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第8話

石畳を打つ蹄の乾いた響きと、金槌が鉄を叩く甲高い金属音が、朝の冷たい空気を震わせていた。


王都の東側に広がる職人街。煙突から吐き出される灰色の煙が幾筋も立ち上り、油と煤の混じり合った独特の匂いが鼻先をかすめる。二日後に控えた近衛騎士団の合同査閲を前に、仕立て直しや刃の調整を求める貴族の馬車が通りを埋め尽くしていた。


私の半歩後ろを歩くフロレンツは、周囲のざわめきに気圧されたのか、わずかに肩を強張らせていた。だがその右手は、腰に佩いた愛剣の鞘へと静かに添えられている。


「緊張しているの、フロレンツ」


歩幅を緩めずに声をかけると、弟は背筋をぴんと伸ばした。


「……少しな。だが、怯えているわけじゃない。屋敷を出る前、姉上に誓ったからな。みっともない真似をして、姉上の名誉に泥を塗るわけにはいかない」


青い瞳に宿る光は真摯で、以前のような落ち着きのない濁りは微塵もない。己の弱さを認め、使用人たちへ頭を下げたあの日の経験が、この少年の芯を確実に作り変えつつあった。


「その心構えは結構よ。けれど、覚えておきなさい。屋敷の内側で得た信頼と、外の世界で向けられる視線はまるで別物よ。あなたの足元をすくい、元の泥沼へ引きずり戻そうとする手は、至るところに潜んでいるわ」


「分かっている。誰に何を言われようと、もう軽はずみに手は出さない」


フロレンツの引き締まった横顔を見やり、私は小さく息を呑み込んだ。教育の成果を信じたい気持ちと、それでもなお見落としがあるのではないかという冷徹な計算が、胸の内でせめぎ合う。手綱を緩めるわけにはいかない。三年後の断頭台を回避するまで、私に油断という選択肢は許されていないのだから。


目指す鍛冶工房は、通りを一本入った角地にあった。頑固一徹で知られる老鍛冶職人の店だ。屋敷の鍛冶職人であるヨルクの師匠にあたる人物が営んでいる。


しかし、工房の引き戸をくぐる前に、行く手を遮るように数人の人影が立ちはだかった。


「やあ、これは奇遇だね。伯爵家の問題児フロレンツ君じゃないか。こんな掃き溜めのような場所で何をしているんだい?」


粘りつくような声とともに現れたのは、金髪を撫で付けた少年だった。上質なビロードの外套をまとい、薄い唇に嘲弄の笑みを浮かべている。ローレンツだ。背後には、いかにも取り巻きといった風情の貴族子弟を二人従えている。


フロレンツの足がぴたりと止まった。その呼吸が一瞬、詰まるのを私は見逃さなかった。


「……ローレンツ」


「なんだい、その無愛想な挨拶は。以前はあんなに僕の機嫌を窺っていたくせに。ああ、そうか。近頃はすっかり姉上の腰巾着に成り下がったと噂されていたけれど、本当だったんだね。女の指図を受けなければ、表を歩くこともできないのかい?」


取り巻きたちが下品な笑い声を立てる。露骨な侮辱だった。かつてのフロレンツであれば、額に青筋を立てて即座に剣の柄に手を伸ばし、抜刀していただろう。事実、弟の拳は微かに震え、奥歯を噛み締める音が私の耳にも届いた。


私は弟の背に、氷のように冷たく、それでいて静かな視線を据えた。何も言わず、ただその双眸を背後から射抜く。


――ここで暴発すれば、すべてが水泡に帰す。試されているのよ、フロレンツ。


弟は私の視線を受け止めたように、すっと目を細めた。そして、深く息を吐き出すと、強く握りしめていた拳をゆっくりと開いた。


その反応が予想外だったのか、ローレンツはわずかに眉を寄せ、苛立ちを隠すように工房の店先へ歩み寄った。陳列棚に置かれていた仕立て上がりの長剣を、手袋越しに乱暴に掴み上げる。


「おい、鍛冶屋! こんな鈍らばかり並べて、よく商売が成り立つものだな」


「何だと、小僧!」


工房の奥から、煤まみれの革前掛けをつけた筋骨隆々の老人が飛び出してきた。白髪交じりの太い眉を吊り上げ、燃え盛るような眼光でローレンツを睨みつける。店主の老職人だ。


「我が工房の刃を愚弄するなら、たとえ貴族の若造だろうと叩き出すぞ!」


「口答えをするな、賎民が」


ローレンツは冷ややかに言い放つと、あろうことか手にした長剣を石畳の地面へと放り投げた。乾いた金属音が響き、美しい刀身が無残に跳ねる。さらにローレンツは、その刃先を革靴の先で小突いてみせた。


老職人の顔が怒りで真っ赤に染まる。職人街の通りを歩いていた買い物客や他の職人たちも足を止め、不穏な空気を察して遠巻きにざわめき始めた。


ローレンツは周囲の注目を集めたことに満足したように、取り巻きの少年に目配せをした。少年が布に包まれた一振りの剣を差し出す。


「フロレンツ君、合同査閲を控えた君に、友として特別な贈り物を用意してあげたんだ。名門の鍛冶師に打たせた特注品だよ。君が腰に下げているような安物や、この老いぼれのガラクタとは出来が違う。これを次の査閲で使い給え。僕の好意を無下にはしないだろう?」


差し出された白銀の拵えを持つ剣。一見すれば見事な装飾が施された業物に見える。


だが、鞘と柄の釣り合いがおかしい。刃に対して柄頭の真鍮飾りが異様に分厚いのだ。


フロレンツを公衆の面前で激昂させて刃傷沙汰を起こさせるか、あるいは細工を施した粗悪な剣を押し付けて査閲の場で無様な失態を晒させるか。どちらに転んでも弟を破滅させる、悪辣な二重の罠だった。


フロレンツはローレンツの差し出した剣を一瞥した。


怒りを露わにするでもなく、怯むでもない。弟はすっと身を翻すと、まず石畳の上に転がされていた老職人の長剣の元へと歩み寄った。


そして、膝を折り、両手で丁寧にその刃を拾い上げた。埃を払い、自らの外套の端で汚れを優しく拭い取ると、仁王立ちで震える老職人の前へと進み出る。


「……粗暴な真似を見過ごし、刃を辱めさせてしまった。同じ武を志す者として、心から非礼を詫びます」


フロレンツは腰を深々と折り、老鍛冶職人に向かって頭を下げた。一分の淀みもない、凛とした謝罪だった。


老職人は目を丸くし、太い眉をわなわなと震わせた。貴族の少年が、煤けた町の鍛冶屋に対してこれほど真っ直ぐに頭を下げる光景など、この職人街でも誰も見たことがなかったはずだ。遠巻きに見ていた人々から、どよめきが漏れる。


顔を上げたフロレンツは、身構える老職人へ長剣を両手で手渡すと、初めてローレンツと正面から向き合った。


「君の贈り物は、受け取れない」


「……何だと? 僕の厚意を拒絶する気か? 相変わらず礼儀を知らない男だな!」


声を荒らげるローレンツに対し、フロレンツは至って静かだった。全身の力を抜き、ただ相手の急所と間合いを見極めるような、澄んだ視線を据えている。私が叩き込んだ、余分な力みのない立ち姿だ。


「厚意だと仰るなら、なおさら受け取るわけにはいかない。その剣、柄頭の飾りに過剰な鉛が仕込まれているな」


フロレンツの淡々とした指摘に、ローレンツの眉がぴくりと跳ねた。


「な、何を根拠のない言いがかりを――」


「根拠なら、見ただけで分かる。重心が極端に手元へ寄りすぎている。鍔元から指三本分の位置で支えれば、切っ先が軽すぎてまともに刃が立たないはずだ。素人が持てば一瞬軽く感じるだろうが、打ち合いになれば手首に不自然な負荷がかかり、数合も交えぬうちに握力を失うか、刀身が根本から折れる。……そんな欠陥品を、査閲という命がけの場で使わせようというのか?」


「ば、馬鹿を言うな! 適当な出まかせを並べ立てて僕を侮辱する気か!」


ローレンツの顔から急速に血の気が引いていく。取り巻きたちも狼狽し、視線を泳がせた。


「出まかせかどうか、試してみればいい」


フロレンツの言葉を受け、それまで押し黙っていた老職人が一歩前に踏み出した。太い腕を伸ばし、ローレンツの取り巻きが抱えていた剣を強引に奪い取る。


「よこせ!」


老職人は鞘を払い、抜き放った剣身を指先一本で支えた。柄頭をじっと観察し、鼻を鳴らす。


「……へっ、坊主の言う通りだ。真鍮の飾りの中に鉛の粉がぎっしり詰まってやがる。刀身の焼き入れも甘く、叩けば一発でへし折れる屑鉄だ。こんな細工を施した業物を誂えさせて、人の工房の前で押し付けようたぁ、いい度胸じゃねえか、若旦那」


老職人の野太い声が通りに響き渡った瞬間、周囲の空気は完全に一変した。


「なんて卑怯な真似を……」

「わざと重心を狂わせた剣を押し付けようとしたのか」

「名門の次男坊が、鍛冶屋の前で恥も外聞もなく小細工とはな」


集まった職人や通行人たちから、冷ややかな視線と侮蔑の囁きが容赦なく降り注ぐ。かつてフロレンツに向けられていた嘲笑が、今や鏡のようにローレンツ自身へと跳ね返っていた。


「くっ……! 覚えていろよ、フロレンツ! 査閲の場で恥をかくのは貴様の方だ!」


耐えきれなくなったローレンツは、真っ赤に染まった顔を歪め、吐き捨てるように踵を返した。取り巻きを引き連れ、逃げるように人混みの向こうへと消えていく。


背後に残されたのは、悪友の挑発を完璧にいなし、堂々と佇むフロレンツの姿だけだった。


「……ふん。見直したぞ、坊主」


老職人が手にした屑鉄の剣を足元に放り捨て、腕を組んだ。その口元には、先刻までの怒気はなく、どこか試すような笑みが浮かんでいる。


「うちの弟子だったヨルクから話は聞いていた。屋敷でただ力任せに剣を振り回すだけの青二才だと思っていたがな。道具への礼も、重心の狂いを見抜く目も、大したもんだ。……お前のその愛剣、見せてみろ」


フロレンツは躊躇うことなく、腰の帯剣を外して老職人へと差し出した。


老職人は鞘からわずかに刃を滑らせ、光に透かして刃筋を確かめると、満足げに喉を鳴らした。


「大切に手入れされてやがる。よし、工房の奥へ入れ。合同査閲までに、わしの手で最高の刃をつけて研ぎ直してやるよ」


「ありがとうございます、親方」


フロレンツは晴れやかな表情で深く頭を下げた。老職人は短く頷き、弟の愛剣を両手で抱えて奥の作業場へと入っていく。


その光景を見届けながら、私は内心で胸を撫で下ろしていた。ローレンツの罠を打ち破り、外の世界で確かな第一歩を踏み出した。だが、私の警戒心が解けることはなかった。


工房での手配を終え、職人街の喧騒を離れて裏通りへと抜ける。石造りの階段を上り、王都を一望できる見晴らし台の広場に出たときだった。


風が冷ややかに吹き抜ける中、背後から向けられている異様な視線に、私の肌が粟立った。


悪友たちの下劣な敵意とは違う。刃のように研ぎ澄まされ、一切の感情を排した、冷徹な観察者の眼差し。


私はさりげなく歩みを止め、振り返ることなく視界の端で背後の雑踏を捉えた。


見晴らし台の回廊の陰。そこに、人混みに溶け込みながらも異質な気配を放つ一人の男が立っていた。


長身の体に、仕立ての良い暗色の外套。隙のない立ち居振る舞いと、すべてを見通すかのような鋭利な銀灰色の瞳。近衛騎士団の頂点に立つ男――オスヴァルトだった。


(……なぜ、騎士団長がこんな場所に?)


彼がいつから私たちの後をつけていたのかは分からない。だが、その冷厳な視線は、先ほどまでローレンツと対峙していたフロレンツの背中、そして私自身へと注がれていた。


かつて王都で悪評を撒き散らしていた問題児の豹変。そして、その背後で静かに手綱を握る、目立たないはずの伯爵令嬢。


オスヴァルトの銀灰色の瞳には、明らかな疑念と、底知れぬ関心の光が宿っていた。彼はやがて、背後に控えていた部下へと低く耳打ちをし、何かを命じているようだった。


実家の内情を探らせる気なのだろうか。それとも、私の思惑を疑っているのか。


そして何より、ローレンツが去り際に吐き捨てた言葉が引っかかっていた。


――『査閲の場で恥をかくのは貴様の方だ』


ただの負け惜しみにしては、その声音には異様な確信が混じっていた。合同査閲の対戦相手や選考の手順は、騎士団の規律によって厳格に伏せられているはずだ。それにもかかわらず、なぜローレンツは査閲の場での失脚を予告できたのか。


王都の空を見上げると、いつの間にか重苦しい灰色の雲が広がり始めていた。


悪友の小細工を退けた安堵など、一瞬で吹き飛んでいた。近衛騎士団長の冷徹な監視。そして、査閲の裏で蠢く、より深く巨大な策謀の影。


「姉上? どうかされましたか」


振り返ったフロレンツが、不思議そうに私を見つめていた。その澄んだ青い瞳に、私は努めて穏やかな笑みを返すことしかできなかった。


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