第1話
乾いた木材が空を裂く音が、朝の冷気に低く響いていた。
中庭の稽古場では、弟のフロレンツが荒々しく木刀を振り回していた。十四歳にしては均整の取れた体躯だが、その太刀筋には無駄な力みが目立つ。思うように踏み込みが決まらないのか、振り下ろすたびに青い瞳を苛立たしげに濁らせていた。
「おい、汗拭きが遅いぞ! 喉が渇いたと言っているのが聞こえないのか!」
フロレンツの怒声が飛んだ。足元に控えていた侍女のフリーダが、銀の盆を取り落としそうになりながら駆け寄る。
「も、申し訳ございません、フロレンツ様。ただいま冷たいお茶を――」
「遅いんだよ、間抜け!」
苛立ちをぶつけるように、フロレンツは足元にあった木製の片付け箱を乱暴に蹴り飛ばした。革の手入れ具や替えの木刀が、甲高い音を立てて石畳へ転がる。
「坊ちゃん、そこまでになさいませ。使用人に当たり散らすなど、騎士を志す者の振る舞いではございません」
白髪交じりの家庭教師がたまらず割って入った。だが、フロレンツはぎろりと老人を睨みつけると、その胸元を乱暴に突き飛ばした。
「うるさい! 俺の修練に口を出すな! あんたに指図される筋合いはない!」
よろめく老教師に視線すら向けず、フロレンツは「朝食なんぞ食うか」と吐き捨て、再び庭の奥へと木刀を引きずって駆け去っていった。残されたのは、散らばった道具と、青ざめて立ち尽くす使用人たちだけだった。
その光景を回廊から見つめていた私の頭蓋の奥で、何かが音を立てて砕けた。
熱病から回復したばかりの頭に、強烈な奔流が押し寄せる。それは私の知るはずのない、けれど克明すぎる『前世』の記憶だった。
現代日本で企業の人材育成と組織改善に追われていた記憶。そして、この世界の行く末を綴った物語の結末。三年後、十七歳になったフロレンツは王城の近衛騎士団へ出仕する。だがそこで、尊大で癇癪持ちの悪癖を敵対派閥に利用され、王女アマーリエの怒りを買って婚約破棄騒ぎに加担し、首を刎ねられるのだ。伯爵家は取り潰され、一族は路頭に迷う。
目の前が暗転するほどの衝撃だった。
「ははは、今日も元気だなあいつは。男児たるもの、あれくらい血気が盛んなほうが将来大物になるというものだ」
居間の扉の向こうから、父ディートリヒの呑気な笑い声が聞こえてきた。上等なガウンに身を包んだ父は、息子の横暴を頼もしさの証と取り違え、甘やかすことしか考えていない。その陰で、通りかかった従僕が「伯爵家の恥晒しが」と小声で毒づき、そそくさと立ち去っていく。
両親は息子を叱らない。使用人は陰で匙を投げている。このまま放置すれば、この家はあと三年で灰になる。
――私が、この弟を徹底的に叩き直すしかない。
冷徹な決断を下した瞬間、強烈な悪寒が背筋を駆け上がった。脳裏をよぎったのは、断頭台の冷たい刃と、血飛沫に濡れる弟の変わり果てた姿だ。
恐怖で手足が激しく震えた。胃の底がひっくり返りそうな吐き気に襲われ、私はドレスの裾を握りしめて洗面室へと駆け込んだ。
陶器の洗面鉢に張られた冷水を両手ですくい、顔へ叩きつける。氷のような冷たさが肌を突き刺し、過負荷で焼き切れそうだった意識が強制的に覚醒した。鏡に映る私は、プラチナブロンドの髪を乱し、唇を白くしている。
手の平に爪が食い込むほど、拳を強く握り締めた。皮膚に痛みが走り、震えが徐々に静まっていく。怯えている暇などない。恐怖に飲まれるくらいなら、未来をねじ伏せるための手綱を握る。
顔を拭い、息を整えて回廊へ戻ると、柱の陰でフリーダが一人、震える手で散らばった道具を拾い集めていた。
目元には涙が滲んでいる。だが私に気づくと、彼女は慌ててエプロンで顔を拭い、引きつった笑みを浮かべて頭を下げた。
「ク、クラウディア様……お見苦しいところをお見せしました。坊ちゃんは、その、朝のお稽古でお疲れなだけで……お元気な証拠でございますから」
理不尽に怒鳴られ、蹴り飛ばされた道具を片付けさせられながら、それでも解雇を恐れて主家を庇おうとしている。その姿は、かつて理不尽な環境で耐え忍んでいた前世の部下たちの姿と重なった。
私は静かに歩み寄り、フリーダの細い肩に手を置いた。
「クラウディア様……?」
「もう繕わなくていいわ、フリーダ。あなたが理不尽に耐える必要はありません」
肩の強張りを解くように、優しくその身体を引き寄せる。
「あなたの流す涙を、私はこれ以上見過ごしません。私を信じて、少しだけついてきてくれるかしら」
フリーダは驚いたように丸い目を見張り、それから小さく、確かな頷きを返した。
鍛錬場の中庭では、フロレンツが一人、荒い息を吐きながら素振りを続けていた。朝の陽光が青い瞳を苛立たしげに照らし出している。
私は足音を忍ばせることもなく、まっすぐにその前へと歩み出た。
「……あ? なんだよ姉貴。いま稽古中なんだ。邪魔すんな」
フロレンツは木刀を下ろさず、尊大な態度で私を見下ろした。以前の私なら、弟の荒々しさに気圧されて言葉を濁していただろう。だが今の私には、彼がなぜこれほど虚勢を張るのかが手にとるように理解できた。
「ずいぶんと見苦しい太刀筋ね、フロレンツ」
感情を交えず、ただ事実だけを告げるように口を開いた。フロレンツの眉が跳ね上がる。
「んだと……!?」
「振り下ろす瞬間に右肩が下がり、重心が左足に残っているわ。それでは打ち込みに体重が乗らない。手首だけで無理に振っているから、振るたびに切っ先がブレるのよ」
「な、なにを偉そうに! 女の姉貴に剣の何がわかるってんだ!」
「わからないのはあなたよ。なぜ、思うように剣が伸びないのかしらね」
私は一歩、間合いを詰めた。フロレンツが反射的に木刀を構え直すが、その切っ先は微かに震えている。
「焦っているのでしょう? 周りの期待に応えたいのに、技術が追いつかない。自分が特別だと証明したいのに、思うような成果が出ない。その苛立ちと劣等感を、自分より立場が弱く、決して刃向かってこない侍女へぶつけて発散した――違って?」
「ち、ちがう! 俺は……!」
「違わないわ。己の未熟さを直視する度胸がないから、八つ当たりで誤魔化したのよ。それは強さではないわ、フロレンツ。ただの甘えよ」
「だまれッ!」
フロレンツが顔を真っ赤にして木刀を振り上げた。激情に任せた一撃。だが、その瞳には明らかな動揺が揺れていた。図星を突かれ、己の脆い自尊心を暴かれた少年の、哀れな防衛反応だった。
私は身じろぎもせず、凛としてその青い瞳を射抜いた。
「打ちたいなら打ちなさい。ただし、丸腰の姉に木刀を振り下ろした瞬間、あなたの騎士としての誇りは完全に死ぬわ。生涯、ただの暴力的な臆病者として生きることになる」
張り詰めた空気が中庭を支配した。遠巻きに見守っていた使用人たちが息を呑むのがわかる。
フロレンツの腕が、空中でぴたりと止まった。歯を食いしばり、呼吸を荒らげ、やがて耐えきれなくなったように木刀を取り落とした。鈍い音が石畳に響く。
「……くそっ……」
少年の肩が小さく震えていた。己の弱さと歪んだ承認欲求を白日の下に晒され、反論の言葉を完全に失っていた。
「拾いなさい」
私の冷徹な声に、フロレンツがびくりと顔を上げる。
「道具を大切に扱えない者に、剣を握る資格はありません。そして――フリーダに謝りなさい」
「な……っ!? 使用人に、俺が頭を下げろって言うのか!?」
「当然よ。理不尽に当たり散らし、職務を妨害したのはあなたです。非を認め、正しく頭を下げることもできない卑怯者を、どこの騎士団が迎え入れると思うの?」
私の淡々とした、しかし逃げ場を塞ぐ正論に、フロレンツは唇を噛み切らんばかりに震わせた。何度も私を睨みつけ、助けを求めるように周囲を見回すが、誰一人として彼を庇う者はいなかった。使用人たちの目は、かつての恐怖ではなく、冷ややかな失望を湛えていた。
観念したように、フロレンツは膝を屈して木刀を拾い上げた。そして、私の後ろに控えていたフリーダの前へ、足を引きずるようにして進み出る。
「……すまな、かった」
消え入りそうな声だった。
「聞こえないわ、フロレンツ」
私が静かに告げると、弟は屈辱に顔を歪めながら、深々と頭を下げた。
「俺が悪かった! 道具に当たって、八つ当たりした! すまなかった……!」
周囲にいた使用人たちから、微かなざわめきが漏れた。あの傲慢で手のつけられなかった暴れん坊の若様が、生まれて初めて自らの非を認め、一侍女に頭を下げたのだ。
フリーダは驚きで声も出ない様子だったが、やがて震える手で胸元を押さえ、深々と一礼を返した。
「も、もったいないお言葉でございます、フロレンツ様……お怪我がなくて、何よりでございました」
その寛大な返答が、かえって弟の胸に刺さったのだろう。フロレンツは涙の滲んだ瞳で私を一度だけ睨みつけると、踵を返して脱兎のごとく屋敷の奥へと走り去っていった。
その後ろ姿を見送り、私は小さく息を吐いた。
「クラウディア様……本当に、ありがとうございました」
フリーダが涙ぐみながら頭を下げる。その瞳には、主に対する深い敬服と忠誠の色が宿っていた。この屋敷の歪みを正すための、確かな楔が一つ打ち込まれた瞬間だった。
自室に戻った私は、執務机の引き出しから一冊の革表紙の手帳を取り出した。
白紙の最初の頁を開き、万年筆を走らせる。
『三年後の処刑まで、あと一千日。直すべき弟の悪癖その一:使用人への八つ当たり――解決』
黒いインクが乾くのを見つめながら、私は冷徹に思考を巡らせた。一つ目の悪癖は抑え込んだ。だが、問題の根はまだ深い。傲慢さを挫かれたフロレンツは、今最も傷つき、承認に飢えている状態だ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、フリーダが入ってきた。
「クラウディア様。先ほど、王都の使いから若様宛ての手紙が届いたのですが……」
盆に乗せられた封書を一目見て、私の視線が細くなった。派手な家紋の蝋封。差出人の名は、ローレンツ。王都の放蕩貴族であり、将来フロレンツを悪所へ引きずり込んで破滅への引き金を引く悪友の一人だった。
手紙には、今夜フロレンツを屋敷から連れ出し、歓楽街の非合法な賭場へ誘い出す甘言が並んでいるはずだ。心が弱っている今の弟なら、その誘いに飛びつきかねない。
手帳に新たな文字を刻む。『直すべき悪癖その二:悪友との付き合い』。
時計の秒針が刻む冷たい音が、私室の静寂を満たしていた。




