2 時を視る者
エンリール王国の北東の端。隣国ウェース帝国との国境にほど近い場所に、エンリールの神を祀る聖地エリドゥは存在する。国の開祖エン・リシュメイルによってその地に建立された神殿は、200年を超える時を経ても尚、その威厳ある佇まいを保っていた。
占星暦265年にリシュメイル皇家の時代が終わりを告げるまでは、この聖地エリドゥは神へ繋がる場として、多くの聖職者や信仰深い民達が出入りする賑やかな町であった。しかしラガシュ朝の治世となってから王国における神の存在は形骸化し、深い信仰を持つ者が減るのにあわせて、聖地としてのエリドゥの存在は薄れていった。
リシュメイル皇家の終焉より25年。今や、閑散とした辺境の町と変わり果てたエリドゥでは、古くからその土地で暮らしてきた民達だけがひっそりと小さな集落を維持しながら、自給自足の生活を送っていた。
町の中央に位置するエンリール神殿。その白亜の壁を取り囲む様に整えられた様々な花や木々で彩られた庭の一角には、質素な平屋造りの建物が一つ建てられている。そこは神殿の建立された時代より代々神官の一人が神殿守として住まう場所であり、現在ここの家主となっている男は、亡き妻が残した2人の子供達と共に穏やかな日々を過ごしていた。
「父様~? どちらですか~?」
鈴を転がすような声変わり前の少年の朗らかな声が、春も盛りの色鮮やかな神殿の庭に響く。その声は少し離れた場所にある、背の高い樹の木陰に座り身を休めていた神殿守の男の耳を優しく擽った。自分を探す息子の声に、男は読んでいた書物から目を上げると、少年の声に答えるように片手を軽く振った。
「リルイール! 私は、ここだよ」
「父様。そちらでしたか」
神殿守---アルリムの姿を木陰に見つけると、少年は安堵したように小さな吐息を洩らして彼の傍へ駆け寄った。長い間探し回っていたのか、少年は汗に濡れた額に貼りつく柔らかな白金色の前髪に不快そうな表情を浮かべると、それを手の甲で拭いながら言葉を続ける。
「ファルを見ませんでしたか? 朝に散歩に出たきり戻らなくて、探しているのですが・・・」
「ファリエル・・・かい?」
朝から姿が見えないという妹を心配して表情を曇らせる息子の姿に、アルリムはその穏やかな琥珀色の瞳を申し訳なさそうに細めながら、自分の膝の上を指さした。
「---あっ!」
そこには父のローブを上掛け代わりに、彼の膝枕ですやすやと気持ちよさそうに寝息をたてる少女の姿があった。
「少し前にここに来て、暫くおしゃべりに夢中になっていたんだけどね。陽ざしが気持ち良かったのか、いつの間にか眠ってしまったよ」
未だ穏やかな表情で眠り続ける少女の透き通る様な銀色の髪をそっと撫でながら、アルリムは自分の隣の若草の生える地面をポンポンと叩き、そこに座るように息子に促した。
「まだ、掃除の途中なんですけど・・・」
「いいじゃないか。今日は、こんなに良い天気なのだから。少しゆっくりとした時間を楽しんだとしても、神もお許し下さるよ」
10歳の少年らしからぬ生真面目なリルイールの言葉に、アルリムは暢気な微笑みを浮かべたまま再び座るように促す。こうなると何を言ったところで無駄であると、彼の息子は十分過ぎる程に理解していたので、リルイールは軽い溜息を吐いて、自身の身体を父の傍らにちょこんと添えるようにして木陰に腰を下ろした。
「もう、こんなに暖かくなって・・・夏も近いのだろうね。しかし、リルイール。お前、もう少し子供らしく過ごしたらどうだい? いくら早くに母親を亡くしたからといっても、お前はまだ10歳になったばかりだ。もっと友達と遊ぶとか・・・こう、色々やりたい事をして良いのだよ?」
「心配には及びません。今の過ごし方が性にあっているのです。性分ですので、お気になさらず」
度の過ぎる大人びた様子の息子を心配したアルリムの発言は、やはり年相応とは思えぬリルイールの言葉によって瞬時に切り捨てられてしまう。
その切り返しにアルリムは琥珀色の瞳を一瞬驚きに見開くと、すぐに拗ねた様に顔を顰めて、リルイールの小柄な頭頂を見下ろしながら深く溜息を吐いた。
「-----何だろうね。支配の神力を持つ子ってのは、大人になるが早いのかな? しっかりしているのは良い事だけど、父親としてはチョット寂しいなぁ」
「僕に支配の神力があるという自覚は全く無いので良く分かりませんが、単に僕の性格がそういうものなのでは? 別に日々に不満も感じていませんから、大丈夫ですよ。むしろ父様の方が、お年の割に色々と素直なだけではないかと・・・。それとも、宣託の神力を持つ方はそういうものなのでしょうか?」
「リルイール? 何かその言い方、色々と引っかかるんだけど・・・?」
父子の会話というより、最早どちらが年上なのか分からなくなるような遣り取りに、アルリムは表情を引き攣らせながら息子の顔を見やる。そんな父の様子にも別段表情を変えること無く、リルイールは父の顔をふり仰いだ。しかし直ぐ後に、祖父譲りのその黄金色の瞳にほんの一瞬惑いの色を見せて、リルイールは呟いた。
「僕が生まれた時、父様はエンリール神からの宣託を受けて僕が支配の神力を授かったことを伝えられ、また神より僕の名を賜ったのですよね。リシュメイル皇家が衰退し皇国が滅んだ後になって再び、支配の神力を持つ者が現れたその理由を・・・父様はもちろん、ご存じの事かと思いますが?」
-----自分の力は何の為に授けられたのか?
言葉には出さないものの、自分の置かれた運命を見定めようとする強い光を宿した黄金色の瞳が、答えを求めるように真っ直ぐにアルリムの視線を捉える。
リルイールのその強い眼差しに、アルリムは息子の未だ目覚めてはいない神力の断片をはっきりと感じ取った。その直後、強い何かに意識を浚われるかのようなえも言われぬ感覚が彼を貫き、その衝動に軽く眩暈を覚えながらも、アルリムは襲い来る精神の混乱から自身を落ち着ける様に、深くゆっくりと息を吐いて言葉を紡いだ。
「-----宣託の神力を持つ私にとって神の声とは、風にのって訪れる噂話のごとく、常にそこかしこに在るものだ。それぞれが物語の欠片のように取り留めの無いものに感じられるが、その全てを繋ぎ合わせ組み立てる事ができたなら、私は神が紡ぐこの先の時を全て視通せるという事になるのだろうね・・・。しかし、それを視ることが出来たとしても私にはその運命を覆すような力は無い。私に出来る事はせいぜい誰に何を伝えて何を伝えずにおくか・・・それを見定めるくらいだよ」
「・・・? 父様、微妙に質問の答えになっていない様な・・・?」
アルリムの回りくどい言葉に虚を突かれ少年らしい表情に戻ったリルイールの雰囲気の変化に、彼は心の内でそっと安堵の息をつくと、普段通りの暢気な声色で続けた。
「あ~、つまり・・・。宣託の神力を持っているからと言って、全て解っているという訳では無いという事さ。むしろ知った後の方が、訳が解らなくなる事の方が多いものだよ」
「そう・・・ですか---」
少年は幼いながらにも自らの生まれた意味を探して、考えあぐねていた。父はその答えを知っているものとばかり思っていたが、あっさりと否定の言をもらってしまい、当てが外れたリルイールはがっくりと肩を落として俯く。
しかし直ぐに気を取り直す様に立ち上がると、空に向かって大きくひとつ伸びをしてから、彼は父の方へと振り返った。
「そろそろ戻ります。掃除の続きをしないと夕餉の支度までに終わらなくなってしまいますから。父様も、それまでにはきちんとファルと一緒に戻って来て下さいね」
先程までの表情からは一変した明るい子供らしい笑顔を浮かべると、リルイールは彩り鮮やかな草花に囲まれた道を小走りに走り去って行った。
息子が走り去った道の方角を、その姿が完全に見えなくなるまで追っていたアルリムの瞳が、ふと深刻な色に塗り替えられる。
「何を伝えて何を伝えずにおく・・・か」
低い呟きとともに、アルリムは先程のリルイールの強い瞳に捉えられた時の感覚を思い出していた。
-----魂の奥深くを揺さぶられる様に、全てリルイールの意のままに支配されるような感覚。あれが、支配の神力の本質・・・・・。いや、あれはもしやエンリール神の力そのものなのか?
恐怖にも似たその感覚に、アルリムは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
神皇エン・キナムが殺害された年。雪の降りしきる中、ウル・メシリムの導きで首都キッシュを脱出したアルリム達3公子は、国境の地エリドゥに落ち延びエンリール神殿に匿われて雪解けまでの二ヶ月程をこの地で過ごした。その後、春の芽吹きの季節を待って再び神殿を訪れたメシリムに伴われ、下の2公子は隣国ウェース帝国へと旅立って行ったが、ただ一人アルリムだけはこの地に残る事を決断した。
神官見習いとして引き取られた孤児という新たな身分で、アルリムは神殿での生活の殆どを、祭壇の前で神の声に耳を傾ける事で時を過ごした。
やがて大人となり神官として成長したアルリムは、程なくして神官長の娘と縁を結び新たな家庭を持ち、一族の歴史を失った苦渋の幼少期を補うかのように、神殿守として安穏な人生を送っていた。
平和で幸せな日々を過ごしていた彼が、十年前に神の宣託を受けるまま、支配の神力を持って生まれ落ちた息子に皇国ではあまり聞き馴染みの無い「リルイール」の名を授けたその日から、アルリムはエンリール神の声を聴くことが無くなっていた。
それまで当たり前にそこかしこに感じられた神の声が突然に失われた事に、最初のうちは、後継の血筋をもうけた為に自分の宣託の神力は失われてしまったのだろう思っていた。しかし一月後、彼は息子に洗礼を与える儀を執り行う最中に、神の声を聴かなくなった事態の真の意味を知ることになる。
エンリール皇家直系の血筋の者に与えられる神の皇子の称号。洗礼の儀においてアルリムは息子の皇子名を口にしたその瞬間、言葉を失う程の衝撃を受けた。
「エン リルイール」
生まれ落ちた我が子は、その皇子名にエンリール神の名を持たされていたのだ。
単なる偶然、考え過ぎだと思う事も出来た。しかしアルリムの中の何かが、それが真実であると告げていた。
-----もし神が人としての生を持って降誕されたのだというのなら、その意味するところは・・・。
「しかし、神の声が聴こえなくなった今、それが真実であると確かめる術はないんだけどね・・・」
深い溜息とともにアルリムが独りごちた時、彼の膝に凭れていた少女が小さく身じろいで、その身をゆったりと起こした。
「父様・・・?」
「ああ、ファリエル。起きたのか」
さらりと流れる銀糸の前髪の隙間から、澄み渡る空を思わせる薄水色の瞳を覗かせて、少女はふにゃりと愛らしい微笑みを浮かべた。
「わたし、寝ちゃってた?」
少し恥ずかしそうに肩を竦めて父の隣に座りなおすと、少女は小さな舌をぺろりと見せておどけた様な表情でアルリムに問いかけた。
「少しね。まあリルイールは、朝出ていったきり帰ってこないからと、心配して探しに来ていたけど」
「わあ、ホント? まずいなぁ。帰ったらお説教かなぁ」
「大丈夫だよ。リルイールも心配していただけで、怒ってはいなかったよ。さて、そろそろ日も暮れるし戻って夕餉の支度を手伝わないと。それこそ本当に、リルイールに怒られてしまうからね」
幼い娘の小さな手を引き立ち上がると、アルリムは家へと向けて歩みを進めた。
-----神の真意が分からない今、自分に出来る事はこの子達にリシュメイル皇家の全てを伝えておく事ぐらいしかない。そう遠くはない自分の終わりの時までに、この小さな子達が先の生き方を迷わぬように、自分の持てる知識の全てを伝える事。それが、今の自分の為すべき事なのだ。
春の暖かな風に庭園の花々がゆるりと揺れ動く様を優しく見つめながら、アルリムは自分の決意を固めるように心の中でしっかりと呟いた。




