3 新たな時への予兆
暖かな春の季節が過ぎ、生命のエネルギーあふれる夏が訪れたエンリール王国。その王都キッシュは、ラガシュ王朝となってから都を取り囲む様に大きく張り巡らされた城壁が建設されたこともあり治安が安定し、裕福な商人や貴族階級が多く居を構える城塞都市として発展していた。街は、日々出入りする行商人や旅人達で賑わい、城下は多くの人々で活気づいていた。
堅牢な守りの中心にそびえる国王の居城。その建物の一際高い場所に位置する、城下を一望できる国王の執務室では、街が眠りにつく夜更けを待って密かな会談が行われようとしていた。
優雅な燭台に灯された蝋燭の明かりが、昼の暑さをまだ残す室内の空気に揺れる中。豪奢な装飾の施された椅子に堂々たる様子で座したナトゥム王は、目前に低頭する2人の側近の姿をゆっくりと見遣った。そして一呼吸の後、2人に面を上げるよう促した。
王の言葉に従い、改めてその尊顔を正面から捉えた側近2人は、目の当たりにした王の酷くやつれた様子に、それぞれに深い驚きを以てその表情を歪めた。
近衛軍を束ねる将軍のガルアンダーは職務上、日頃から王の傍近く控えている事もあり、ナトゥム王の最近の体調不良については十分に承知しているつもりであった。それでも間近に見る王の様子は、武将として名を馳せた当時の面影も霞むほどの薄弱ぶりで、武将としての彼を尊敬してやまないガルアンダーの表情を心痛で歪ませた。
別の1人。国の各地を巡り国内の治安維持に努める憲兵団の団長であるラバシュムは、王より直々の命を受けて数か月ぶりに王都に帰還したばかりであった。前回、彼が南の地に向けて旅立つ際に拝謁した王の姿は健全そのものであった事は記憶に新しく、この数か月での王の想像を超える変わり様に、ラバシュムは驚きを隠せずにその顔を顰めた。
「・・・其方らの、その反応。どうやら私の病状はもう、隠し通せぬ段階まできておるのだな」
側近2人の様子に、諦めのような軽い溜息とともにナトゥム王は小さく呟く。
「ナトゥム様・・・。やはり最近の体調不良は、何か病を患っておられたのですね? 医師は・・・何と診断されたのですか?」
ガルアンダーの控えめながら確信に触れる問いかけに、ナトゥム王は側近達に向けていた視線を静かに閉じると、ポツリと言葉を漏らした。
「このままでは、次の春は見られぬかもしれぬそうだ・・・」
「-----!」
予想もしていなかった衝撃的な返しに、ガルアンダーとラバシュムの2人は暫しの間、言葉を失ってしまう。
「思えば先王ラガシュも、最後は原因不明の病に臥して亡くなった。さて・・・これは、神の眷属に弓引いた一族への呪いだろうか?」
「王! 滅多な事を仰ってはいけません!」
自嘲の笑みを漏らしながら呟かれたナトゥム王の言葉に、ガルアンダーの叫び声が重なる。その制止の言葉に、ラバシュムも少しの焦りを帯びた声で続ける。
「ガルアンダー殿の申す通りです。昨今、増え続けた貴族階級が各地で巻き起こす些細な揉め事が発端となり、平民階級を中心に神殿に救いを求める動きが起こりつつあります。各集落に配された礼拝堂に詰める神官が大神官へ働きかけ、礼拝堂と神殿の繋がりが深まれば、今は零落した神殿の大神官の権威は一気に上がりかねません。そこに、王の不調が神の呪いだなどという風聞が流れるようなことにでもなったら・・・」
「呪いの話は、ほんの冗談だ。そう怒るな、2人とも」
やつれた表情の口角をほんの少し持ち上げて、ナトゥム王はくつくつと愉快そうに声を出して笑うと、側らの文机に手を置いてゆっくりと立ち上がった。
「神の眷属の呪いに怯えていたのは、先王ラガシュだ。私自身は、エンキナム皇が存命の折も直接に拝謁した事は無い為か、リシュメイルの血筋に対しての特別な畏怖を感じる事は無い。だが、ラバシュムのいう事は尤もだ。大神官が王国に対して教化を行おうと決断した場合、あちら側には強力な御旗が存在するからな・・・」
「強力な御旗・・・とは?」
「故エンキナム皇の公子、リシュメイルの直系の子供達だ。無事に生き延びていれば、第一公子はガルアンダーと同じ年。31歳になっているはずだ」
ナトゥム王の言葉に、ガルアンダーとラバシュムは共に目を見開き驚愕の叫びを発した。
「リシュメイルの直系が、生きているのですか!」
「先王がエンキナム皇の最後を見届けた折、王宮内から3公子の姿は忽然と消えていたそうだ。おそらく何者かの手引きで、国外へと脱出したのだろう。しかし当時のリシュメイル皇家に仕える家臣の中で共に姿を消した者は無く、その頃は第一公子ですらまだ5歳という幼さだ。リシュメイル皇家の何たるかを説かれずに育ってしまえば只の人、恐れるに足りぬ。姿を現さぬのなら、放っておいて構わぬ存在と思っていたが・・・もし大神官が彼らを探し出し、祀り上げようとするのならば、厄介な存在となる。その前に、こちらが先手を打つ。その為に、今日は2人に来てもらったのだからな」
「何と! 王は、もう既にその事についてお考えでしたか 」
ラバシュムより送られる各地の世情の報告に、ナトゥムは既に、起こり得る国内の動乱の兆しを制する策を決断していた。その先見の明に、ラバシュムは尊敬の眼差しでナトゥム王を見つめると、握りしめた拳を胸に当てて敬礼し、王の足元に跪いた。
「何なりと、御命令を! このラバシュム。憲兵団総力を挙げて、王のご期待に応える用意はございます!」
「心強い事だな。この計画、決して外に知られる事の無き様に。秘密裏に、かつ迅速に遂行してもらわねばならぬ」
「「畏まりました」」
王の言葉に、ガルアンダーもまたラバシュムの隣に同じように跪いて、承諾の言葉を発した。その2人の様子に頷くと、ナトゥム王は鋭い眼差しに冷徹な光を湛えて、それぞれに命を下す。
「ラバシュムは憲兵第一団を率い、名目上は通常通りの巡察として神殿のあるエリドゥへと向かえ。そこで王国に咎なす計画を掴んだお前は、憲兵団長の処刑権をもって大神官および神殿に詰める神官すべての処刑を行うのだ。この一件に関して、現地に一切の証人を残してはならぬ。エリドゥの村人は、大神官の処刑に対する抵抗を示したとして、一人残らず始末せよ。また、この計画が遂行されるまでの間は各地の礼拝堂へ事が露見せぬ様、街道の各町村へ憲兵第二団以降の部隊を巡察に向かわせ、伝令等の動きに注意を配れ。ガルアンダーはこの件に関して、王都での情報の整理と計画の統括を任せる。良いか。この行動はあくまでも、通常の憲兵団の巡察中に起きる出来事として処理されなくてはならぬ。2人ともそのことを念頭において、行動するように」
固く無機質な王の声が、宵闇に包まれる小部屋の空気に凛と響く。
病に蝕まれた彼の体躯は数か月前に比べ痩せ細ってはいるものの、すらりと背を伸ばし威厳をもって2人の側近を見下ろすその姿は、歴戦の修羅場をかいくぐり必要とあればどこもまでも冷酷な判断を下し自軍を勝利へと導いてきた、秀でた武人としての彼が健在であることを示していた。
「「全て、王の御心のままに」」
王のその姿に、ガルアンダーとラバシュムは再び深く頭を垂れると、最敬礼の形をとり、共に王の命に従う意を表した。
ナトゥム王と側近達が密かな会談を開いた夜から、数日後。
まだ夜も明けきらぬ早朝。聖地エリドゥの神殿の前庭の小道に、草花に留まる細かな朝露を掃うように早足で進み、アルリムとその子供達が住む小さな家を訪ねる一人の老人の姿があった。色を失った見事な白髪をきっちりと後ろに撫で付け、皺一つなく整えられた純白の礼服に身を包んだその老人は、この神殿を預かる神官長---国から授かった称号でいえば、大神官と呼ばれる人物である。
老人が控えめなノックで自らの来訪を家人に告げると、簡素な板造りの扉が開かれ、この家の主であるアルリムが姿を現した。神殿守である彼の朝は早く、既に務めに向かう身支度を済ませていたアルリムは、白地に檜皮色の丁寧な縁取りをあしらった神官服に身を包んでいた。
「これは、義父上。どうされました? このような朝早くから」
神官として神殿に務めるアルリムは、朝の礼拝の時間になれば必然、神官長が身を置く本殿へ顔を出す。それを待たず、態々この老人が自宅を訪れたことに、アルリムは少なからず驚きをもって神官長を家の中へ招き入れた。
「すまぬな、こんな時間に。リルイールとファリエルはどうしている?」
「2人は、まだ寝ていますよ。いつも起きるのは、日が昇る頃です」
入口に続く小さなダイニングルームのテーブルに老人を促すと、アルリムは壁際のキッチンに向かい、チロチロと炎の揺れる焜炉の上で湯気を立てるハーブティーをカップに注いだ。それを持ってテーブルに戻ると、彼は客人の手元にそっとカップを置き、その向かいの椅子に腰を下ろす。
「何か・・・あったのですか。外では話せないようなことでも?」
神妙な面持ちで俯く老人の姿に、アルリムはおずおずと問いかけた。
「-----先日、南の地にある礼拝堂に務める神官の一人が、この神殿を訪れた。かの地を治める貴族は先王ラガシュ卿の弟筋の縁戚なのだが・・・近年、その搾取ぶりは目に余るものがあるという。国の南部を中心に、神殿に救いを求める動きがじわじわと広がりつつある。しかし現在のナトゥム王は、神を恐れぬ武闘派の御仁。それに付き従う貴族階級を諌めるには、形の見えぬ「神」を御旗としたところで、到底太刀打ちできませぬ。アルリム殿・・・リシュメイルの直系という生きた象徴としての貴方様を、国の民達は必要としているのです。我らの蜂起の冠として、共に立ち上がっていただけませぬか」
切実な声色で語る老人のアルリムを見つめる眼差しは、神官長が弟子の神官に向ける厳しくも暖かなそれとも、義父が娘婿に向ける穏やかなそれとも異なる、嘗て国の象徴としてこの地を統べた神の眷属へ向ける、希望と期待に満ちたものであった。
「それが、エンリールの人々の願いなら・・・私に出来る事であれば、どのような事でも尽力は惜しみません。しかし貴族階級はともかくとしても、あのナトゥム王がリシュメイル皇家の存在に恐れをなすとは思えませんが----」
アルリムが控えめに言葉を発しているその時、突如として神殿の敷地内の空気に異変が生じた。遠くから響く微かな地鳴りを伝えるテーブルの振動に、神官長の手元のカップがカタカタと小さく震える。前庭の木々で羽を休めていた鳥達も、危機を察知したかの様に、一斉に朝焼けの空に飛び立っていく。
「何事じゃ!」
異常な事態の発生に、神官長は焦りの色を露わに外に飛び出した。しかし、その老人の後姿を見遣るアルリムの瞳は、何かを思い出したように一瞬見開かれると、すぐにその琥珀色の輝きに憂いの色を映して伏せられた。
「父様・・・? 何が起きたのです?」
老人の叫び声で目を覚ましたのか、奥の戸をゆっくりと開けて姿を見せたのは、まだ起き切らぬ瞼をこすりながら欠伸を噛み殺したリルイールであった。息子の声に、アルリムは穏やかな微笑みを湛えて振り返ると、少年の前に屈みこみ、その小さな肩にそっと両手を添えた。
「大した事ではないよ。爺様と父様で片付けてくるから、お前はファリエルの傍についていておやり」
穏やかに息子に言い含めると、アルリムは颯爽と立ち上がり、扉へと向かった。そこで彼は一度足を止めると、扉の上の壁に飾られた、美しい装飾の施される長剣を手に取った。
強い決意を纏い長剣を手にしたアルリムの後姿に、リルイールの脳裏に、かつて父に従って剣術の稽古を始めた数年前、家の守りのように飾られた美しい長剣について父から聞いた話が蘇った。
柄頭にエンリール神の紋章が彫り込まれた白刃の剣は、伝説に語られる神の御代、エン・リシュメイルが地上に遣わされる際にエンリール神より賜った剣であると言われ、代々の神皇に受け継がれてきた神剣である。リシュメイル皇家最後の神皇となったエン・キナムは、公子達を逃がす際その神剣に特殊な術と彼の神力の一部を封印し、第一公子アルリムにその剣を託した。
リシュメイルの血筋を守るための術を封じられたその神剣は、以来、リシュメイルの血脈の危機に備えて、彼らの住居の扉の上に飾られているのだと-----。
「-----父様! 待ってください!」
リルイールは咄嗟に声を上げてアルリムの後を追いかけようとするが、アルリムは手にした長剣を鞘から抜き去ると、その切っ先を床に向けて真っ直ぐに振り下ろし、息子と自分の間を阻むかの様にその白刃を扉の境界に突き立て、高らかに叫んだ。
「父なるエンリール、母なるニンリール。天に還りし、総ての皇子よ。地に在るリシュメイルの皇子を、迫る闇より隠し、守り給え!」
アルリムの言葉に呼応するように、床に突き立てられた剣からは強い光が発せられ、室内の空気を眩い光で包み込んでいった。
リルイールは、その光の強さに思わずギュッと目を瞑った。そして数秒の後、恐る恐る開いた彼の視界に映ったのは、いつもと変わらぬダイニングルームの景色でありながら、窓や扉といった外界とつながる物を一切失った、奇妙な室内の風景であった。本来入口があるべき場所の壁際には、彼の父が深々と突き立てた剣があるばかりで、肝心の父の姿はどこにも見当たらない。
「・・・・・父様?」
不安の色を瞳に浮かべながらリルイールは室内を見渡すが、彼の求めるものはどこにも無く、リルイールの表情は言い表しようのない恐れに、一層陰りを見せ始める。
「父様-----!!」
彼の必死の叫びに答える者は誰もなく、静まり返った木の壁に、少年の声が無情に跳ね返り室内に響き渡るばかりであった。




