25. ヴァローナを護る砦
戦姫カタリナが倒された。その知らせは、この始祖族の将官からですらも望みを失わせるには十分過ぎるものだったようだ。舌打ちを一つならした彼は、戦乱の渦巻く街から視線を外し踵を返した。焦りの中に何かの決意を秘めた様子で僕とナインの横を通り抜ける間際、僅かに聞こえる小さな声が耳へと届く。
「君たちは今のうちにどこかへ逃げた方が良い。いずれこの砦の前まで連中がやってくるよりも前にな」
そう言い残して砦の中へと去っていくイーリスの姿を、僕はただ黙ったまま見送ることしかできない。砦、ひいては街の守護を任された彼が、非戦闘員である僕たちに逃げろと正直に喋った意味を考えると、どれほど状況が切迫しているのかは明白だ。
砦に残存する兵力自体は、街に蔓延る反乱兵の数よりもよほど優勢なのだろう。しかし相手は、投石器やバリスタといった砦の防御兵器が有効に使える城壁の外側ではなく、砦の背後にある街の中へと侵入を果たしてしまった状態だ。そもそも武装蜂起が可能なくらいの数の人間をヴァローナに紛れ込ませてしまった時点で、困難な状況になってしまったのだ。
ならば砦からも兵を出して直接反乱兵を叩くのか。しかしそれを困難にするのが、敵の始祖族の存在だ。単身で無計画な突撃をした挙句敵の手に落ちたカタリナ様を欠いたヴァローナ正規兵にとって、マオという始祖族はどう足掻いたって対抗することは出来ないのだろう。相手が建物の入り組んだ街中にいるのだから、遠くから弓矢で制圧することも叶わない。そうなれば接近して戦うしかなく、そしてただの人間があれに太刀打ちできないことは僕にだって分かる。
「……現実的な選択肢は、このまま路地裏に逃げ出して隙を見つけて街の外へと逃げることなんだろう。そんなこと、分かってるよ」
手負いのヨードルも、まだ僕の過去を探していないヴァローナさえも見捨てることが、自分が生き残るための最も安全で可能性のある道であることだなんて、考えなくても分かっている。たとえここが北部人の手に落ちようが、それで何人もの市民が死んでしまうことになろうが、そしてフラントニア帝国に制圧され二度とこの地を踏めなくなろうが、自分が生き残ることに比べればどうってことは無い。
なのに、僕はその一歩目を踏み出すことができずにいる。何故だ、敗北が半ば決定したこの街を見捨てることに抵抗を感じるのは。確かに僕は、ただ流されるまま強者に踏みつぶされるような矮小な存在からは少しでも脱却したかもしれない。でもカタリナ様が居ない今、この状況を打破するだけの手の内はたぶん残されてはいない。
それでも、胸の内から逃げるなという意志が強く沸き起こる。世話になった恩人を見捨てるな、そしてこの街を見捨てるな。自分という人間の器の大きさに収まりきらない、まるで英雄思想のような様相。それはひどく不気味で、しかし無視をするには大きすぎて――
「この街は、昔の僕にとって何か特別な意味があったのかな。逃げなきゃと分かっているのに、でも自分の本心は逃げ出すことに大きな抵抗を感じているんだ」
もしかしたら、もう何処かに置き忘れて消えてしまった自身の過去の残り香が、ぎりぎりのところで僕の意志を繋ぎ止めているのかもしれない。"要衝の地ヴァローナを護れ"、そんな勇ましくて英雄のような考え方がツカサという人間の中に浮かび上がるだなんて、もはやそれしか考えられない。僕の過去を知る人物であるナインならば、その一端でも知っているのか。今は具体的な内容はいらない、ただイエスかノーかだけでも僕は知りたかった。
「……うん。ツカサと私は、以前にここへ来たことがある。あの時は、この空を見上げていたよ。そして、まだ私たちは――この街を明け渡しちゃいけない」
まるで霧の中を掴むかのような話。僕は、自分の知らない過去の中で一体何を思いながらヴァローナの空を見上げていたというのだろう。この晴れ渡った青い空、その向こう側に一体何を見たのだろうか。
でもこれではっきりした。ツカサという人間は、確かにこの街に対して何もしがらみなど存在しない。しかし自分の過去を探すという目的を達成するためには、絶対にひいてはいけないんだ。
再び自分の中の決意に火が付いたのを実感する。この街は、絶対にフラントニア帝国には渡さない。そのためにやらなければいけないのは、あの始祖族を無力化するということ。僕の心境の変化を理解したのだろう、淡く微笑んだナインが僕の手を握りしめた。
「カタリナ様は倒され、敵は雷を操る強力な始祖族。この僕らに、まだやり様はのこされているのか?」
「ゼロじゃないよ。まだ、私とツカサがいる。それにあの女の能力は、絶対何処かに隙がある」
ナインの言葉からは、確信染みたものが感じられた。体のどこだろうが掠っただけでも身体の自由が奪われる雷撃が、避けることも不可能な速度で繰り出される。しかもそれが、まるである程度の距離を挟んだところから牽制をかけるかのように放たれるような、決して目の前にしたくはない敵。黒炎を身に纏い攻勢をかけたカタリナ様でさえも勝てなかった相手。しかし、ナインはその綻びの一端を見たというのだろう。
「……あの広場で、何人もの兵士が焦げにされていただろ。みな武装をしていたのに碌に抵抗も出来ずにだ。それにヨードルだって、一撃で――」
その瞬間に、頭の中に違和感が走った。確かにヨードルは、たったの一撃で戦闘不能にまで追い込まれた。彼の手はまるで炎に焼かれたかのように火傷が走り、その上一部が炭化をしたほど。しかし彼は周囲に転がっていた雷の犠牲者のような、全身を雷に打たれて即死をしたわけじゃない。
「そう、あの男自身は雷に打たれてはいない。雷が直撃したのは、あくまで槍の先端。彼はその余波を受けたに過ぎない」
何故あの始祖族はヨードル自身へと雷を落とさなかった。まさか、手加減をしてただ動けなくすることが目的だったのか。動けなくなった僕たちを直接霊剣で処断するため――いや、本当にそうなのだろうか。
「それに、城門前の広場で雷に打たれて死んだ人たちを思い返してみて。何かがおかしいと思わない?」
「……あの時周辺にあった犠牲者は皆兵士で、黒く焦げていて……」
思い返すだけで、吐き気がこみ上げてきそうなほどの酷い光景。何人もの犠牲者が生前の面影を感じられないほどに黒焦げになり、周辺に漂う肉の焼ける異臭。全員が兵士だったにも関わらず、一人残らず碌に戦うことすらも出来なかったのだろう。まるで墓標のように、それぞれの脇に剣が転がっていて……
「……あの場に、雷に打たれた市民は居なかった。全員残らず兵士だけで、しかも決まってその脇に剣が転がっていた」
「そう。犠牲者は全員剣を持った兵士。じゃあ、逆に槍を持ったヨードルは何故助かったと思う? 私は、もう女の能力の欠陥に気が付いたよ」
ナインが断言するあの始祖族の弱点。それは、犠牲になった兵士たちとヨードルの違いに大きな鍵があるのだろう。それは一体何だ。長さか、それとも構造か。
ヨードルの状況は一体どうだった。彼は、その槍を構えていた手をやられている。しかし手が全て焼かれたわけではなく、その一部が黒く焦げる程度ですんでいる。全身を黒く焼かれた兵士との違いは明白。ならば彼が持っていた長槍の柄と、兵士たちが持っていた剣の違いは一体――
「――そうか、材質か」
彼の長槍は、黒く塗りつぶされた木材で構成されていた。だからこそ、あの雷の直撃を受けた柄は、金属で構成された先端部とは明確に異なり炎を上げて燃えていたのだ。しかし兵士たちが扱うような一般的な剣は、刀身からその柄も含めて全体が金属で作られている。
ヨードルの槍の柄が木製だったことが雷の威力を減衰させ、そして逆に金属製の先端部が雷撃の対象となった。そして剣という武器を持たない市民はあの始祖族の攻撃の対象外となり、犠牲者は全員その武器を近くに落としていたのだ。
「……恐らくあの女が生み出す雷は、私たちが思っているほど自由に扱えるものじゃない。仮に金属製のものに狙いをつけて放つものならば、逆にそれを利用して阻害することだって不可能じゃない」
そして思い出す。あの始祖族が率いる一団が、乱入してきたカタリナ様を対峙をした時。あの女はこう話していた。"私の戦いを邪魔することは許さない"。それは一見して、始祖族同士の戦いに何人たりとも介入は許さないという意思の表れなのだとその時は思った。しかしもし僕とナインの推測が正しいのであれば、あれは周囲の兵が保有している剣に含まれる金属が、自身の能力に干渉することを防ぐためだったのではないだろうか。
「あの女は無敵じゃない。それに私たちは、決して無力なんかじゃない。あの将の男に言いに行こう、私たちならば出来るって」
その顔に浮かぶ淡いながらも力強い笑顔を見て、僕は何かを思い出したような錯覚に陥った。新鮮なようで懐かしい。これもまた、僕の知らない記憶の持ち主が垣間見た光景が生んだ幻なのだろうか。彼女に手を引かれたまま、僕もまた歩き出す。イーリスという始祖族に、自分たちを信じてくれと説得をするために。
ナインは、砦の尖塔へと戻るその間際にふと横を流し見た。街の北部の開けた大地へと向けられた、いくつもの防衛兵器。その中に立ち並ぶ幾つかの巨大なバリスタとその弾となる大型の槍。照らされる太陽を反射して、バリスタの矢の先端が鈍く輝いた。




