37. 逃亡もまた選択肢
「……ナイン、準備はいいね?」
遥か彼方の山の頭にようやく太陽の明かりがかすかに見えるだなんて、クアルスにいた時も流石にまだ寝ていたような時間だ。それに部屋の空気ですらも、しっかりと着込んでなければ凍えてしまうほど。そんなまだ日の登りきらないような早朝のひと時に、僕は声を潜めて隣に並んだ薄桃色の髪の少女に問いかけた。
「うん、大丈夫。見張りの兵はいないし、まだ兵士たちの訓練も始まってはいない」
耳に手を当てて廊下の音を聞き取った彼女は、どこか自信に満ちた様子でそう返した。確かに人の気配が無いのは勿論のこと、窓の外からは日が昇ったあとにはいつも聞こえていたような兵の訓練で剣を打ち鳴らすような音も聞こえてはいない。
その窓へと手をやって、外の様子を確認する。明け方の薄暗い空間が広がり、開け放たれた窓辺から身を震わせる厳しい寒さが吹き込んだ。
「じゃあ、見つからない内にとっとと行こうか」
人の体一つならば容易に通ることの出来る窓からならば、外に出ることは簡単だ。元々この部屋は誰かを軟禁するために作られたというわけではないようで、ただの宿泊室であるここから逃げ出すことはそう難しい話ではない。
さて、こんな朝っぱらに一体僕たちが何を企んでいるのか。それは何を隠そう、療養にために与えられた砦の一室からの脱走である。何も思いつきや酔狂でこんなことを画策しているのではなく、これはきちんとした考えの元である。
* * *
切っ掛けは昨日の昼頃の話だ。
ヴァローナでの武装蜂起後、数日間の気絶状態から目覚めたのが一昨日の出来事。その時、僕はカタリナ様から幾つかの忠告を受けた。その内容の如何については一旦置いておくとして、その時に彼女はまた来るよと言っていた。給仕の人に聞いたところ、砦でのカタリナ様の役職は特務将官というものらしい。
そんな色々と仕事を抱えていそうな大層な肩書から言って、彼女のまた来るよといういう発言はおそらくはリップサービスみたいなものだと考えていたけど、それに反して彼女は昨日に再び現れた。それも一人だけじゃなくて、その脇にこの砦の将であるイーリスも連れたって。
恐らくは彼は詰まった予定を無理やりにこじ開けてくれたのだろう。僕に宛がわれた部屋の中で、机に向かい合って僕とナイン、そしてイーリスとカタリナ様が向かい合う。彼が最初に口にした言葉、それは僕への感謝だった。
「まずは感謝を述べさせてくれ――ありがとう。君のおかげで、ヴァローナの砦は守られたよ」
あの日、イーリスは砦で部隊の統括にあたっていた。懐に忍ばせていた彼の霊剣の破片を通してこっちの戦況を把握し、作戦として立てておいたバリスタの一斉射、そして頃合いを見計らった砦の全兵力の突入を指揮した。
しかし今になれば、よくもまあ彼のような堅い立場の人が僕のような人間族の若者の話に耳を傾けてくれたものだと思う。彼を説得するために行ったことと言えば、わざと砦の兵をけしかけてそれをいなして見せたくらい。とてもじゃないが化け物染みた敵の始祖族の戦士を打ち倒せるような保証は出来なかった。
「……全ては閣下が僕とナインを信頼してくれたからです。きっと、僕たちだけの力ではあの敵将に歯は立たなかったと思います」
「謙遜はよせ。今や君は立派な始祖殺しだ。それほどの存在が王都でさえ一体どれほどいることか……君は、もっと自分を誇るべきさ」
始祖殺し、その肩書は僕にとってはひどく重たいものだ。人間の身でありながら、始祖族を打ち倒すほどの力を持った戦士をさす呼び名。これまでの戦乱の最中で敵対する始祖族を打倒した古強者や、実際に始祖族を殺したわけでは無くとも実技訓練で打ち倒したことのある者が呼ばれると聞いたことがある。
言ってしまえば、クアルスでアリアスを撃破した時点でもうそう呼ばれるだけの下地はあったのだ。そして何人もの兵士の前でマオを打倒したことで、僕は数少ない本当に始祖族の戦士を殺した人間として認知されるに至ったのだろう。
「ヨードルから君について少しだけ聞いたよ。まだこの街に来て日が浅いのに、何故ヴァローナを救おうとしたんだ? もし私が力のないただの市民だったら、自分の命を優先して間違いなく街から逃げ出ただろう」
いくらか武装蜂起後の街の様子について話を聞いた後に、イーリスはそんなことを問いかけてきた。僕が身の丈に合わないような戦いに身を投げた理由を聞こうという質問。今まで腕を組んだまま窓の外に目をやっていたカタリナ様もこの話題には興味を惹かれたようで、いつの間にか真紅の瞳をこちらにじっと向けていた。
「……過去を探しているんです。失った記憶の破片を探し求めて、今はその旅路のほんの始まりなんです」
ほとんどは真実を、そして敢えて一部だけは隠して話した。確かに今の僕の状況は、自分の過去を探すための旅路の途中である。しかしその一方で、ナインの手を取った瞬間から、クアルスに自分の居場所が無くなったからという理由もある。
「僕すらも知らない自分の過去を知る彼女の協力の元で、僕はこの街にたどり着きました。昔居たことがあるというヴァローナを、よく知らないままにフラントニア帝国へと落とされたくはなかった……ただ、それだけです」
自分という人間が、こんな要衝の地であるヴァローナに果たしてどんな用があったのかは想像もつかない。でもナインは、確かにここは何かしらの縁があることを示唆しているのだ。せめてあと一月の間、路銀が貯まるまでの間はヴァローナでの自身の痕跡を探したい。
今回の無謀とも言える戦いも、結局は目標を邪魔する障壁を排除したに過ぎない。決してこの街の誰かを救いたい、そんな思惑なんて無かった。そう言外に匂わせた。
「だが、ヨードルは君が殺されそうになっていた親子を率先して助けたとも言っていたよ。君の行動は動機がどうであれ、英雄的なものさ」
「あれは……何故あんな行動をとったのか、僕自身にもわかりません」
自分の体を死地に向かって突き動かしたほどの、強い衝動。イーリスには分からないとは言ったものの、実はその正体については心当たりがある。
ナインと出会ってから今までの日々で、これまでの自分ならば絶対に取らなかったであろう選択をいくつかしてきた。その度に思う、記憶にないはずの過去の自分の影。きっとそれが、今回も僕には似つかわしくない英雄的な行動をさせたのだろう。
ふと、イーリスの顔に少しばかりの険しさがさした。彼の切れ長な視線が僕とナインを捕らえ、そして直後に隣へ控えている――獲物を前にした肉食獣のような笑顔を浮かべたカタリナ様を一瞥した。
「……今回の一件、君には感謝をしている。だが同時に、ひどく大きな悩ましさも感じている。それは、君たちの扱いだ」
声のトーンも少しばかり落ちて、イーリスはそう言い切った。彼の言葉を頭のなかで反芻すること数秒、ここにきてようやく僕は自分でも気が付いたのだ。武装蜂起の鎮圧に際して、介入したことによる弊害を。
「君たちの働きは凄まじい。特にツカサ、君は作戦骨子の立案だけでなく敵陣に単独で突撃し、仕舞いには始祖族である敵将を撃破した。君の働きは、言葉で言い表すのも困難なほど大きいものだよ」
言葉の上だけをみれば、まるでこの功績を称えるかのよう。しかし実際はそうではない。始祖族ではない普通の人間であることはおろか、傭兵や正規兵といった専門ですらないこの僕が、身の丈に合わない戦果をあげた。
こんなただの市民が戦乱で活躍してしまったことに爽快や喜びを感じるほど、おめでたくはない。始祖族が人間族の市民を統治するこのアストランテにおいて、訓練された熟練の武人ならまだしもそこらの一般人が始祖族を打ち倒したとなればどうなるか。程度の大小はどうであれ、この国の価値観にヒビが入るのは間違いない。
「……僕を、どうするのですか?」
最悪の展開が頭の中に過るやいなや、震えた声が口から漏れ出た。僕の目の前にいるのは、人間族とは価値観が違う支配階級たる始祖族だ。彼らは、国を統治するためであれば非情な選択だって容易に取る。常識にヒビをいれるような存在など、排除されたって何らおかしくはない。
「安心しろ。君に危害を与える気はない。仮にそうしたところで、君の存在を砦の兵達が知った現状では反乱意識を芽生えさせるだけだ」
それはつまり、選択はしなかったけど検討はしたということ。やはり彼もまた、冷徹さを持った始祖族であるということを改めて思い知らされた。
「だが君をそのままにしておくにはいつか綻びが来る。だから私は一つの結論に達した。それは――」
「――やっとボクの番か。前置きが長いんだよ」
うんざりしたような、それでいながら揚揚とした様子で、カタリナ様は今までずっとつぐんできた口を開いた。そんな一言を残したかと思えば、まるで肉を前にした獣の如く、身をやや乗り出して彼女は真紅の瞳で僕の顔を捉えた。
「ツカサは覚えているよな。初めて会った夜に、ボクが君に言ったことを」
彼女の言うとおり、僕はしっかりと覚えていた。出自も怪しい僕に対して、アストランテ王国第三王女殿下の副官にならないかという異様な提案なんて、忘れたくとも不可能な代物だ。
カタリナ様から逃げ切って住処へとたどり着いてからナインにフクカンとは何ぞと聞いてみて、ようやく事の異常さに気がついたものだ。
「あの時の提案をもう一度言う。君、ボクの副官になれよ。ツカサの身分を保証し、秩序崩壊の種を減らすにはとっておきの方法さ」
副官とは、軍部において部隊長などの高い階級職の仕事を補佐する人員のことらしい。ナインいわく、戦うだけではなく部下たちの調整など複雑な業務をもつ将校は、一部を肩代わりさせるために副官を持つことがあるとか。
「君らの雇い主から聞き出したよ。少なくとも、事務作業については申し分無い。そしてそれ以上に――ツカサ、君には興味がある」
だが彼女は、ただ将官としての事務的な業務を補佐するだけがために副官を欲しているわけではない。この人は、間違いなく戦乱にて彼女と共に動き回る兵士を求めている。
あの時と一緒だ。逃がすつもりなど欠片も無いと語る、見開かれた深紅の瞳。まるで体全体を押さえつけられているかのような錯覚。
「……それに、仮にも王族のボクは君のような特殊な人間を抱えるに足る立場にいる。ボクならば、君をうまいこと匿いながら扱うことが出来る」
ふと、カタリナ様の笑顔が深くなる。彼女の言葉の行間を読むのは容易い。この人は、僕とナインの特殊性を実際にその目で見てしまった。きっとナインという存在と始祖族の霊剣の関連の秘密保持を、ぼやかしながらもちらつかせているんだろう。
「今日は体が本調子じゃないだろう。明日の朝、良い返事を期待してるよ」
そのあとも幾つは言葉を交わしたものの、結局はそのまま僕たちの身柄はカタリナ様の下にいくという方向性が変わることはなかった。一晩の間で覚悟を決めろということだろう。去り際に彼女が小声で「選択肢は無いけどね」と呟いていたことから考えても、これが実質的な強制であることは明らかだった。




