第6話
夜明けの冷気がまだ石畳の底に沈む早朝、私は屋敷の裏手にある厩舎へと足を運んだ。
薄暗い厩舎の奥からは、すでに荒い息遣いと藁を踏む乾いた音が漏れ聞こえていた。覗き込むと、そこには上着を脱ぎ捨てて愛馬と対峙しているフロレンツの姿があった。
昨朝、私の『脱力』の捌きによって地面に転がされ、力任せの武芸の無力さを思い知らされた弟だ。己の未熟さに気づいた彼は、言葉通り、自らが蔑ろにしてきた『足元の手入れ』を一人でやり直そうとしていた。
だが、気負いが空回りしていた。
「おい、じっとしてろ! ブラウ、動くなと言っているだろ!」
フロレンツが手綱をぐいと引き絞るたびに、漆黒の毛並みを持つ愛馬は苛立たしげに前脚で床を叩き、頭を激しく振って威嚇する。ブラシを持った弟の肩にはがちがちに力が入り、眉間には深い皺が刻まれていた。
言うことを聞かせようと腕力を込めれば込めるほど、馬は反発を強めていく。昨日までの彼の太刀筋と、まったく同じ悪循環だった。
「……力でねじ伏せようとするから、馬に舐められるんじゃ」
厩舎の陰から、しわがれた低い声が響いた。藁を抱えて通りかかった老馬丁のハンスだ。長年この屋敷の馬房を預かる気難し屋の老人は、手綱を握りしめて青筋を立てるフロレンツの背中に、冷ややかな視線を投げかけた。
「手綱をそんな万力みてえな力で握られたら、馬の口が千切れそうになる。乗る前から殺気を剥き出しにして威圧されたら、どんな名馬だって怯えて暴れるに決まってます。獣はな、乗る人間の心ん中の力みを誰よりも敏感に嗅ぎ取るもんだ」
平民の使用人からの容赦のない苦言に、フロレンツの背中がびくりと跳ね上がった。かつての彼なら、己の不手際を棚に上げ、「下働きの分際で誰に口を利いている!」と怒鳴り散らし、手入れ道具を蹴り飛ばしていただろう。
弟の拳が白くなるほど強く握り締められた。青い瞳の奥に、かつての激情の火花がチロチロと揺らめく。私は柱の影から身じろぎもせず、弟の選択を見つめた。
フロレンツは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと長く息を吐き出す。胸の奥に渦巻いた苛立ちを、自らの内側で噛み砕くように。
目を開けたとき、その瞳から濁った光は消えていた。彼は手綱の力を緩めると、ハンスの方へと向き直った。
「……すまなかった」
絞り出すような声だった。だが、言葉はそこで止まらなかった。
フロレンツは両手を腿の横にぴたりと揃え、深く、腰を折った。
「俺の未熟さを教えてくれて感謝する。ハンス、頼む。俺に……馬の気持ちを落ち着かせる、正しい手入れの手ほどきを教えてくれ」
厩舎の空気が、ぴたりと凍りついた。
藁を抱えていたハンスが、言葉を失ったように目を丸くし、ぽかんと口を開けた。屋敷中から暴君と恐れられ、昨朝まで挨拶ひとつ返さなかった伯爵家の嫡男が、泥のついた作業着の老人に深々と頭を下げているのだ。老馬丁の手から、藁の束が数本、床へと滑り落ちた。
「……若様、あんた……本気なんですかい」
「ああ。本気だ。俺は今まで、自分の力だけで馬を従わせていると傲慢になっていた。どうか、教えてほしい」
微動だにしない弟を見据え、ハンスの目に職人の厳しさが戻る。老人は短く鼻を鳴らし、手にした藁を壁際に置いた。
「……頭を上げてください。まずはその、肩の力を抜きなせえ。手綱は手で握るんじゃなく、指先で馬の息遣いを感じるように軽く添えるだけでいい。ほら、やってみなさい」
「……はい!」
フロレンツは手綱を握る指を緩め、そっと馬の鼻先へ手の甲を寄せた。警戒を解いた愛馬がふんと小さく鼻を鳴らし、弟の指先へすり寄る。
脱力とは、剣の上だけのものではない。全身の無駄な緊張を捨て、相手を受け入れること。弟の身体に、その理合がわずかながら芽吹き始めているのを、私は静かに見届けた。
朝食の鐘が鳴る頃、私は弟の様子を追って、中庭の外れにある武具整備場へと向かった。
すでに厩舎での一件は使用人たちの間で囁き声となって広まり始めていたらしく、渡り廊下のあちこちから、遠巻きに中庭を覗き込む侍女たちの気配があった。私の背後には、フリーダが心配そうに付き従っている。
整備場の石机の前には、すでに別の険悪な空気が立ち込めていた。
腕組みをして仁王立ちしているのは、煤けた革前掛けをつけた頑固一徹な老鍛冶職人、ヨルクだ。その足元には、数本の木刀と、銀色の鈍い光を放つ模擬刀が乱暴に転がされていた。
「……これが、若様が昨日まで使っていた得物ですかい」
ヨルクの低くしゃがれた声には、隠しようもない怒りが滲んでいた。地面の模擬刀の刃はあちこちが小さく欠け、鍔の根元には錆と油汚れがこびりついている。木刀に至っては、力任せに打ち込んだせいで繊維がささくれ立ち、いつ折れてもおかしくない無惨な状態だった。
「道具の命を軽んじる者に、剣を持つ資格などねえ。手入れもされず、悲鳴を上げている刃を平気で振るうなんざ……戦場で自分の命をどぶに捨てるのと同義だ。こんな無様な真似をする坊ちゃんに、わしが教えることなど何一つありゃしねえよ」
平民の職人とは思えないほどの鋭い叱責だった。背後に控えるフリーダが小さく息を呑み、息を止めるのがわかる。
貴族の矜持を傷つけられたと激昂してもおかしくない場面だ。だが、フロレンツは唇を真一文字に結んだまま、静かに石机の前へと歩み寄った。
彼は足元に散らばる傷だらけの刀剣を、一本ずつ、両手で丁寧に拾い上げた。そのささくれを指先でなぞりながら、フロレンツはヨルクの前に膝をついた。
「ヨルク殿の言う通りだ」
淀みのない、低く落ち着いた声だった。
「俺は強い技ばかりを追い求め、一番身近で俺の命を支えてくれていた道具を、ただの使い捨ての棒切れのように扱っていた。刃こぼれひとつ直せない未熟者が、一人前の剣士を気取っていたんだ」
フロレンツは拾い集めた模擬刀を両手で捧げ持ち、その場に額がつきそうなほど深く頭を下げた。
「俺の無礼と横暴を、心から詫びる。頼む……道具の命を蘇らせる、正しい手入れと研ぎ方を教えてほしい。俺に、この剣を持つ資格を一から学ばせてくれ」
庭を吹き抜ける風の音だけが響いた。
鍛冶職人ヨルクは、太い眉を跳ね上げ、目の前で平伏する少年の姿を凝視した。傲慢で、少しでも気に入らなければ怒鳴り散らしていたはずの伯爵家の跡取りが、身分の差などかなぐり捨てて、一人の職人に教えを乞うている。
ヨルクの口元が、わずかに震えた。呆然とした表情は、やがて呆れ混じりの、しかし温かみを帯びた苦笑へと変わった。
「……まったく。聞いていた話とまるで違えじゃねえか」
ヨルクは太い腕を伸ばし、フロレンツの肩を叩いて立たせた。
「頭を上げな、若様。道具への礼儀を知らねえ奴には石ころ一つ研がせねえが……己の非を認めて頭を下げられる奴の頼みを断るほど、わしも落ちぶれちゃいねえよ」
老職人は机の上に砥石と油布を並べ、自らの分厚い掌をかざしてみせた。
「よく見なさい。刃物を研ぐときも同じだ。腕力で無理やり擦りつけりゃ、刃が丸まるだけで切れ味は死ぬ。砥石の平らな面を感じて、手の重みだけを預けるように……すっと引くんだ。力みを抜けば、鉄は自然と応えてくれる」
「……手の重みだけを、預ける……」
フロレンツの目が真剣に輝いた。昨日、私が木刀を流したときの感覚と、老馬丁に諭された手綱の理合が、鍛冶職人の言葉によって一つの線に繋がったようだった。
弟はヨルクの横に腰を落ち着け、教えられた通りの脱力で、慎重に砥石へと刃を滑らせ始めた。静かな中庭に、刃物を研ぐ規則正しい水音が心地よく響き渡った。
昼前、陽光が高く昇る頃には、武具整備場に並べられた木刀と模擬刀は見違えるような輝きを取り戻していた。
油の匂いと鉄粉にまみれ、額にびっしりと汗を浮かべたフロレンツは、最後に残った一本を布で拭き上げると、満足そうに息を吐いた。その表情には、これまでの傲慢な険しさは微塵もなく、真摯に修練をやり遂げた者特有の清々しさが宿っていた。
「ふう……若様、筋がいい。力で押し切ろうとしなくなった途端、見事な刃がついた。これなら実戦でも折れやしねえよ」
「ありがとうございます、ヨルク殿。……本当に、感謝します」
フロレンツはもう一度、今度は晴れやかな笑顔で職人に一礼した。
そこへ、冷たい果実水の入った水差しを盆に載せたフリーダと若い下働きたちが、おずおずと近づいてきた。フロレンツが汗を拭いながら立ち上がるのを見て、下働きたちはびくりと足を止める。過去の記憶から、まだ少なからず恐れを抱いているのだ。
フロレンツは自ら彼らの元へと歩み寄った。
「持ってきてくれたのか。すまない、喉が渇いていたんだ」
彼はフリーダから受け取ったグラスを一気に干すと、盆を持った若い下働きの少年に向かって、穏やかな笑みを向けた。
「冷えていてとても美味かった。暑い中、運んでくれてありがとう」
「ひゃ、いっ……! も、もったいないお言葉です……!」
目を白黒させた少年が、真っ赤になって慌てて頭を下げる。渡り廊下の陰で見守っていた侍女たちの間にも、驚き混じりのざわめきが広がった。
あの我儘放題だった若様が、裏方の職人に頭を下げて教えを乞い、下働きの使用人にまで心からの礼を述べている。屋敷中を覆っていた不信と恐怖の冷たい壁が、音を立てて崩れ去っていくのが肌で感じられた。
私の隣に戻ってきたフリーダは、目元に滲んだ涙をハンカチの端でそっと拭っていた。
「クラウディア様……若様が、まるで別人のようでございます。あんなに穏やかで、周りへの敬意に満ちたお顔をなさるなんて……」
「ええ。ですが、これが本来のあの子の素直さよ。余計な力みと歪んだ承認欲求が削ぎ落とされただけだわ」
私は懐から革表紙の手帳を取り出し、三年後の破滅を回避するための項目――『他者への敬意と裏方への感謝』の欄に、小さな達成の印をペンで書き加えた。
一段階、進んだ。だが、これで全てが終わったわけではない。悪癖の根を完全に絶ち、王宮という伏魔殿で生き抜く誇り高き騎士へと鍛え上げるには、まだいくつもの関門を越えなければならない。
手帳を閉じたとき、武具を片付け終えたフロレンツが、まっすぐに渡り廊下のこちら側へと歩み寄ってきた。
その足取りには迷いがなく、均整の取れた身体には無駄な力みが消え、芯の通った静けさが宿っていた。私の数歩手前で足を止めると、フロレンツは青い瞳を真っ直ぐに私の目へと向けた。
「姉上」
「よくやり遂げたわね、フロレンツ。道具も、馬も、あなたの心に応えてくれたようね」
私が労いの言葉をかけると、弟は小さく首を横に振った。その顔には、過去の己の過ちを真に自覚した者だけが浮かべる、重く厳粛な光が灯っていた。
「ハンスやヨルク殿に頭を下げて、ようやく解ったんだ。俺は今まで、自分が特別だと証明したいばかりに、周りの支えを足蹴にして、誰よりも見苦しく暴れていたんだと」
フロレンツは胸元に手を当て、凛とした声で言葉を継いだ。
「職人たちへの無礼は詫びた。だが、それだけじゃ足りない。俺は……これまで俺の横暴に怯え、傷つけられてきた屋敷のすべての使用人たちの前で、自らの非を正式に謝罪したい」
突然の申し出に、私は微かに眉を動かした。弟の言葉はそこで終わらない。
「そして、俺の目を覚まさせ、正しい道を指し示してくれた姉上に――この命と剣のすべてを捧げる誓約を立てたいんだ。姉上、許してくれるだろうか」
それは、我が儘な子供の気まぐれなどではない。自らの過去を清算し、一人の騎士として立ち上がるための、退路を断った決意の眼差しだった。
かつて実家を破滅へと導くはずだった問題児が、自発的に全使用人への公式な謝罪と、私への忠誠を望んでいる。だが、全使用人を集めた前での謝罪と誓約は、失敗すれば若様としての威厳を完全に失墜させかねない諸刃の剣でもある。
私は弟の揺るぎない青い瞳を静かに見据え、試すように唇を開いた。




