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第5話

激しい破裂音が訓練場の土煙を巻き上げた。


「うおおっ!」


フロレンツの荒々しい咆哮とともに、黒光りする樫の木刀が斜め上段から薙ぎ払われる。打ち合っていた指南役の青年――近衛への推挙を控えた見習い衛兵が、両手で掲げた防具ごとその剛腕の一撃を受け止めた。ぎり、と骨の軋むような鈍い音が響く。


「ぐっ……!」


見習い衛兵の顔が苦痛に歪み、手首が不自然に外側へ跳ね上がった。支えきれなくなった木刀が手元から弾き飛ばされ、乾いた地面を転がる。青年の膝ががくりと折れ、土埃の中に突いた左手が細かく痙攣していた。


「おい、なんだその体たらくは! これしきの太刀筋も受け止められないのかよ!」


フロレンツは息を荒げ、勝ち誇るどころか苛立ちを露わにして怒鳴り散らした。その額にはびっしりと玉のような汗が浮かび、肩は激しく上下している。昨日の悪友とのいさかいを言葉で退けたとはいえ、心の内にある焦燥がその全身を硬直させていた。


「申し訳、ございません……坊ちゃん。手首を、少し……」


「言い訳をするな! 俺はもっと強い手応えが欲しいんだ! こんなぬるい稽古で、王宮の選考に受かるわけがないだろうが!」


フロレンツは苛立ちのままに、握っていた木刀を地面へ投げ捨てた。乾いた木材が砂利を跳ね上げ、武具棚の足元に転がっていた手入れ具の油壺に当たって鈍い音を立てる。道具係の少年が悲鳴のような息を呑み、慌てて飛び退いた。


「フロレンツ様、おやめください!」


稽古場の隅に控えていた侍女のフリーダが、手巾を抱えて駆け寄った。素早く見習い衛兵の傍らに跪き、腫れ上がりかけた手首を冷水に浸した布で素早く包み込む。


「無茶な打ち込みで怪我をなさっては、お互いのためになりません。まずは手首の手当てを――」


「うるさい! お前たち下働きが俺の剣に口を挟むな! 俺はただ、本物の力を身につけたいだけだ!」


弟が激情に任せて腕を振り上げようとした瞬間、私は敷石を静かに踏みしめて前へ進み出た。


足元に転がっていた弟の木刀に爪先を添え、すくい上げるようにして右手に収める。ずっしりとした重みがある。素振り用として作られた業物だが、柄の革紐には乱暴な握り込みによる擦れ跡が無惨に残っていた。


「本物の力、ね」


冷ややかな声が、訓練場の張り詰めた空気を切り裂いた。


フロレンツの肩がびくりと跳ねる。青い瞳を怒りと動揺で揺らしながら、勢いよく私を振り返った。


「……姉上。見ていたのか」


「ええ、見ていたわ。見苦しくて、思わず目を覆いたくなるような稚拙な暴威をね」


私の淡々とした言葉に、フロレンツの顔が屈辱で真っ赤に染まった。


「な……稚拙だと!? 俺の一撃はあの指南役の構えを完全にへし折ったんだぞ! 圧倒的な力だ! どこが稚拙なんだよ!」


「構えを折ったのではないわ。相手の手首を壊しただけよ。自分の身体の使い方も知らない子供が、ただの質量を叩きつけただけ。そんなものは剣術でも何でもないわ」


私は手にした木刀の切っ先を、フロレンツの胸元へと真っ直ぐに向けた。


「力に頼る太刀筋は、相手に初動を教える合図に過ぎないのよ。大振りをすればするほど、筋肉が強張り、踏み込みが遅れ、重心が宙に浮く。本物の手練れなら、あなたが振りかぶった時点で勝負を終えているわ」


「机上の空論だ!」


フロレンツが吠えた。武具掛けから予備の木刀をひったくるように掴み、切っ先を私へと向ける。


「姉上はいつもそうだ! 本で読んだような理屈ばかり並べて! 女の姉上に、俺の腕力が受け止められるわけがないだろ! 後悔しても知らないからな!」


「ええ、全力でいらっしゃい。少しでも手を抜いたら、明日から剣の稽古はすべて取り上げます」


私の言葉に、周囲の見習い衛兵たちやフリーダが息を呑んだ。


フロレンツの体格は十四歳とはいえ、すでに大人の男と大差ない。毎日の素振りで鍛え上げられた太い腕と厚い胸板は、令嬢である私の倍近い質量がある。まともに打ち合えば、私の華奢な腕など一瞬で砕け散るだろう。


だが、武の理合とは力比べではない。


前世で私が学んだ古流柔術と身体操法の知識が、網膜の裏で鮮やかに蘇る。人の骨格がどのように動き、筋肉の緊張がどのように運動の自由を奪うか。弟の全身からは、傲慢さと力みのサインが湯水のように漏れ出していた。


「うおおおおっ!」


大地を蹴る激しい足音が響いた。


フロレンツが全身の筋力を総動員し、上段から猛然と踏み込んでくる。腕の筋肉が岩のように盛り上がり、大気を引き裂く重い風切り音が迫る。視線、肩の傾き、足の踏み込み――すべてが「ここへ叩き落とす」と叫んでいるような、あまりにも分かりやすい一撃だった。


私は呼吸を落とした。


下腹部の重心をわずかに沈め、肩の力を完全に抜く。脱力した身体は、緊張した筋肉よりも遥かに速く、滑らかに反応する。


木刀が私の脳天を叩き割る寸前――私は前にも後ろにも引かず、ただ半歩、右斜め前へと踏み込んだ。


フロレンツの懐深く。太刀筋の最も威力が乗る打撃点の内側へ、すり抜けるように滑り込む。


「なっ――!?」


弟の驚愕に満ちた目が丸く見開かれた。振り下ろされる木刀はすでに空を切り始めており、弟自身が乗せた巨大な慣性と体重は、もはや己の手では止められない。


私は木刀を握る右手をそっと添え、弟の振り下ろす右腕の肘の内側へ、最小限の力で触れた。押し返すのではない。彼自身が振り下ろす凄まじい力のベクトルを、円を描くようにほんの数寸、下へと導いただけだ。


弟の重心が完全に崩れた。


己の剛腕が生み出した強大な破壊力に引っ張られるように、フロレンツの身体が前へと突っ込む。私は半身を引いてその進路を空け、弟の軸足を木刀の柄で軽くいなした。


ドン、と派手な地響きが訓練場に轟いた。


フロレンツは受け身を取ることもできず、訓練場の砂利へ前のめりに叩きつけられていた。盛大に土煙が舞い上がり、手放された木刀が虚しく地面を跳ねる。


訓練場が、水を打ったように静まり返った。


誰も声を出せない。見習い衛兵たちも、手巾を握りしめたフリーダも、信じられないものを見るように目を見開いていた。巨躯を誇る若様が、華奢な令嬢の一触れで、まるで小石に躓いたかのように転がされたのだ。


「……が、はっ……」


フロレンツは地面に胸を打ち付け、濁った息を吐きながら砂利を掴んだ。起き上がろうとするが、激しく強打した肩と膝が震え、思うように力が入らない。


私は息一つ乱さず、冷ややかに弟を見下ろした。


「言ったはずよ。力に頼れば、その力そのものに足元をすくわれると。あなたが誇っていたその筋力は、相手を倒すためではなく、自分を地面へ叩きつけるために働いたのよ」


「く、そ……っ」


フロレンツの喉から、絞り出すような呻きが漏れた。砂まみれの顔を歪め、青い瞳から屈辱の涙が零れ落ちる。起き上がれない。姉に触れられただけの衝撃で、自分の身体がまるで言うことを聞かないのだ。


私は手にした木刀を武具棚へ静かに戻し、武具の手入れ場へとゆっくり歩を進めた。


「立ちなさい、フロレンツ。自分の足で」


弟は歯を食いしばり、震える手で地面を押し上げ、泥だらけの膝を立てた。よろめきながら、どうにか立ち上がる。プライドを粉々に砕かれた少年の背中は、先ほどまでの横柄さが嘘のように小さく見えた。


「ついてきなさい」


私は手入れ場の作業台の前で足を止めた。そこには、倒れかけた油壺が置かれていた。


「あなたが投げ捨てたあの木刀は、誰が削り、誰が油を塗って手入れしていると思っているの? あなたが手首を痛めかけたあの青年は、誰のために盾となり、打ち込みを受けてくれていると思っているの?」


フロレンツは俯き、唇を血が出るほど強く噛み締めた。


「道具をぞんざいに扱い、稽古相手を軽んじる者に、武芸を修める資格はありません。相手への敬意を欠いた剣はただの凶器であり、自らを滅ぼす刃よ。そんな者が王宮に出仕したところで、待っているのは破滅だけです」


私の厳しい言葉が、容赦なく弟の胸を抉る。前世の記憶にある、断罪され処刑台へと送られた弟の姿が脳裏をよぎる。あの傲慢さと力への過信を、今ここで完全に焼き払わなければならない。


「……俺は」


フロレンツの口から、掠れた声がこぼれた。


「俺は……自分が強いと、思い込みたかった。周りから、甘やかされただけの役立たずだって……そう思われるのが、怖くて……」


握りしめられた弟の拳が、白くなるほど震えていた。承認への飢えと、自らの無力さへの恐怖。それが彼を暴君へと仕立て上げていた元凶だった。


「己の未熟を知ることは、恥ではありません。それを力で誤魔化し、他者を傷つけることこそが、最大の恥辱です」


フロレンツはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳からは、先ほどまでの濁った苛立ちが消え去り、澄んだ羞恥と悔悟が宿っていた。


弟は地面に落ちていた木刀を両手で拾い上げた。服についた泥を払うこともせず、手首を冷やしていた見習い衛兵の前へと歩み寄る。


そして――深く、直角に腰を折った。


「すまなかった! 俺の未熟な剣のせいで、貴方に怪我を負わせかけた。俺の傲慢を許してほしい」


訓練場にいた者全員が、息を呑んで固まった。あの暴れん坊だった坊ちゃんが、平民である見習い衛兵に対して、泥にまみれた頭を下げているのだ。


見習い衛兵は狼狽え、痛む手首を押さえながら慌てて立ち上がった。


「ぼ、坊ちゃん……! 頭をお上げください、私は――」


「頼む、受け取ってくれ」


フロレンツは頭を下げたまま、今度は作業台の隅で縮こまっていた道具係の少年に向かって深々と礼をした。


「道具を乱暴に扱って悪かった。貴方たちが毎日手入れをしてくれているおかげで、俺は稽古ができる。……これからは、基礎からやり直したい。どうか、俺に稽古を続けてほしい!」


フロレンツの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。道具係の少年もまた、深く頭を下げ返す。


稽古場を包む空気が、温かく、引き締まったものへと変わっていく。フリーダが胸元で手を組み、目元を潤ませながら弟の姿を見守っていた。


私は胸の中で、小さく息を吐いた。


(まずは一歩……ね)


力任せの傲慢さを打ち砕き、他者への敬意と基礎の重要性を自覚させた。だが、これで全てが片付いたわけではない。長年染み付いた身体の癖と、歪んだ承認欲求の根は深い。


フロレンツが顔を上げ、私の方を真っ直ぐに見つめてきた。その目には、揺るぎない決意が宿っていた。


「姉上。俺に……脱力を教えてくれ。相手を尊重し、真に強い騎士になるための理合を」


「ええ。基礎の素振りから、徹底的に叩き直してあげるわ」


私は小さく頷いた。確かな手応えを感じていた。だがその直後、フロレンツが自分の腰に差していた手入れ用の小刀や、厩舎へ続く道具棚に目を向けたとき、その表情がふと強張った。


「……待てよ。俺は今まで、木刀の手入れどころか、馬具の油差しや鞍の調整まで……全部、適当に放り投げていたんじゃないか……?」


己の足元を見つめ直した少年は、自らの生活の隅々にまで蔓延していた『傲慢の残骸』の多さに、初めて気づいたようだった。


翌朝、屋敷に仕える気難しくて頑固な老馬丁や、鍛冶職人たちが待つ裏庭へ、フロレンツが一人で向かうことになる。かつて怒鳴り散らしていた暴君が頭を下げて教えを乞うたとき、職人たちは果たしてどう応じるのか。訓練場の砂利を踏みしめる弟の背中に、私は次なる試練の予兆を見出していた。


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