第3話
銀のカトラリーが触れ合う澄んだ音が、豪奢なシャンデリアの下に響くはずの大食堂。しかし現実に鳴り響いていたのは、皿をガリガリと削る無惨な鉄の軋み音だった。
大皿に盛られた仔羊のロースト。その肉塊へ、フロレンツは乱暴にフォークを突き刺すと、ナイフの刃先を力任せに押し当てて引きちぎるように切り分けていた。飛び散った肉汁が純白のテーブルクロスに無数の赤い染みを作っていく。
「ちっ、切りにくいな。肉が固すぎるんだよ。厨房の奴らは何を考えてんだ」
手づかみ同然の不格好な手つきで肉片を口へ放り込み、フロレンツは下卑た舌打ちを鳴らした。夕方のしつけで家庭教師に頭を下げたときの殊勝さはどこへやら、甘やかされるいつもの居場所に腰を下ろした途端、染み付いた悪癖が息を吹き返している。
背後に控えるフリーダが小さく肩を竦め、視線を伏せた。給仕たちの間にも、いたたまれない沈黙が広がる。
私は手元のスープスプーンを音もなく置き、静かに口を開いた。
「フォークの背で肉を抑え、刃の全体を滑らせるように引きなさい。力任せに押し潰しては、繊維が壊れて肉汁が逃げてしまいます。それに、丹精込めて火を入れた料理人への不満を、下品な悪態で口にするものではありません」
私の冷ややかな指摘に、フロレンツがぴくりと眉を跳ね上げた。反論しようと青い瞳を苛立たしげに尖らせかけた、その時である。
「これこれ、クラウディア。食事の席でそう小言ばかり言うものではないよ」
上座に座る父ディートリヒが、口髭を撫でながら朗らかな調子で割って入った。恰幅のいい身体を揺らし、いかにも鷹揚な当主然とした笑みを浮かべている。
「フロレンツは男児であり、我が家の誇るべき跡取りだ。年頃の少年が旺盛な食欲で肉を平らげるのは、頼もしい証拠ではないか。将来、王宮を背負って立つ大騎士になろうという英雄に、小間使いのような細かい作法など無用だよ。豪快に食べて精をつけ、たくましく育てばそれで十分なのだ」
母もまた、銀のナプキンで口元を押さえながら柔らかな笑みを向けた。
「ええ、そうですわ。夕方も家庭教師の退屈な講義に付き合わされて疲れたのでしょう? 我が家の宝であるあなたを、窮屈なしきたりで縛る必要などありませんことよ」
両親の無分別な擁護を浴びた瞬間、フロレンツの表情から焦燥が消えた。代わりに浮かんだのは、後ろ盾を得た子供特有の傲慢な緩みだった。私に対して向けられていた畏敬と緊張が、あっけなく霧散しかけている。
「……ほら見ろよ、姉貴。父上も母上もこう言ってる。女の細かい小言なんかに付き合ってられるかよ」
フロレンツは皿をガリリと耳障りに削り、見せつけるように刃を動かし続けた。
このままでは元の木阿弥だ。親の甘やかしというぬるま湯に逃げ込ませれば、三年後の断罪劇を回避することなど到底叶わない。王女アマーリエの面前で恥を晒し、無礼の極みとして処刑台へ送られる最悪の未来が、脳裏を焼き尽くすように鮮明に蘇る。
私はナプキンで指先を清めると、ディートリヒではなく、フロレンツの青い瞳を正面から射抜いた。
「フロレンツ。あなたは本当に、父上の言う『豪快な英雄』になれると思っているの?」
低く、食堂の空気を震わせるような私の声に、フロレンツの右手がぴたりと止まった。
「な、なんだよ。父上が構わないって言ったんだぞ」
「構わないわけがありません。あなたが目指しているのは、地方の荒くれ者を束ねる野盗の頭領かしら? それとも、王女殿下の傍近くに仕える近衛騎士団の席かしら?」
「……近衛に決まってんだろ!」
悔し紛れの怒声が返ってくる。私は眉ひとつ動かさずに言葉を重ねた。
「王宮の晩餐会を想像なさい。豪奢な大広間に集うのは、百戦錬磨の将軍や他国の使節、そして王族の方々よ。そこであなたが今のように皿を削り、脂を撒き散らし、料理人を罵ったなら、周囲はどう反応すると思う?」
フロレンツが息を呑む。
「『さすがは豪快な英雄だ』と称賛されると思う? いいえ、決してそうはならないわ。『なんと無作法で卑しい育ちなのだろう』『親の教育も知れる田舎貴族の面汚しだ』と、冷笑とともに隅へ追いやられるだけよ」
「な、何を馬鹿なことを! 我が家の騎士教育は社交界でも――」
慌てて口を挟もうとした父を、私は冷徹な一瞥だけで制した。
「お父様、黙って。いま私は、弟が一生を棒に振るか否かの話をしております」
貴族の体面ばかりを気にする父は、私の有無を言わせぬ気迫に気圧され、言葉を喉に詰まらせて引き下がった。
私は再びフロレンツに歩み寄るように視線を据えた。
「刃の扱いとは、その者の心のありようそのものよ。己の食欲すら制御できず、道具を乱暴に扱い、他者への敬意を払えない者が、どうして主君を守るための神聖な剣を扱えるというの? 他者を侮る下品な刃しか持てぬ者を、王女殿下の騎士団は決して受け入れないわ」
フロレンツの顔から急速に血の気が引いていく。手づかみ同然だった左手が、脂のついたフォークから離れ、微かに震え始めた。
「そんな……俺は、ただ……」
「甘えの逃げ道を探すのはおやめなさい。両親の言葉を隠れ蓑にして恥を誤魔化すような臆病者に、一流の騎士を名乗る資格などないわ。あなたには、己の未熟さを認める誇りすら残っていないのかしら?」
突き刺さるような私の問いかけに、フロレンツは唇を血がにじむほど強く噛み締めた。
プライドを砕かれ、逃げ場を塞がれた少年の内面で、激しい葛藤が渦巻いているのが見て取れた。甘やかされた過去の自分に戻るか。それとも、恥を呑み込んで前へ進むか。
「フロレンツ、もうよい! 姉の戯言など気にせず、好きに食べなさい!」
焦ったディートリヒが再び庇い立ての声を上げた。だが、その甘言に、フロレンツがすがりつくことはなかった。
「……うるさい」
絞り出すような低い声だった。
「え? フロレンツ、今なんと言ったのだ?」
「うるさいって言ったんだ、父上!」
フロレンツは顔を跳ね上げ、青い瞳に確固たる熱を宿して父親を睨み返した。
「俺を甘やかすな! みっともないのは、俺自身だ……! 姉貴の言う通りだ。こんな下品な食い方しかできない奴が、近衛になれるわけがない!」
ディートリヒと母が息を呑み、信じられないものを見るように目を見張った。溺愛してきた自慢の息子が、自ら親の庇護を突っぱねたのだ。
フロレンツは震える手でナプキンを取り、丁寧に脂のついた指を拭った。それから席を立ち、後ろに控えていたフリーダに向き直ると、深々と頭を下げた。
「フリーダ。料理人に伝えてくれ。さっきは固いだの何だの、八つ当たりを言ってすまなかった。ちゃんと、美味しく作ってくれたのに」
「……フロレンツ様……」
フリーダが驚きに丸く見開いた瞳を潤ませ、胸の前で両手を握りしめる。周囲の給仕たちもまた、あの傲慢だった若様の劇的な変化に、息を呑んで立ち尽くしていた。
フロレンツは椅子へ戻ると、背筋を真っ直ぐに伸ばし、真剣な眼差しで私を見据えた。
「……姉貴。教えてくれ。どうやって持てば、その、綺麗に切れるんだ?」
素直に教えを乞う弟の姿に、私は心の中で小さく息を吐いた。親の甘やかしという分厚い壁に、ようやく確かな風穴を開けることができたのだ。
「手首の力を抜いて、人差し指をナイフの峰に添えなさい。そう、肉の筋に対して斜めに刃先を当てて、手前に引くのよ」
私は手ずからカトラリーの角度を修正させた。フロレンツは不器用ながらも必死に私の指示に従い、静かに、美しく肉片を切り落として口へと運んだ。
「……さっきより、ずっと美味い」
噛みしめるように呟いた弟の横顔には、粗野な問題児の面影はなく、真摯に礼節を学ぼうとする少年の光が宿っていた。
晩餐が終わり、呆然としたままの父と母が食堂を去った後。私は食卓の紅茶を静かに口へ含み、フロレンツの成長に微かな安堵を覚えていた。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
「クラウディア様」
片付けを終えたフリーダが、周囲を警戒するように足音を忍ばせて近づいてきた。その端正な顔立ちには、ただならぬ緊張が張り詰めている。
「どうしたの、フリーダ」
「先ほど、裏門に見知らぬ男が現れまして……若様宛てにと、この書状を置いて立ち去りました。差出人の名は伏せられておりましたが、使者の身なりや封蝋の印から察するに、おそらくはローレンツ様の使いかと」
フリーダの手から差し出されたのは、黒い蝋で固められた一通の手紙だった。受け取ると、冷たい紙の感触が指先を這い上がってくる。
ナイフで手早く封を切り、中に納められていた羊皮紙を広げる。そこに記されていた文面を目にした瞬間、私の視線は鋭く凍りついた。
それは、王都の裏路地にある非合法の闘技場――危険な賭け試合への招待状だった。表向きは貴族子弟の武術の腕試しと称しながら、実態は借金を背負わせ、身の破滅へと追い込むための悪質な罠だ。フロレンツの名が、出場者として勝手に登録されている旨が嘲笑うような筆跡で踊っていた。
「……あいつ、弟を完全に潰す気ね」
家庭教師への謝罪、食事作法の改善と、弟が自立への一歩を踏み出し始めた矢先。悪友ローレンツの伸ばす邪悪な触手は、すでに伯爵邸の門前にまで迫っていたのだ。
胸の奥底で、暗い予兆が静かにとぐろを巻いた。この罠をどう叩き潰すべきか。冷え切った紙片を見つめる私の瞳に、宵闇よりも深い警戒の炎が灯っていた。




