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第4話

翌朝の図書室は、磨き上げられた樫の木の机に、初夏の淡い陽光が射し込んでいた。


私は革張りの椅子に腰を下ろし、昨晩フリーダから受け取った黒い封書を机上に広げた。粗末な羊皮紙の縁は薄汚れており、王都の暗がりで交わされる金と暴力の臭いが染みついているようだった。


向かいの席では、フロレンツが硬い表情でその紙面を凝視している。昨晩、両親の甘言を退けて作法を改めると誓った弟の顔には、まだ少年らしい危うさと、それをねじ伏せようとする緊張が混ざり合っていた。


「……裏通りの賭け試合だと? 勝手に俺の名を登録した挙句、出なければ臆病者と吹聴する、だと……!」


紙面を読み終えたフロレンツが、ギリと奥歯を鳴らした。青い瞳に獰猛な火が灯り、両拳が白くなるほど強く握りしめられる。


「ふざけやがって、ローレンツの野郎……! 俺をコケにしやがったな! 今すぐ乗り込んで、あの薄笑いを浮かべた面をぶん殴ってやる!」


ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がろうとする弟を、私は静かな視線で射すくめた。


「座りなさい、フロレンツ」


「けど、姉貴! こんなあからさまな侮辱を黙って見過ごせるかよ! 俺が逃げたと触れ回られたら、伯爵家の名に傷がつく!」


「声を荒らげないで。感情に任せて吠えるのは、自分が策を持たない弱者だと敵に白状しているのと同じよ」


私の淡々とした声に、フロレンツは息を詰まらせた。立ち上がりかけた腰を浮かせたまま、悔しげに唇を噛む。


「冷静に考えなさい。ローレンツの真の狙いは何かしら? あなたを殴り合いで叩きのめすこと? いいえ、違うわ。彼が求めているのは、あなたが法に触れる闇闘技場に足を踏み入れ、そこで粗暴な暴力沙汰を起こすことよ」


私は指先で机上の手紙をトンと叩いた。


「あなたが怒りに任せて相手を傷つければ、それは決闘ではなくただの傷害事件になる。近衛騎士団の選抜を控えたこの時期にそんな不祥事を起こせば、出仕の道は永久に閉ざされるわ。ローレンツは手を汚さず、あなたを自滅させたいの」


フロレンツの喉元が、ごくりと上下した。握りしめられた拳から、わずかに力が抜ける。


「……じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ。断れば、あいつらは俺を臆病者だと嘲笑うぞ」


「相手の用意した土俵に乗る必要など微塵もありません。真の騎士ならば、下品な挑発を礼節と正論で叩き折りなさい。相手が泥を投げてくるなら、こちらは磨き抜かれた盾で跳ね返すのよ」


私が言葉を結んだその瞬間、図書室の重厚な扉がノックもそこそこに開かれた。


息を切らせて駆け込んできたのは、筆頭侍女のフリーダだった。普段は隙のない身なりを整えている彼女が、珍しく焦燥を露わにしている。


「クラウディア様、フロレンツ様! 申し訳ございません、先触れもなく玄関ホールにお客様が……!」


「誰が来たの、フリーダ」


「ローレンツ様と、モーリツ様です。お二人は止める衛兵を払いのけ、すでに一階の玄関ホールへと上がり込んでおられます!」


手紙を送るだけでなく、本人が直接乗り込んできたというわけだ。フロレンツが逃げ出さないよう、屋敷の者たちの前で辱めて引きずり出す腹づもりだろう。


フロレンツが再びカッと目を見開き、私を見た。その瞳には怒りと共に、どう振る舞うべきかを問う迷いがあった。


「行くわよ、フロレンツ。姉の背中に隠れる必要はありません。堂々と、我が家の主たる誇りを見せつけてやりなさい」


「……はい、姉上」


いつもの『姉貴』ではないその呼び方に、私は内心で小さく目を見張った。短く答えた弟の声音には、先ほどまでの短絡的な激情ではなく、肚を据えた少年の硬質な響きが宿っていた。



一階の玄関ホールに降りる大階段の踊り場から見下ろすと、そこには派手な外套を羽織った二人の少年が傲然と仁王立ちしていた。


撫で付けた金髪に怜悧な切れ長の瞳を持つローレンツ。その背後には、小柄で落ち着きのない視線を走らせる取り巻きのモーリツが控えている。二人は居合わせた給仕や掃除の手を止めた使用人たちを、虫けらでも見るような目で見下していた。


「やあ、ようやくお出ましかな、フロレンツ!」


階段を降りてくるフロレンツの姿を認めるや否や、ローレンツは芝居がかった仕草で両手を広げ、館内に響き渡る大声を張り上げた。


「朝から熱心に本を開いていたそうじゃないか。乱暴者のお前が机に向かうなんて、お笑い草もいいところだ。もしかして、あの厳しいお姉様のスカートの陰に隠れて、震えながらお勉強ごっこかい?」


その言葉に、後ろのモーリツが下卑た笑い声を上げる。


「全くだぜ! 姉貴の言いなりになって部屋に引きこもるなんて、まるで操り人形だな。昨日の手紙は読んだんだろ? まさか裏通りの腕試しから逃げ出す気じゃないだろうな、腰抜けの坊っちゃん!」


モーリツの露骨な煽りに、ホールに控えていた衛兵たちが青ざめ、使用人たちが不安げに息を呑んだ。普段のフロレンツなら、即座に怒声を上げて腰の訓練用の短剣に手を伸ばすところだ。


現に、フロレンツの右手がピクリと跳ね、腰の帯へと伸びかけた。


少年の首筋に青筋が浮かび、荒い呼気が漏れ出す。


私は踊り場の手すりに手をかけ、静かに弟の背中を見つめ続けた。口出しはしない。ここで私が助け舟を出せば、あの子はいつまでも自立できない。


フロレンツの足が止まった。彼はふと視線を上へ向け、私と目が合った。


私の冷徹な、しかし決して揺らぐことのない眼差しを受け止めた瞬間、弟の肩からフッと力が抜けた。深く、長く息を吐き出すと、伸ばしかけていた右手をゆっくりと下ろしたのだ。


石畳を踏みしめる靴音が、静まり返ったホールに凛と響いた。


フロレンツは背筋を真っ直ぐに伸ばし、優雅ですらある所作でローレンツの正面へと進み出た。その立ち姿には、かつての粗暴な影はなく、規律正しい騎士見習いの威厳が宿っていた。


「朝早くから我が家へ押しかけてくるとは、随分と暇なようだな、ローレンツ」


澄んだ、よく通る声だった。嘲笑を浴びせられた人間とは思えないほど、その声音は平穏だった。


ローレンツの口元の笑みが、わずかに引きつる。


「……なんだ、その気取った態度は。手紙への返事を聞かせてもらおうか。今日の賭け試合、出るのか逃げるのか、どっちだ!」


「断るに決まっているだろう」


フロレンツは眉一つ動かさず、毅然と言い放った。


「名誉ある王女殿下の近衛騎士を目指す者が、法を犯す卑しい賭け事に手を染める道理などない。裏通りの無許可の闘技場に貴族子弟が出入りすること自体、王国の法度で固く禁じられている。そんな下劣な場に身を置くことを『度胸』と呼ぶなら、貴様の頭は随分とおめでたいようだな」


「な……っ!?」


ローレンツが目を見張り、息を呑んだ。まさかフロレンツの口から、これほど理路整然とした正論が飛び出すとは思っていなかったのだろう。


だが、フロレンツの反撃はそれだけでは終わらなかった。彼は一歩、ローレンツへと詰め寄った。


「それに、ローレンツ。俺を巻き込もうとした本当の理由は何だ?」


「な、何を言っている……!」


「昨年の馬上槍試合の折、身の丈に合わない大金を賭けて惨敗し、商人から多額の借財を背負ったと聞いているぞ。その穴埋めのために、俺を賭け試合へ引きずり出し、負け役として仕立て上げて見物料を巻き上げる腹づもりだったのだろう?」


ホールの空気が凍りついた。


それは、昨晩私がフリーダを通じて調べ上げ、今朝の図書室でフロレンツに授けておいた正確な事実だった。ローレンツが抱える、誰にも知られたくない最大の恥部だ。


「な、な、なぜそれを……! で、出鱈目を言うな! 僕が借金などするはずがないだろう!」


ローレンツの端整な顔が、一瞬で真っ赤に染め上がった。取り繕おうとする声は上擦り、先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく崩壊している。


周囲の衛兵や使用人たちの視線が、ローレンツへと突き刺さった。そこにあるのは畏怖ではなく、借金に追われて友人を罠に嵌めようとした卑怯者への、冷ややかな軽蔑の色だった。


「誰のおかげで威張り散らせているのか知らないが、我が家の敷居をこれ以上その汚れた足で跨がないでいただきたい」


フロレンツは冷然と玄関の扉を指差した。


「お引き取り願おう。二度と我が伯爵邸に無礼な真似をするな」


「き、貴様……っ! 落ちこぼれのくせに、僕を愚弄する気か……!」


ローレンツが激情に駆られて拳を振り上げかけた。だが、周囲の衛兵たちが一斉に槍の石突きを床に打ち鳴らし、冷たい視線で彼を取り囲む。


「ひ、ヒィッ……! ロ、ローレンツ様、ここはまずいです! 早く戻りましょう!」


形勢の逆転を悟ったモーリツが、青ざめた顔でローレンツの腕に縋りついた。小心な腰巾着は、衛兵たちの威圧感にもう耐えられなくなっていたのだ。


「くそっ……! 覚えていろよフロレンツ! ただで済むと思うな!」


ローレンツは捨て台詞を吐き捨てると、モーリツに引きずられるようにして、逃げるように玄関から転がり出ていった。


重々しい扉がバタンと閉ざされる。


次の瞬間、ホールを満たしたのは、使用人たちの感嘆のため息と、静かなざわめきだった。


「若様が……あの横暴なローレンツ様を、言葉だけで追い払われた……」

「暴れることもなく、なんと堂々としたお姿か……」


フリーダをはじめとする屋敷の者たちが、尊敬の眼差しをフロレンツに向けている。かつて癇癪を起こして使用人を怒鳴り散らしていた悪童の面影は、そこにはなかった。


フロレンツは小さく息を吸い、階段の上の私を見上げた。その青い瞳には、挑発を退けた達成感と、確かな誇りが灯っていた。



騒動が収まった後、私たちは中庭の訓練場へと移動していた。


初夏の青空の下、フロレンツは木刀を手に持ち、私に向かって真っ直ぐに頭を下げた。


「……姉上。ありがとうございました。姉上の教えがなければ、俺はあいつの言葉に激昂して、まんまと殴りかかっていたところでした」


素直な感謝の言葉だった。尊大だった弟が、他者に敬意を払い、自らの未熟さを認めて礼を述べている。一歩ずつではあるが、破滅の未来を確実に遠ざけているという手応えがあった。


「よく自制しましたね、フロレンツ。相手の土俵に乗らず、事実と礼節でねじ伏せる。それが真の貴族の戦い方です」


私が穏やかに微笑むと、フロレンツは少し照れたように頬を緩めた。だが、その表情はすぐに引き締まり、どこか焦りを帯びたものへと変わっていった。


「でも……言葉で勝てたって、それだけじゃ駄目なんです」


「どういうことかしら?」


「あいつらは、俺の腕前を馬鹿にしていました。言葉でいくら正論を並べ立てても、本物の武力で圧倒できなきゃ、結局は口先だけの臆病者だと笑われる……! 俺は、誰も文句のつけようがない圧倒的な力を手に入れなきゃいけないんだ!」


吐き捨てるように叫ぶと、フロレンツは木刀を構え直した。


ブンッと、空気を切り裂く激しい音が響く。


その太刀筋を見て、私の眉がわずかに寄った。先ほどまでの冷静さはどこへやら、木刀を握る両手には余計な力みが戻り、肩が極端に怒り肩になっていた。


速さと重さを求めるあまり、フロレンツは再び『力任せの破壊力』に頼る悪癖を剥き出しにしていたのだ。踏み込みの衝撃で足元の砂利が激しく飛び散り、大振りの太刀筋が木製の素振り用の標的を強打する。ドカンと鈍い音が響いたが、切っ先は大きくブレていた。


(精神的な自制は身につけた。けれど……)


劣等感から来る『力への執着』は、そう簡単には消え去らない。


このままでは、どれほど素振りを重ねても真の剣理には至らないだろう。むしろ、出仕を前にした稽古で腕や肩を痛めるか、焦りのあまり指南役に怪我を負わせるのが関の山だ。


フロレンツは荒い息を吐きながら、がむしゃらに木刀を振り下ろし続けている。その背中には、周囲に認められたいという焦燥が痛々しいほど張り付いていた。


私は胸元から革表紙の手帳を取り出し、小さな銀のペンを走らせた。


『課題:力頼みの剣法の是正。脱力と重心の統制』


悪友の罠を言葉で粉砕したことは、確かな前進だ。だが、次なる壁はすでに弟の身体そのものに巣食っている。


木刀が空を裂く荒々しい音を聞きながら、私は冷徹な思考を巡らせていた。力でねじ伏せようとするこの猛獣の頑なな腕を、いかにして解きほぐすべきか。青空を仰ぐ私の瞳に、次なる試練を見据える静かな光が宿っていた。


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