1 神つ者の終焉
占星暦264年。北方部族のギルシュ族から3度の侵略を受けたエンリール皇国は、北の領土を大きく減らすという皇国史上初の敗戦を歴史に刻むこととなった。
その年の冬、もうすぐ新年を迎えようとする年の瀬。エンリール皇国の神皇エン・キナムは、陽が沈んだばかりの薄闇に包まれる王宮の奥深くに、自らの幼い3人の子と、若き忠臣 ウル・メシリムを密かに呼び集めた。高位の神官や限られた貴族だけが立ち入ることを許される王宮の神域となる区画。石造りの壁に控えめに灯された松明の炎が、そこにいる者達の影を冷え切った石壁にぼんやりと照らし出す中、5つの人影は重苦しい沈黙を漂わせつつ遥か上の天井に祀られたエンリール神の紋章を見つめていた。
やがて、意を決したように神皇エン・キナムは見上げていた視線を下ろし、傍らに控える忠臣へとその黄金色の瞳を向けた。
「メシリムよ、そなたは祖父の代より良く皇家に仕えてくれた。支配の神力を持たぬ私が神皇として即位した後も、それまでと変わらぬ忠義を持って、本当に良く私を支えてくれた」
「滅相もございません。私の一族はリシュメイル皇家より 騎士の称号を賜りましたその時より、代々その名を受け継ぎ、エンリール神とその眷族である皇家に忠誠を誓ってまいりました。忠孝を尽くすは、「ウル」の銘を持つ者として当然の事でございます」
薄闇の先から自分を見つめる神皇の穏やかな眼差しに、メシリムは即座に片膝を地につけると深々と頭を垂れた。その家臣の様子にエン・キナムは満足そうに瞳を細めると、一段と声音を潜め続く言葉を紡いだ。
「今日、其方をこの場に呼び出したのは他でもない。其方のその深き忠をもって、このリシュメイル皇家への最後の孝を果たして貰いたいと思ってな・・・」
「エン・キナム皇! 最後・・・とは!?」
神皇の口から発せられた信じがたい言葉に、メシリムは低頭していた面を勢いよく振り上げた。しかし言葉を発した神皇の眼差しは、憂いを含んだ色を見せながら再び天井に刻まれた紋章に向けられており、メシリムの視線に交わったのは彼同様に不安の表情をのぞかせる3人の幼い公子の瞳だけであった。
実際の時にしてはほんの数秒。しかしその場にいる物達には、やけに長く感じられる沈黙がその場を支配した時。パチリと松明の爆ぜる音が空間に響き渡り、それに意識を戻されたかのように、神皇エン・キナムは再び語り始める。
「代々の神皇が支配の神力を持っていたこれまでは、周辺諸国をその絶大なる支配力で牽制しエンリール皇国に平和がもたらされてきた。しかし私が持って生まれた調和の神力は交易を望む都市国家相手には有効であっても、侵略を目論む北方部族には抑止力とはならなかった。私の神力が非力なばかりに、エンリール北方の民達には多くの命を失わせてしまい、国の為に戦う兵達にもまた多くの犠牲を出してしまった・・・。神の皇子の名が、聞いて呆れる・・・」
よどみなく語るしっかりとしたその口調とは裏腹に、神皇の黄金色の瞳は悲しげに伏せられた。閉じられた瞼の端には涙こそ見えないが、その表情は深い悲しみを湛えて父なる神エンリールに許しを請うているように感じられ、メシリムは息をのんで神皇の姿を見つめる事しか出来なかった。
息苦しさを覚えるような静寂がその場を暫し包み込むと、その緊張に耐えかねたのであろう末の皇女が、冷え切った石畳をおぼつかない足取りで父の傍に歩み寄った。まだ言葉も少ない幼い少女は、父の悲しみに感応するように瞳を潤ませながら父皇の衣の裾を握り締める。その小さな手のひらが呼び起こした衝動にエン・キナムはゆっくりと瞼を上げると、自身の足元に縋り付く幼子をふわりと抱き上げ愛しげにその腕の中に抱え込んだ。
抱き上げられたことで、父と間近に目線を交わせるようになった少女は嬉しそうに微笑み、その小さな手を目一杯伸ばして父の頬に触れた。それから、その存在を確かめるかのように何度もその頬を叩いてみせる。娘の無邪気な行動に、エン・キナムは僅かに頬と目元を緩めると、一人の父としての温かな表情を整った顔立ちに浮かべた。その父の様子に残る2人の皇子達も彼の傍に駆け寄り、縋る様にその足元にすり寄った。
慈愛に満ちた4人の姿は、冷え切った石室の空気にすら温もり感じさせるかの様に神々しく、それはまさに一枚の宗教画の様にメシリムの瞳に映り込む。彼の心の奥深く、魂の深淵に暖かい光を呼び起こすような親子の佇まいに、メシリムは目の前の存在が確かに神の眷族であるのだと実感せずにはいられなかった。
「神つ者を感じるは、人の魂。天に不信抱く心は魂を曇らす。神つ者を感じられぬ人にとっては、神皇もまた只の人」
暖かい光景に暫し心奪われていたメシリムの耳に、一切の感情を持たぬ響きを持った少年の凛とした声が、不意に飛び込んできた。まだ幼い第一皇子の口から発せられたその言葉は、5歳になったばかりの子供が語るには不自然なまでに重苦しく、メシリムはその言い表しようのない違和感に寒気を覚えた。
「ア、アルリム様? 何を・・・」
嫌な緊張で渇き切った咽をやっとの思いで動かして、第一皇子の名を呼んだメシリムの声を遮る様に、少年は変わらぬ声音で言葉を続ける。
「民の心は武無き神皇から離れ、宰ある卿へと希望を見る。神皇が隠された後、時は満ちる。神の国は果て、人の世へと移り行く・・・エンリールが国として再生する、その一歩が始まる」
続けて皇子の口からこぼれた言葉に、メシリムは顔色を青ざめると短く息を詰まらせた。その言葉が示す意味は、神皇の死とエンリール皇国の終焉であった。
不吉な未来を語る皇子の声を耳にする間、メシリムの脳裏には数年前に神皇の口から聞いた第一皇子の話が蘇っていた。
彼の目前で、焦点の定まらぬ瞳でどこか先の世を見ているかの様な視線を宙に投げかけ、無表情に言葉を紡ぐ皇子が持って生まれた力は「宣託の神力」であると。愛おしげな微笑みを浮かべながら彼に教えてくれたのは、今まさに息子によって死を予言された神皇エン・キナムその人であった。
色を失った表情のまま、錆びついたカラクリの様な鈍い動きで、メシリムは少年の姿から、その傍らに寄り添う神皇の穏やかな面へと視線を移した。
それを受けた神皇は、深く息を吸い込むと淡々と言葉を紡ぎ出す。
「今朝早く。内務卿ラガシュの命により、彼の嫡子ナトゥムが配下の一団を率いて、北方領土へと向かった。大陸諸国をめぐり、武を磨いてきたナトゥムの力をもってすれば、北方の民達は無事、安寧を取り戻すことができるであろう。ギルシュ族の制圧に成功すれば、ナトゥムは一躍英雄となる。民は彼の功績を湛え、そこに新たなる希望を見るだろう。内務卿ラガシュはその時を待って、私を亡き者とする策略を企てているそうだ」
「そ、それは・・・確かな話なのでございますか? ラガシュ卿が神皇の御命をねらうなど・・・」
「策略に関わる神官の一人より、この話を聞いた。彼はラガシュの行いを何とか止めようと、私に計画の全てを打ち明ける決心をしてくれたのだ。しかし・・・アルリムの宣託を知る私はそれを聞いて、「その時」が来るのだと感たのだ。神皇が人の手にこの国の未来を委ね、天へと還る時がーーー。だからこそ私は、ラガシュの策に関しても全て受け入れる覚悟はできている」
「ーーーーーエン・キナム皇の御心は、もう・・・揺らぐ事は無いのでございますね」
自らの命の終幕を語る神皇の、凪いだ海の様な穏やかな雰囲気に、メシリムはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「神皇としての心に、迷いはない。だが、この子らには先の世まで生きて欲しいと願う親心は捨てられぬ。私の死後、ラガシュがリシュメイル皇家の血筋を全て絶とうと考えぬとも限らぬ。だからこそ、ウル・メシリム。外務官として活動し、諸国への人脈も厚い其方に、この子らの先を託したいのだ。私からの最後の命を、引き受けては貰えぬだろうか?」
無言のまま、哀惜の表情で彼を見つめるメシリムの濃紺色の瞳と、エン・キナムの深く澄んだ黄金の眼差しが、静かに交わる。僅かな沈黙が彼らを包む中、夜更けの始まりを伝えるように、石造りの神域の温度は一際寒さを増して感じられた。
やがて、メシリムは小さく息を吐き出した後、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから、哀しみに揺れる濃紺の瞳を強い決意を表す光で塗りかえると、神皇の最後の命への応を返した。
「エン・キナム皇よりの勅命。このウル・メシリム、確かに承りました。我が存在の全てをかけて、皇子様方の御命をお預かりさせて頂きます」
凛とした忠臣の答えに、エン・キナムは陽だまりように穏やかな微笑みを満面に湛えると、メシリムと目線を揃えるように冷たい石畳に膝をついた。そして、彫刻の様に美しく整った指先を優雅な仕草で伸ばし、彼の膝の上で固く握られている拳をそっと包み込んだ。
「始祖リシュメイルの時代から変わらぬ、我ら一族の心。神皇の魂は、いついかなる時もエンリールの民と共にある。私の魂もこの先ずっと、其方ら、エンリールの民の傍にある・・・。この国の未来をーーーーーしっかりと生き抜くのだよ、メシリム」
「エン・キナム皇・・・」
「外務卿である其方の父と、子供たちの侍女には話を通してある。今宵のうちに支度を整え、急ぎ出発するのだ。明日からは、北方部族討伐の会議など、内務卿であるラガシュは常に皇宮に詰めるようになる。その前に、ここを離れねばならぬ」
メシリムの手に添えられたエン・キナムの指に、微かな力が込められる。
「承知いたしました。それでは1時間の内に準備を整えまして、公子様方のお部屋にお迎えに上がります。それまでに出立の支度を整えるよう、侍女にお伝えください」
「ありがとう、メシリム。頼んだよ・・・」
神皇としてではなく、一人の父として彼に感謝の意を示したエン・キナムに対し、メシリムは深く一礼を返すと、颯爽と立ち上がり神域を後にした。
「さて。お前たちも部屋に戻り、旅の支度をなさい。アルリム、弟達を頼んだよ。メシリムの言う事をよく聞いて、しっかりとね・・・」
膝をついていた石畳から立ち上がると、エン・キナムは子供たちの背を押して歩き出した。
「父上」
「ん? 何だい、アルリム」
幼い皇女を腕に抱えたままのエン・キナムは、彼の傍らに並んで歩く小さな第一皇子を見下ろした。
「またいつか、お会いしましょう。僕が、父上と同じ位・・・大人になった頃にでも」
「-----! そうだね、楽しみにしているよ」
朗らかな笑みを向けて父に明るい声を向けた少年の言葉に、エン・キナムは僅かな驚きで瞳を見開いた。しかしすぐに温かな微笑みを返すと、神域から皇宮へと続く回廊へと足を進めた。
その深夜。皇宮のほとんどの者が眠りについた暗い闇のなかで、ウル・メシリムに導かれた3つの小さな影は、ひっそりと首都キッシュを後にした。
翌、占星暦265年。新年を迎えると共に北方部族の制圧を成し遂げたナトゥムの凱旋を機に、彼の父である内務卿ラガシュの民衆への影響力は飛躍的に上昇した。さらに、周到に用意されたラガシュの計画により扇動された民の心は、神皇の元を離れ、新たに現れた英雄の一族へと移り行く。
斯くして、降り続く雪が国土の全てを純白に覆い尽くす、二の月の初め。ラガシュの策により、神皇エン・キナムは弑逆され、永きに渡りエンリールを統治してきたリシュメイル皇家の時代は幕を閉じた。
そしてここに、ラガシュを新たな王とする都市国家。エンリール王国ラガシュ朝が、新たな時代を歩み始める。




