第2話
夕暮れの光が、屋敷の長い廊下に薄紅色の影を落としていた。
書斎の前で、白髪の家庭教師がおろおろと懐中時計を見つめている。背中を丸め、何度も革表紙の教本を持ち替えては、ため息を漏らしていた。
「困りましたな……。講義の刻限をとっくに過ぎておるというのに、若様のお姿が見えない。今朝のこともありますし、これ以上お怒りを買うような真似は……」
「先生、どうか落ち着いてくださいませ。私が一度、自室をお探ししてまいります」
通りかかったフリーダが、手にしたリネン類を抱え直しながら足を止め、気遣わしげに声をかけていた。朝の一件以来、彼女は気丈に振る舞っているものの、その面影にはまだ微かな緊張が残っている。
私は静かに足音を響かせ、二人の間へと歩み寄った。
「フリーダ、その必要はありません」
「クラウディア様」
フリーダが居住まいを正し、老教師も慌てて頭を下げた。
「先生。お待たせして申し訳ありませんでした。恐れ入りますが、書斎の明かりを灯し、そのまま机の前でお待ちいただけますか。十五分後には、弟を必ずあの椅子へ座らせます」
「は、はあ……しかしクラウディアお嬢様、若様はもしや、また気性が荒ぶっておられるのでは……」
「案ずることはありません。彼が学ぶべきは学問だけでなく、人と交わした約束の重さですから」
私は穏やかに微笑み、老教師に一礼した。教師は戸惑いながらも、私の眼差しに気圧されたように書斎の扉を開けて中へと入っていく。
残されたフリーダが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「お嬢様、若様はいったいどちらへ……?」
「書斎に来る気がないのなら、行く先は一つしかありません。フリーダ、あなたは廊下の見回りを続けて。ただし、何があっても裏庭には近づかないように」
私は袖の中に忍ばせていた手紙の端を指先でなぞった。昼間に届いたローレンツからの誘い状。
そこには『夕刻、いつもの裏口で待つ。退屈な講義など抜け出して、大人の遊び場へ行こうではないか』と、軽薄な筆跡で記されていた。
昼間にフリーダが届けてくれたこの手紙の中身を確かめたあと、私はあえて何食わぬ顔で封を戻し、弟の手元へ届けさせておいたのだ。悪友の誘いに飛びついて裏門へ抜け出すことなど、最初からすべて計算の内だった。
私は壁に立てかけてあった稽古用の木刀を一本手に取ると、薄暗くなり始めた裏庭へと通じる勝手口へ向かった。
日没の冷気が、裏庭の草木を湿らせていた。
高い石壁に囲まれた庭の隅、古びた鉄製の通用門がある。普段は使用人たちの出入りやゴミ出しに使われるだけの目立たない通用門だ。
そこに、私服の狩り衣に着替えたフロレンツが忍び寄っていた。足音を殺し、周囲を油断なく見回しながら、重い鉄の閂に手をかける。
「……開かねえな、ちくしょう」
苛立ちを滲ませた呟きが、夕闇に溶けた。
「鍵なら、私が預かっているわよ」
私の声が落ちると、フロレンツの背中が跳ね上がった。
弾かれたように振り返った弟の青い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。薄暗がりの中、木刀を杖のように地面に突いて立つ私を認めると、その顔はみるみるうちに警戒と敵意へと染まっていった。
「姉貴……! なんでここに……」
「書斎で先生がお待ちよ。今日の歴史と語学の講義をすっぽかして、こんな裏門から抜け出そうとする理由を聞かせてもらえるかしら」
フロレンツは唇を歪め、気まずさを誤魔化すように尊大な笑みを浮かべた。
「へっ、あんなカビの生えたじじいの講義なんて、受けてられるかよ。俺はこれから大事な先約があるんだ。王都のダグラス伯爵家のローレンツが、わざわざ俺を迎えに来てくれてるんだよ」
「悪友の甘言に釣られて、自宅での務めを放棄することが『大事な先約』だと言うの?」
「悪友だと!? ローレンツは俺の剣の腕を一番認めてくれてる親友だ! つまらねえ机の上の勉強ばかり押し付けるあんたらと違って、あいつは俺を一人前の男として扱ってくれるんだよ!」
フロレンツの言葉には、認められたいという飢えが滲んでいた。両親からただ無責任に甘やかされ、中身のない賛辞ばかりを与えられてきた少年は、外の世界で自分を評価してくれる都合のいい存在に飛びつこうとしている。
だが、その先に待っているのは身の破滅だ。ローレンツの狙いは、弟を持ち上げて悪所に引きずり込み、素行不良の汚名を着せて王女の側近候補から失脚させることなのだから。
「一人前の男、ね」
私は冷ややかな声で告げた。
「目の前の課題から逃げ出し、自分を都合よく甘やかしてくれる場所へ逃避する人間を、世間ではただの子供と呼ぶのよ」
「なんだと……!」
「ローレンツがあなたを認めているですって? 彼はあなたの弱さを利用しているだけよ。耳に心地いい言葉だけを囁いて、破滅への道を歩ませようとしていることに、まだ気づかないの?」
「うるさい! 偉そうに指図するな!」
フロレンツが怒りに顔を真っ赤にして叫んだ。
「そこをどけ! 力づくでも通るぞ!」
「通りたいのなら、私を倒してからにしなさい」
私は木刀を構え直し、静かに切っ先を弟の喉元へ向けた。
「なめやがって……! 女のくせに!」
逆上したフロレンツが、腰に帯びていた護身用の短杖を引き抜き、地面を蹴った。体格差と天性の筋力に任せた、猛烈な突進だった。
まともに受け止めれば、華奢な私の身体など吹き飛ばされてしまうだろう。だが、怒りに任せた突進ほど御しやすいものはない。
フロレンツの切っ先が私の肩口を捉えようとした瞬間、私は前世で学んだ護身の理合に従い、ほんの半歩だけ右へ身体を開いた。
「なっ……!?」
切っ先は私の衣の裾をかすめただけで、虚しく空を切った。勢い余って前へつんのめる弟の体幹。
私はその無駄な力みを見逃さず、手首を返して木刀の柄頭をフロレンツの右肘の関節へ正確に当てた。同時に、彼の踏み込んだ右足の内側へ、私の爪先を軽く引っ掛ける。
「ぐあっ!?」
体重の乗った突進の勢いが、そのまま回転力へと変換された。フロレンツの身体は宙で不格好に一回転し、湿った土の上に派手な音を立てて叩きつけられた。
泥水が跳ね、私服の狩り衣が無残に汚れる。
「がはっ……げほっ……!」
肺の空気を吐き出された弟が、地面でのたうち回った。即座に起き上がろうとするが、私はすかさず木刀の切っ先を、彼の眉間へ寸止めで突きつけた。
冷たい切っ先の感触に、フロレンツの動きが凍りつく。
「……な、なんで……」
見上げる弟の瞳に、激しい動揺と屈辱が渦巻いていた。腕力なら絶対に負けないはずの姉に、指一本触れられず、わずか一瞬で地面に転がされたのだ。
「力任せに振り回すだけの暴力は、強さとは呼ばないわ」
私は息一つ乱さず、冷徹に見下ろした。
「目先の快楽や誘惑に負けて、交わした約束を放り出す者を、決して騎士とは呼ばない。あなたは誇りある近衛騎士になりたいのでしょう? それとも、甘い餌に釣られて尻尾を振るだけの、ただの飼い犬に成り下がりたいの?」
「お、俺は……っ」
フロレンツの唇が震えた。泥に塗れた拳を固く握りしめ、悔しさに涙を滲ませている。
「立ちなさい、フロレンツ」
私は木刀を引いた。
「逃げ出すのは簡単よ。でも、自分の弱さを認めて、果たすべき義務を果たす者だけが、本物の強さを手に入れるの。……あなたの選ぶべき道は、どちらかしら」
弟は泥だらけの顔を伏せ、荒い呼吸を繰り返した。通用門の向こうからは、馬車の車輪の音が微かに聞こえていたが、やがて痺れを切らしたのか、遠ざかっていった。
長い沈黙のあと、フロレンツは力なく立ち上がった。私を睨みつける気力すら失ったように、ただ拳を震わせている。
「……書斎へ行く」
絞り出すような弟の声に、私は小さく頷いた。
書斎の扉を開けると、明かりの下で待ちくたびれていた家庭教師が、弾かれたように顔を上げた。
「若様……! まあ、その泥だらけのお姿は一体……」
老教師の驚愕の声に、フロレンツは身を縮こまらせた。普段なら「黙れ」と怒鳴り散らして部屋を飛び出しているところだろう。背後で見守る私の視線を感じているのか、弟はその場に縫い止められたように動けない。
私は弟の背中にそっと手を添え、低く促した。
「フロレンツ。自分の非を認めることは、恥ではないわ」
その一言に、弟の肩が小さく跳ねた。
フロレンツはぎゅっと目を閉じ、奥歯を噛み締めると、深く息を吸い込んだ。そして、信じられない光景が繰り広げられた。
「……待たせて、すまなかった」
フロレンツが、老教師に向かって深々と頭を下げたのだ。
「俺が……勝手な真似をして、刻限を破った。頼むから、今日の講義を……教えてくれ」
老教師は目を見張り、言葉を失った。持っていた羽ペンを取り落としそうになりながら、何度も瞬きを繰り返している。
「若、様……? あ、頭をお上げください! も、もちろんでございますとも! さあ、こちらへ!」
教師は慌てて椅子を引き、弟を迎えた。フロレンツは泥のついた服のまま、俯いて椅子に座り、差し出された書物に視線を落とした。
書斎の扉の外、物陰から様子を窺っていたフリーダをはじめとする使用人たちが、息を呑む音が廊下に漏れ聞こえた。
あの凶暴で誰の手にも負えなかった若様が、自ら非を認めて家庭教師に頭を下げたのだ。信じられないものを見るような、驚愕と畏怖の混ざった眼差しが、静かに私へと注がれるのを感じる。
重い扉を音もなく閉ざし、呆然と佇むフリーダたちへ小さく頷いてみせると、私は静まり返った廊下を歩き出した。
手帳に刻むべき悪癖が、また一つ削られた。だが、胸に広がるのは手応えと同時に、冷たい緊張感だった。
弟の心に芽生えた自立の兆し。しかし、この屋敷にはまだ、彼を真の自立から引き戻そうとする最大の障害が残っている。
その予感は、すぐに的中することとなった。
その日の晩餐の席。泥を落として神妙な面持ちで席についたフロレンツを見るなり、上座に座る父ディートリヒが鷹揚に笑声を上げたのだ。
「おお、フロレンツ! 聞いたぞ、夕方に裏庭で転んだそうだな。まったく、我が家の跡取り息子が、あんな瑣末な家庭教師の講義ごときで怪我をしては割に合わん。あのような学問など、将来の近衛騎士たるお前には不要なのだ。明日からは講義など適当に切り上げさせよう」
母もまた、甘やかすような笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、そうですわ。我が家の宝であるフロレンツを縛り付けるような真似は、親として見過ごせませんこと」
せっかく前を向きかけたフロレンツの青い瞳が、両親の過保護な言葉に触れて再び微かに揺らぐ。
私は銀のナイフを静かに置き、冷徹な視線を両親へと向けた。悪友の手を引かせた先にあるのは、実の親による甘やかしという名の毒だ。
この過剰な過保護を叩き潰さなければ、弟の破滅を回避することはできない。私は静かに、次なる戦いの火蓋を切る覚悟を決めていた。




