33. 誰かが見た夢
――ピピピピッ ピピピピッ
目覚まし時計から無機質な電子音が響き渡った。同じフレーズが数秒間流れるごとに段々と音が大きくなるそれは、そのすぐ脇で布団を被って寝ている僕を起こすのには十分なものだった。布団の中からニュッと腕を伸ばし、枕元の小棚上をごそごそと弄り、右往左往した後漫画やゲーム機と一緒に置かれた目当ての目覚まし時計を掴んだ。
「……寒い」
時計上のボタンを押してアラーム音を止め、少しばかりの間温かみが残る布団の中でもぞもぞと動く。僅かに開いた布団の中に入ってきた寒気は、目覚ましの音以上にこちらの眠気をそぐには十分すぎる代物だ。こんな平日にだらだら二度寝をする余裕なんて無いんだから、とっとと起きるほかはない。
「起きなくちゃ……眠い」
しかし勢いが良いのはここまでだった。のそのそと布団から起き上がり、ベッド脇に置いてあったモコモコの羽織を引っ掴んで着込んだ直後、背筋を丸めながら歩き出した。ただでさえ寒さが深まる年の瀬で、その上今年は例年よりもずっと寒さが強いと連日ニュースで言っている始末。
――年の瀬……? 今は、冬が明けた初春だ――
ふと頭の中に違和感が過るが、それは一瞬の間のこと。今はともかくしゃきしゃきと動かなくては。自分よりもずっと早起きをしている両親が、下のリビングルームで朝食をとっているはずだ。それに乗じてとっとと準備をしなければ、遅刻をしてしまうかもしれないのだから。
* * *
『――日本重工業が、四葉工業医療部門の買収を検討していることが、21日明らかになりました。昨年秋から四葉工業の医療部門は業績不振に陥っており――』
「これ検討じゃなくて、ホントのところはもう既定路線だよ。おかげで連日面倒な会議が――おお、起きたか。おはよう、司」
テレビで流れる朝のニュースを顰め面で眺めていた父親が、トーストを片手に声をかけてきた。ここ数日、父親が家に帰宅する時間は半年くらい前と比べて随分と遅くなっている。その理由についてあまり聞いたことは無かったけど、どうやら今テレビで話していることのせいなんだろう。
「おはよう、コーヒー湧いているから注いで頂戴ね――大変ね、あなたの所属も変わるんでしょ?」
「肩書だけだ。仕事内容はそう変わらんさ。多少の人事異動に巻き込まれるかも知れんが、そうなっても引継ぎのため最低でも一年は転勤も無いだろう」
両親が共にニュースの内容に興味津々で、軽めの挨拶も過ぎれば二人そろって転勤やらなんやら入り組んだ話をしている。一方で僕ときたら、父親の言うように最低限一年の間は引っ越しも無いのだろうから特に不安なことも無かった。来年に控えた大学受験、それが過ぎれば親元を外れて一人暮らしをすることだって世間的に見れば珍しくも無い。少なくともその瞬間まで待っててもらえれば、そこまで大きな影響は無いはずだ。
――大学受験だって? 今僕が目指しているのは、己の過去を知るというただその一点のみのはずだろう――
再び頭に何か不思議なものが浮かんでは消えていった。何の変哲もないこの日常を真っ向から否定するかのような可笑しな考え。それは果たして、起きる寸前まで見ていたのかもしれない夢か何かに引っ張られてるのだろうか。
「司、体調でも悪いのか。そんなしかめっ面して」
「……いいや、たぶん変な夢を見ただけ。そうだ、今日ちょっと帰るの遅くなるからね」
無理やりに話題を変えるがために、母親へと声をかけた。内容の一片すらも思い出せないような夢なんかに意識を裂くことは馬鹿らしいし、それに本当に今日は帰る時間が遅いのだから実際知らせておいた方が良い。
「あっ塾ね。分かった、夕飯はお父さんと同じくらいで考えておくわ」
「そういえば、司。もう志望校は決めたのか? もう来年くらいに控えてるんだから、そろそろ第一志望くらいは絞っていた方が良いぞ」
テレビから意識を戻した父親が、ふと思いついたようにそんなことを聞いてきた。志望校、それは今後の人生を決めるうえでかなり重要な決断になると日々家や学校の双方で耳にタコができるくらいに聞かされている話だ。そんな中で最も行きたいと願う対象の第一志望となると、ある程度は高望みをしたうえで決めろとも言われている。
「……今のとこは東都工科大学で考えてる」
「良いじゃないか。あそこの出身者はうちの部署にも何人かいるよ。ただかなりの難関大学だから、気を引き締めていかんとな」
時折の模試や定期テストの渋い結果から言ったらそれなりに攻めた選択肢ではあるけど、父親の評価自体は上々みたいだ。気楽に高校生活を送れるのももうそろそろお終いで、これからはどんどん受験というものを頭に入れて過ごしていかなければならない。少なくとも、そのレベルの大学を第一志望に据えている以上、避けては通れない道なのである。
朝食を食べ終えて準備を全て整えたら、あとはもう家を出るだけだ。鞄を肩にかつぎ、そして玄関の取っ手を握り締めたその瞬間、ふとした違和感に襲われる。今朝起きてからずっと続く違和感、それは果たして夢の中で見たのかもしれない情景と現実のギャップに頭が混乱しているだけだろう。しかし今感じたのは、ただそんなギャップに戸惑うというものではなく、何処かノスタルジックなもの。
この扉を開けるその前からずっと続いていたその感触が、扉に手をかけた瞬間になってピークとなる。今朝の光景は普段から繰り返されてきた日常から外れるものじゃなく、それは本当に何の変哲もないものだ。それだというのに、こうやって家を出る直前になって何故かそんな日常に対して不可思議なノスタルジーを抱くのだろう。
気が付けば、熱くなる目頭。まるで涙を流しているかのような感触だというのに、目をこすっても手は塗れず、玄関脇に立てかけられた鏡をみても自分の顔に涙なんて一滴たりとも浮かんではいない。ただ自分の体の内面だけがボロボロと涙を流すかのような、隔絶の激しいギャップ。
「じゃあ、行ってきます」
別に今この瞬間にこの日常に切なさを感じる必要は無いのだ。学校や予備校から帰ってくれば、またこんな家族との光景はまた繰り返されるのだから。この光景は、これからもずっと見ることになるであろう日々の一コマに過ぎず――
――本当に、そうかい? 本当に僕は、これからもその日常の中にいるのか?――
その扉を開けてはいけない!! そこで僕はようやくこの光景の本当の意味に気が付いた。また目が覚めたら、この現状を把握したという記憶は消えて失せてしまう。手を止めようとしても、涙を流し続ける内面の僕の意志とは裏腹に、"僕"の手はドアノブを握り締め――
――だって今の僕が居るのは、――
玄関の先に見えた明るい太陽の姿が、この住み慣れていた家で見た最後の光景だということを思い出した瞬間に、全ての意識が潰えてしまった。




