第5話ー②
練習が終わり、みんながそれぞれに解散する頃には、日は葛城山に沈み、宵闇が静かに街を包み込もうとしていた。
少し気温の下がった大気の中、蜩の声が周りの森から届く。
校門をひとりでくぐり、一定の距離に立つ街灯の光のカーテンを泳ぎながら、曲川勾太【まがりかわ こうた】はスピードを緩めながら、自転車で坂道を下っていた。
街灯を過ぎる度にアスファルトをクルクル回る影は、まるでタイムマシーンに乗っているかのようだった。
―――なにも、なにも変わらない。
昨日、北越智と宇治から聞いた話を鵜呑みにした訳じゃない。
―――なにひとつ変わらずに、日常が繰り返すだけ。
父親の帰宅後、自分とはほとんど話さず、継母とその子どもたちに見せていた笑顔。
初めて勝利した試合。
―――褒めてくれることを期待していた訳じゃない。
経済的な理由で、会社を経営する父親に親権が委ねられたこともわかっている。
―――わかっている。わかっている。家族の中での自分の立ち位置は、十分わかっている。
・・・だけど、押し寄せる疎外感と孤独感は、こんなに重く感じるものなのだろうか。
坂道を下る自転車に、吹いた向かい風が前髪をかき乱す。
ペダルを止め、惰性で進みながら曲川は大きく溜息をついた。
車のヘッドライトが追い抜いて行く。
家へ帰ろうとする心が鈍る。
「久米ん家、俺も行けばよかった。」
ぼそっと言葉が漏れる。
鼻の下に浮き上がる汗を指で拭った。
と、追い抜いた車のテールランプが赤く光り、曲川の前で停まった。
ぶつかるんじゃないかと驚き、急いでブレーキをかける。
「危なぁ!」
そんな言葉も宙に消え、開かれたドアから凛としたひとりの男性が姿を現わした。
古代中国を思わせる裙襦【くんじゅ】に身を包んだその人は、目を丸くしたままの曲川の前にゆっくり近付いた。
「お迎えにあがりました。曲川勾太くん、そして手研耳命【たぎしみみのみこと】」
「私は漢請安【かん しょうあん】と申・・・」
曲川は目の前に誰もいないかのように、一度首を横にひねり、ペダルをこいだ。
「ちょっと、待ちなさい。」
無視して通り過ぎようとする曲川に、その人は慌てて手を伸ばす。
それすら見えないものとして、曲川は一気にペダルを踏んだ。
請安は唖然となり、追いかけようと急いで車に駆け込んだ。
加速していくごとに風がシャツを膨らまし、髪をたなびかせる。
「あれはヤバいって!ガチ怖いって!」
身震いをした曲川は、普段曲がらない道へハンドルをきり、更にスピードを上げていった。
――――――――――――――
気が付いた。
宇宙でもない。
闇でもない。
なんの濁りもない黒がそこにはあった。
奥行きもない。
広がりもない。
上も下もない。
手も、足も、体さえも感じない。
自分がここにいるという感覚すら、なかった。
思考もない。
感情もない。
ただ、黒だけがあった。
やがて、距離のない黒の中に、一筋の縦のラインが現れた。
細く、真っ直ぐな線。
奇妙なことに、それは周囲を照らしていない。
光ではないように見えるのに、いくつもの色に輝いていた。
もう一筋。
また一筋。
さらに一筋。
色を持った線が、次々と黒の中に現れていく。
そして突然、それらが一斉に横へ流れ始めた。
ゆっくりと。
やがて速く。
さらに速く。
縦に伸びていた線が横へ流れ、重なり、交わり、形を変えていく。
次々と不思議な色を輝かせ流れていく。
どんどん速くなる。
いつしか線は、ひし形のような形へと変わり、中央から外へ広がっていった。
速く。
もっと速く。
めくるめく色の中、
脈打つ音が生まれた。
―――そして、恐怖が生まれた。
真っ白になった。
「わぁーーーーーーーーん!!」
俺は声を上げて泣いた。
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・
「久米!!!大丈夫か!!」
勢いよく開かれた扉から、縄手が飛び込んで来た。
「また同じ夢を見てしまった・・。」
久米は何度も息を繰り返しながら、慌てる縄手にゆっくりと体を起こした。
「はい。大丈夫です・・・」
頬を濡らした涙の跡を何度も拭い、視線を合わせた。
「ホンマに無理すんなよ。」
肩に手を置く縄手に久米は頷く。
「学校には俺から伝えとくから、暫くはゆっくりしてもええで。」
縄手は膝を床に付き、視線の高さを同じにした。
「・・・・・」
その言葉に目を閉じ、久米は俯いた。
「いえ。大丈夫です。」
「お母さんのことは心配ですけど。」
「試合もあるし、入試もあるし。」
少し考えた後、久米は縄手に顔を上げ、微笑んで見せた。
「そうか・・」
と不安そうにつぶやいた縄手越しの視界に、ふと人影が映った。
「・・・え?」
久米が顔を向ける。
半分開いた扉の向こうから、木之本がこちらを覗いていた。
・
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リビングとキッチンはまるで合宿所のように、賑わっていた。
北越智と山本が大量に並ぶスーパーの袋から食材を取り出し、下準備をしている。
その食材を戒外が手際よく調理している。
買い出し帰りらしい宇治は、設定温度を最低まで下げたクーラーの下でシャツを乾かすように涼んでいる。
一緒に降りてきた木之本は、キッチンとリビングのテーブルにグラスを並べ始める。
縄手はリビングの椅子に久米を座らせた後、出来上がった料理を順番にテーブルに運んでいく。
久米の隣には、背中をこちらに向けたままスマホをいじっている葛本がいる。
何年も母と二人きりだった空間に、こんなに大人数がいてくれることが信じられない久米は、落ち着かない様子で「俺も手伝うって!」と立ち上がるが、木之本が冷えた緑茶をグラスに注ぎ「ゆっくりしといて。」と肩を軽く叩く。
「いや戒外くん、料理は大変やろうし!」それでも久米は困惑顔で立ち上がる。
「知らんの?戒外くん、高級料亭の息子やで。」
木之本が笑う。
「高級料亭やないっすよ。割烹料理です。」
菜箸を手に戒外は振り返った。
そんなやり取りの中、
「チッ、お前座っとけや。」
背中を向けたまま、視線を合わせずに葛本はつぶやく。
自分の事をかなり嫌っているんじゃないかと思っている葛本がこの部屋にいることに、返す言葉もなく、久米はゆっくりと腰を下ろした。
「そーゆう、葛本先輩はスマホいじってるだけなんですか?」
長いもを擦りながら、山本がおどけるように言う。
その言葉に葛本はスマホをテーブルに置き、
「ホンマ、おっとろしぃーのぉーーーー。」
ぼやきながら、久米が視界に入らないように立ち上がった。
テーブルいっぱいに並んだ日本料理の数々。
冷やしおでん。
肉じゃが。
季節の天ぷら。
卵を落としたとろろご飯。
そして、きれいな桜色に火の通った牛肉。
「おやじの店で出してる料理の方が、もっと美味いですよ」
そう照れる戒外の意外な一面に、誰もが驚いていた。
普段から舌の肥えている宇治ですら、美味いと頷き、店の場所をググっていた。
おいしい料理には心からの笑顔が溢れる。
次の試合の作戦を話し、誰かがくだらないことで笑う。
縄手の隣に座る久米も、いつしか一緒になって笑っていた。
昨夜の出来事が嘘のように、久米家には笑い声が響いていた。
・・・そして、そんな時は足早に流れ、みんなはそれぞれに帰って行った。
「じゃあ、明日、学校でな。」と頭を撫でる縄手を久米は見送った。
玄関の扉が閉まった。
さっきまであれほど騒がしかった家が、嘘のように静かになった。
ひとりリビングへ戻る。
テーブルには、使い終えたグラスがいくつか残っていた。
ガランとなった空間に、一気に孤独を感じてしまう。
小さく溜息をついた久米は椅子に座った。
「よかったですね、先輩。みんな来てくれて。」
残った北越智が、ホットコーヒーの入ったマグカップを差し出した。
「あ、ありがとう。」
「うん・・せやな。ちょっと元気になったわ。」
久米はそれを受け取りながら、微笑んだ。
熱さを確かめるように、少しだけ口をつける。
「北越智くんは帰らなくてもええの?」
「はい、大丈夫ですよ。」
「よっちゃんは、色々やること多いんで帰りましたけど。」
北越智は久米の向かいの椅子に座った。
肩のこりを治すように、大きく首を振りながら北越智は腕を組んだ。
「先輩、正直ひとりはキツイでしょ。」
「しばらく、自分が居ますよ。」
「俺ん家、ほとんど親が仕事でいないんで。」
そう言いながらテーブルに置いてあったコーラのボトルに手を伸ばした。
他人が自分の家に泊まった経験がない久米は困惑した顔を上げ、
「泊まるってことやな。」
平然とする北越智を見た。
「はい。そこのソファで寝ますよ。」
コーラを飲みながら指をさし、
「帰ってもええんですけど・・・先輩、怖いっしょ。」
「正直、自分もあんなん初めて見た時は、めちゃめちゃ怖かったですからね。」
「暫く、ひとりの夜は寝れんかったですよ。」
久米に向き直った。
その言葉に昨夜の出来事が脳裏に浮かび上がる。
般若に、大蛇。かかる息。肌に触れた感触。
すべてリアルだった。
母の香織が運ばれた病院で、北越智と宇治からある程度の話は聞かされた。
あんな風になったのは、日ごろの疲労が重なり、弱った心に悪霊が取り憑いてしまったんだと。
悪霊などこの世にいるはずないと思いたい反面、経験してしまったことで信じざるを得なかった。
そして、剣や呪文で戦ってくれた北越智と宇治の姿もはっきりと覚えていた。
それでも、母の容態は安定していて命に別状がないこと、すぐに回復するとの診断に胸を撫でおろしていた。
「確かに・・・・怖い。」
「でも北越智くん、本当にありがとう。」
「お母さんも、俺も助けてくれて。」
感謝し尽くしてもしきれない思いで、頭を下げた。
「そんなんやめてください!」
北越智は手を振りながら差し出し
「僕とよっちゃんの今世の使命みたいなもんですから。」
と笑う。
「でもガチで、お母さんに取り憑いた悪霊は許せんわ。」
「次は俺も逃げんとバットで戦うわ。」
久米は拳を作り北越智に見せた。
「あぁぁ・・・はい。」
北越智は「ホンマの原因は言えんなぁ・・」と苦笑いをして、視線を外しながらポケットの中に押し込んだディアナ・カヴァースからの手紙を確認した。
「それにしても、宇治さんと付き合ってたんや。」
「なんかええな、恋人同士でなにかを成し遂げるって。」
ふたりの関係も聞いていた久米はマグカップに口を付けた。
そんな言葉に
『また甘いこと言い出しとるわ、こいつ』
と顔を反らし白目をむいた北越智は
「ですね。先輩ちょっと羨ましいでしょ。」
「公園の駐車場で俺らのこと覗いてましたしね。」
意地悪く言った。
ブッッッッーーーーー
久米は思わず口の中のコーヒーを、北越智に向けて吹き出してしまった。
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