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第7話

「本気なのね、フロレンツ」


私の問いに、弟は顎を引いて力強く頷いた。


「ああ。姉上、俺に場を用意してほしい」


躊躇いのない澄んだ声だった。かつて苛立ちのままに八つ当たりを繰り返していた少年の面影は、その引き締まった立ち姿のどこにも見当たらない。私は静かに息を整え、踵を返した。



正午少し前、伯爵邸の大広間には異様な緊張感が満ちていた。


整列した使用人たちは押し黙っていた。先代から仕える老執事ですら、落ち着かない様子で白手袋の指先を擦り合わせている。


突然の大広間への召集に、彼らの表情は一様に硬い。無理もなかった。ほんの数日前まで、この部屋はフロレンツが機嫌を損ねて銀器を投げつけ、あるいは理不尽な怒声を響かせる嵐の震源地だったのだから。


列の先頭に立つフリーダの背中が、わずかに震えているのが見えた。私が視線を送ると、彼女はすがるように微かな会釈を返してきた。何を言われるのか、誰が標的にされるのか。怯えと警戒が、冷たい空気となって広間に淀んでいる。


その静寂を裂いたのは、正面の重い両開き扉が開く鈍い音だった。


入ってきたのはフロレンツ一人だった。正装用の濃紺の上着を隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばして進み出てくる。歩調には乱れがなく、靴底が床を叩く澄んだ足音だけが、高い天井へと吸い込まれていく。


広間の中央、全使用人が見上げる位置で、フロレンツは足を止めた。


ざわり、と息を呑む気配が広がる。誰もが身構え、視線を伏せようとしたその瞬間だった。


フロレンツは、両手を体の脇にぴたりと添えると、腰を深く折った。


直角すら超えるほどの深々とした礼。金色の前髪が重力に引かれて垂れ下がり、その顔は完全に床へ向けられている。


「――みんな、急な召集に応じてくれて感謝する」


低く、よく通る声が大広間に響いた。震えはない。だが、そこには今まで誰も聞いたことのない真摯な響きが宿っていた。


「俺は今日、ここにいる全員に、心から詫びなければならないことがある」


広間が完全に静まり返った。針の一本が落ちても聞こえるほどの静寂の中、フロレンツは頭を下げたまま言葉を紡ぎ続ける。


「俺はこれまで、自らの未熟さと焦りに任せ、お前たちに数々の無礼と横暴を働いてきた。思い通りにいかなければ怒鳴り散らし、手入れの行き届いた道具を足蹴にし、身の回りを整えてくれるお前たちの労苦を、当たり前のものとして踏みにじってきた」


誰かが短く息を吸い込む音がした。


「お前たちが日々、誇りを持ってこの屋敷を支えてくれていたからこそ、俺は不自由なく剣を握ることができていた。その恩義に気づきもせず、己の弱さを棚に上げて当たり散らしていた己の浅ましさを、心底恥じている」


フロレンツはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳には、一点の曇りもなかった。逃げも言い訳もない、自らの犯した罪と正面から対峙する男の瞳だった。


「怪我をさせた者、心ない暴言で深く傷つけた者、そのすべてに償いができるとは思っていない。だが、俺は変わると誓う。これからは伯爵家の名を継ぐ者として、お前たちの働きに敬意を払い、決して理不尽な暴力を振るわない。どうか……これまでの俺の愚行を、許してほしい」


言い終えると同時に、フロレンツは再び深く頭を下げた。


沈黙が落ちた。


誰も声を発することができなかった。ただ呆然と、目の前で頭を垂れ続ける領主の跡取り息子を見つめている。それは彼らが知る「若様」とはあまりにかけ離れた姿だった。


張り詰めた糸を切ったのは、小さな嗚咽だった。


列の先頭にいたフリーダが、たまらず両手で口元を覆っていた。その大きな瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ち、白いエプロンを濡らしていく。彼女だけではなかった。長年フロレンツの暴虐に耐え兼ねていた初老の料理長が、袖口で目元を乱暴に拭い、隣の庭師が肩を震わせている。


「……若様」


フリーダが震える声で一歩、前に踏み出した。


「頭をお上げくださいませ。私たちは……私たちは決して、若様をお見捨てしたことなどございません」


その言葉を皮切りに、広間の空気が一変した。恐怖の色は跡形もなく消え去り、安堵と、胸を突く感動が波のように広がっていく。使用人たち全員が一斉に膝を折り、頭を垂れ直した。それは命令による服従ではなく、敬意に対する敬意の返礼だった。


「若様……よくぞ、申されましたな」


老執事が感極まったように震える声を漏らした。その傍らでは、いつの間にか様子を見に来ていた父ディートリヒが、上等な絹のハンカチで顔中を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れている。


「おお、我が息子が……なんと誇らしい……! クラウディア、見たか、フロレンツが……!」


感動のあまり取り乱して駆け寄ろうとする父を、私は冷徹な視線だけで制した。今は無分別な親の甘言で場を濁すときではない。父は私の眼差しに気圧され、ぴたりと足を止めてハンカチを噛んだ。


フロレンツは父に一礼すると、踵を返した。


そして、広間の一角に静かに佇んでいた私の前へと、迷いのない足取りで歩み寄ってきた。


カツン、と乾いた音がした。


フロレンツが私の足元に、厳かに片膝を突いたのだ。周囲の使用人たちが息を呑む中、弟は腰に佩いていた帯剣を鞘ごと外した。


磨き抜かれた銀の鍔、傷一つない黒革の鞘。彼が今朝、職人ヨルクの教えを受けて自らの手で丁寧に手入れを終えたばかりの愛剣だ。フロレンツはその剣を両手に載せ、頭上高く掲げた。


「姉上」


見上げる青い瞳に、揺るぎない覚悟が灯っていた。


「俺の目を塞いでいた傲慢を打ち砕き、人の痛みを教えてくれたのは姉上です。姉上がいなければ、俺は今も暗闇の中で他者を傷つけ、いずれ身の破滅を招いていたでしょう」


広間の全視線が、私とフロレンツの間に注がれていた。私は背筋を伸ばし、感情を交えずに弟の言葉をただ受け止める。


「この剣は、かつて己の我欲と虚栄心を満たすためだけに振り回していた愚かな刃でした。ですが今、この瞬間より、この命と剣のすべてを姉上に捧げます」


フロレンツの声は、大広間の隅々にまで透徹して響き渡った。


「俺は、姉上の名誉を汚すあらゆる理不尽から姉上を守り抜く、気高き騎士となります。生涯、姉上の正義の盾となり、姉上の指し示す道へと剣を振るうことを――ここに誓います」


少年の純粋な誓約。だがそれは、前世の記憶にある「破滅の断罪劇」を完全に覆す、決定的な転換の響きを持っていた。


私は弟の手にある帯剣を一瞥し、それから彼の肩へと静かに右手を置いた。


布地越しに伝わってくる体温は、以前のような焦燥による熱ではなく、静かに研ぎ澄まされた力強さに満ちていた。私はアメジスト色の瞳を眇め、優雅に、しかし芯の通った声で告げる。


「その誓い、確かに預かりました。……立ちなさい、フロレンツ」


「はい」


「私に捧げたその剣を、二度と己の弱さのために曇らせてはなりません。他者を慈しみ、誇りを胸に抱く、真の騎士として歩みなさい」


「御意に」


立ち上がったフロレンツの表情には、一人の自立した青年としての凛々しさが宿っていた。大広間に、誰からともなく拍手が湧き起こる。老執事が涙を拭い、フリーダが微笑み、使用人たちの温かな喝采が、かつて冷え切っていた屋敷の空気を完全に塗り替えていった。



夕刻、執務室の窓からは柔らかな茜色の光が差し込んでいた。


私は机に向かい、革表紙の手帳を開いた。細身の万年筆にインクを吸わせ、几帳面な筆致で並ぶ項目の一角を見やる。


『家庭内教育:使用人への謝罪と敬意の確立、主従の誓約』


文字の上にペン先を滑らせ、静かに横線を引いて達成の印を刻み込む。


(これで、屋敷の中の憂いは完全に断ち切れたわね)


前世の記憶を思い出したあの日、目の前に広がっていたのは、弟の暴挙によって断頭台へと続く暗い未来だった。だが、わずか数日で悪癖を一つずつ削ぎ落とし、心理的な誘導と実践によって弟を導いてきた。その試みは、最初の大きな実を結んだのだ。


コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「クラウディアお嬢様、お茶をお持ちいたしました」


「入ってちょうだい」


フリーダは銀の盆から湯気立つハーブティーを机に静かに置き、一歩下がって端正なカーテシーをとった。その目元には、まだわずかに赤みが残っている。


「お嬢様、本日は……本当にありがとうございました」


「私が礼を言われる筋合いはないわ、フリーダ。謝罪を決めたのも、言葉を選んだのも、すべてフロレンツ自身の意志よ」


「いいえ」フリーダは首を横に振った。「若様をあの境地まで導いてくださったのは、お嬢様の厳しくも温かいお導きです。私たち使用人は皆、お嬢様にどれほど感謝しているか知れません。これからも、命を代えてもお嬢様と若様にお仕えいたします」


真っ直ぐな忠誠を宿した眼差しに、私は小さく微笑み返した。


「ありがとう。あなたのその言葉が、何よりの支えよ」


フリーダが嬉しそうに目元を緩め、一礼して部屋を出て行こうとしたとき、入れ違いに老執事が扉の前に姿を現した。


執事は居住まいを正すと、銀の小盆に載せられた一通の書状を私へと差し出した。上質な羊皮紙を封じるのは、深紅の蝋に刻まれた王家の紋章――近衛騎士団の封蝋だった。


「王都より、早馬にて書状が届きました。クラウディアお嬢様、ならびにフロレンツ様宛てでございます」


「近衛騎士団から……」


私は受け取った封筒の重みを確かめ、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。中に収められていたのは、王都の近衛騎士団が主催する、各家の子弟を対象とした合同査閲の案内状だった。


『――来たる新緑の候、王都近衛騎士団宿舎において、出仕予定者たる騎士見習いの力量を測る合同査閲を執り行う。各家の子弟は遅滞なく参集されたし』


案内状の末尾には、厳しい規律で知られる騎士団長オスヴァルトの署名が記されていた。


これは三年後に出仕を控えた候補者たちの資質をあらかじめ見極める、予備の審査だ。


「合同査閲……いよいよ、外の世界へ乗り出すときが来たのね」


独り言ちた私の脳裏に、苦い記憶がよぎる。


かつてフロレンツを堕落させ、甘い罠へと引きずり込もうとした悪友ローレンツ。彼をはじめとする王都の貴族子弟たちもまた、この査閲の場に集うはずだ。屋敷という守られた殻を破り、外の世界へと踏み出した先には、弟の足を引っ張ろうとする悪意が幾重にも張り巡らされている。


だが、以前のような焦りや恐怖は、私の胸のどこにもなかった。


手帳に挟まれたペンを静かに置き、温かなハーブティーを口に含む。爽やかなハーブの香りが、穏やかに鼻腔を抜けていった。


フロレンツはもう、他者の煽りに激昂して我を忘れるような愚か者ではない。泥を被り、人の痛みに頭を下げ、自らの剣の意味を見出した誇り高き少年だ。


「試すがいいわ。どのような罠を張ろうと、今のあの子が挫けることなどない」


夕闇がゆっくりと部屋を包み込んでいく中、私は静かな確信を抱いて窓の外を見つめた。茜色の空の彼方、やがて対峙することになる王都の影を、ただ穏やかな眼差しで見据えながら。


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