古びた狭い階段をなるべく足音を立てないように歩く。王族の言葉を破って僕たちはこの場所にいる。見つかったらただじゃ済まない、それだけは理解をしているつもりだ。追手が出てくる前に荷物を纏め、次の街へと移動するべきだろう。
そんな今後の指針を頭の中に思い描きながら、廊下の一番奥の古びた部屋の扉に手をかけ――部屋の中に目を向けた瞬間に、僕は扉を開けてしまったことを後悔した。反射的に扉を閉じようとした手は、その奥からこちらを見据える真紅の双眼により痺れたかのように動かなくなる。
「――ツカサ、罠だっ!!」
背後にいたナインの行動は素早かった。部屋の内部を僅かに視認した瞬間に彼女は腰元へと手を伸ばし――しかしそこに括り付けられていた投てきナイフを手にするよりも先に、僕は彼女を制す。そして、ゆっくりと両手を上に上げた。
「……ナイン、手出しはしちゃ駄目だ。これはもう、完全に向こうの勝ちだよ」
どうやら、僕たちはまんまと嵌められたようだ。人けが無かっただなんて全くの錯覚だったかのように、後ろからいくつもの扉を開け放つ音が鳴り響く。恐らくは、"目の前の人物"があらかじめそれぞれの部屋に手配しておいた砦の兵士たちが、ずっと息を潜めていたところから一転して僕たちが逃げられないように廊下を固めていることだろう。
その仕掛け人であろう、古ぼけたベッドに腰かけて僕に向かって微笑みを向ける、黒紅色の長髪を窓辺から差し込んだ朝日で照らしあげる女性。組んでいた足を解き、昨日と同じ黒い軍服に身を包んだ彼女は、僕たちに向けてゆっくりと歩みを進めた。
「やあ、遅かったじゃないか。一晩ゆっくりと考えた結果は、やっぱりこれか」
砦から抜け出した脱走者を見つけたというのに、彼女――戦姫カタリナ・フォン・アストランテは場違いなほどに朗らかな笑顔を浮かべている。そのギャップが、彼女に対して異様な警戒感を抱かせた。
冷や汗が伝い動けないままにいる僕の顔を、カタリナ様は満面の笑みを浮かべたままに覗き込む。鼻と鼻がくっつくほどの距離に、絶世の美女の端正な顔が間近に見える。こんな状況でも無ければ思わず顔を赤くしそうなものだけど、目の前にいるのが逃げ出そうとしていた始祖族且つこの国の王女ということを考えれば、きっと僕の顔は青ざめていることだろう。
「君を引き込むには一筋縄ではいかないと思ってた。だからイーリスに、あえて君の監視をほとんど外させたのさ。きっと君にはただボクに従うことは無く砦から逃げ出すだけの意志もあり、でも一旦自分の拠点に戻るだけの堅実さもある。ボクの予想は、これで全部当たっているよね?」
僕の周囲を軽やかな足取りで一周した彼女は、再びその顔を目の前へと突き出してきた。僕たちの行動は全て、殿下たちの手のひらの上から外れることは無かったということか。まさか逃げ出してここに来ることすらも織り込み済みで、更に前もってこの場所で待ち伏せていたなど、もはや笑うしかない。
ちらりと後ろに目を流す。僕と同じくじっと身動き一つせずにカタリナ様を見つめるナインは、まったくの無表情で感情が読み取れない。でも懐に伸ばした手は微動だにせず、何か動きがあればすぐ様にナイフを抜き放てる臨戦態勢なのだろう。だけど相手はカタリナ様だけではなく廊下に控えた兵士もいて、更にカタリナ様自身が強大な能力を持つ始祖族の戦士だ。だから、彼女に事を起こさせるわけにはいかない。
「じゃあ聞こうか。一晩悩み抜いて、こんな状況にまでなった君の考えを」
もう、心を括るしかない。殿下はやろうと思えばいつでも僕たちを害すことが出来るというのに、一見して無防備なほどに朗らかに笑みを浮かべるだけ。それはつまり、もう欲しい玩具は手に入ったも同然だということ。いくら歯噛みしようが、彼女の意志は変わらないのだ。
「……ええ、分かりました。しっかりと考え抜いて、そして今もこうして熟考をした結果――」
敢えてこうやって逃げさせて、本当の意味で退路を塞いできたのだ。だから、今この瞬間だけは彼女が欲していることを言ってやるしかない。口角が吊り上がるカタリナ様を見据えながら、僕は自分の口で自身を縛る一言を吐き出した。
「――ツカサとナインの両名は、カタリナ・フォン・アストランテ第三王女殿下の副官を拝命させていただきます」
満足げに笑うカタリナ様を前にして、僕は心の中で考えを巡らせていた。今はこの人の下に付くことを容認して、いつの日かその命を打ち捨てて元の身分へと戻ろうと。そしてきっと殿下はそんな心に秘めた考えすらも看破しているのではないかという確信染みた予感が、彼女の笑顔を見ているうちに内心を過った。
こうして僕の身分は、兵隊とは関わりのない商工会の受付所で事務作業の見習いに勤しむ一般市民から、第三王女付きの副官としての命を受けた特務尉官へと姿を変えたのだ。




