第4話ー②
濡れた髪をタオルで拭きながら、グレーのスウェットハーフパンツとTシャツに着替えた縄手章畝は、リビングルームへ深い溜息と共に足を踏み入れた。
大阪市内にある、このエリア最高層のタワーマンションの最上階から二番目のフロアの一室。
ここから見渡せる街の風景は、縄手にとって相変わらず別世界のように思えていた。
「おいおい!本当にそんなんじゃないから!」
斎部優耳は、柔らかめに茹で上がったパスタをトマトソースに絡め、深めの皿に盛りつけながら、すっかり意気消沈してしまっている縄手に視線を合わそうと顔を向けた。
目を合わさないまま、「わかってる」と同意するように大きく頷きながら近づいた縄手は、カウンター上に置かれてある、出来上がった鶏手羽元のレモン焼きを乗せた木製の器を手に取った。
「本当に僕ちゃんを脅す目的で会った訳じゃないから。」
人生初の野球監督としての一日が、いかに波乱に富んでいたかを興奮気味に話す縄手に、以前に斎部が仕事で橿原を訪れた際に、たまたま久米に会ったことを話した。
その後から縄手の口数が一気に少なくなってしまった。
「俺の行動が、優耳を不安にさせてしまってるのは、ほんまに反省しやなあかんとこや。」
自分に言い聞かせるように呟く縄手に苦笑いを見せ、斎部は空になったフライパンをシンクに置き、盛り付けた終わったパスタを手に取った。
「いや不安も、なんとも思ってないって。」
「僕ちゃんに章畝をとられてしまうかもって、私が嫉妬してるとでも?」
その言葉に歪んだ笑顔を見せながら、目を逸らしている縄手の姿に、「なんて可愛い奴。」と口元を緩めながら、テーブルへ進み皿を置いた。
「俺は優耳とずっと一緒におりたいんや。そもそも俺は・・・・・ゲイとちゃうし・・。」
ぶっきら棒に言葉をつぶやきながらそれでも、最後は脆い自信なのか、気力ない発言になってしまった。
ズッキーニやナスなどの夏野菜をトマトソースで絡めたパスタを、腰を下ろした縄手の前に差し出しながら、
「ホンマに心配せんといって。偶然会っただけやから。」
斎部は少し微笑み、麦茶に手を伸ばした。
その笑みに、疑心暗鬼に口をへの字に曲げながら、「いただきます。」と手を合わせた縄手は、フォークに巻き付けたパスタにがっついた。
だけど縄手には、斎部に到底伝えられない久米への気持ちや、行いがあることは確かだった。
それは自分でも理解できないほど、優しいものへと変化している。兄弟愛に近い感情だと自分に言い聞かせてはいるが、自信がない。
久米をホテルで抱きしめたこと、手を繋いで下校したこと、その時に伝わった久米の感情に応えていた自分の感情は、あとから冷静になって考えようとすればするほど、強烈に否定してしまわないといけない思いになる。
だけど、すべてを否定することはできない。どこまでなら許せて、どこから拒否するのか。その境界線に確信が持てないままだった。
そんな揺らいだ気持ちの縄手の中で、ハッキリしているのは教師と生徒の関係であるということ。
そして、自分には斎部優耳という婚約者がいて、永遠でありたいと強く願っているということ。
今、自分の目の前にいて、手を伸ばせば触れられる距離にいて、まだまだ頼りがいがない自分だけど、一生命を張ってでも守りたい存在がそこにはあるということ。
その人を傷つけたくはないし、悲しませたくはない。
だから、なんとかなって、なんとかしようとしている久米の思いを、いつかは拒否しなければならない。
事故のないように、次は慎重に。
もし、万が一、久米への自分の気持ちが恋愛だったとしても、優耳と共に生きていく未来を選択する・・・・・・。これが自分の答だ。
縄手は斎部に「やっぱり美味い!」と笑顔で伝えながら、麦茶に軽くまばたきと共に手を伸ばす。
久米がヒットを放ち、出塁して見せたあの笑顔と、自分に向けた最高のガッツポーズが閉じたまぶたにまだ強烈に焼き付いていた。
縄手は口の中でかみ砕いたパスタを飲み込みながら、胸につかえるものを一緒に流しこむように麦茶を口に含んだ。
・・・・・・
そんなつもりじゃなかった。
思いつきの行動で久米と会っていたことは、言わないでおくはずだった。
そもそも、あの時なぜ自分の足が橿原に向いていたのかわからなかった。
なんの変哲もない、ただの高校生に自分の無意識を揺らされていることに、「もう、歳かな」と斎部は小さく溜息をついてしまう。
縄手が今日一日の出来事を機嫌よく話していたのにも関わらず、それを邪魔してしまったのは間違いなく自分だ。
何故このタイミングでわざわざ言わないでおこうと思っていた出来事を、引っ張り出してしまったのか。
縄手が久米の名前を出す度に、敗北を身近に感じてしまうのか、嫉妬してしまっているのか。
特に今日の縄手は普段以上の笑顔と、大袈裟なジェスチャーでやけに楽しそうだった。
斎部はフォークに刺したズッキーニとナスをソースに絡めながら、縄手に悟られないように
「この私がふりまわされている・・・・。」
産婦人科の受診予約や、イスラエルへの赴任準備、次々に発生する懸案事項に少し疲れているからだと自分への理由にして、小さく溜息をついた。
ズッキーニとナスを口元に運びながら、「美味い!」と伝える笑顔の縄手に「でしょ!」と瞼を閉じて頷いてみせた。
斎部の脳裏に、あの日の場面がよみがえる。
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「縄手章畝先生と、幸せになりたいです。自分は縄手章畝先生の事を本気で愛しています。」
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まっすぐで穢れのない視線で見つめていた久米の顔が、頭の整理ができていない斎部の瞼の裏に浮かび上がる。
それは遥か昔に捨て去ってしまった青春の幻影のごとく揺れる。
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「はい。あなたから奪ってみせます!」
全身全霊で、それでも不安を隠し切れない久米の視線が届く。
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「まただ・・。私はあいつをどうしたいんだ・・・」
斎部は口の中でかみ砕いたズッキーニとナスを飲み込みながら、胸につっかえる複数のものを、強制的に流しこもうと、麦茶を口に含んだ。
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―――「え?ってことは、北越っちゃんには山村正貫【やまむらのまさつら】さんって人がいて、宇治さんには教科書にも載ってる藤原頼道【ふじわらのよりみち】さんがいるってことっすか?」
曽我川沿いに立つログハウスの喫茶店で、キツネにつままれたような顔の曲川はテーブルを挟み座るふたりを交互に見た。
「んで、俺にもおる・・・それがあの神社に祀られてる人の子どもの手研耳【たぎしみみ】って人?」
「だから、変な気持ちになって泣いてしまってた・・・。」
その言葉に北越智は小さく頷いた。
「なんやねん。そんなホラーみたいなインチキ霊感商法みたいな・・・・てか誰やねん、タギシミミって。」
「・・・後で調べやな。」
曲川はいつまでも真剣な表情を崩さない北越智から視線を外し、あきれ顔でミックスジュースを手に取りストローを咥えた。
「いやー先輩、でもこればっかりは、ガチなんで・・しゃーないんですよ・・・。」
北越智は同意を求めるように、隣に座る宇治を見る。
「曲川くん。最初は戸惑うことが多いけど、今までにない感情や思考が沸き上がってきたり、ありえないものが見えてくると思うんです。それが証拠です。」
どう説明したらいいのかわからないまま、宇治はため息交じりに腕を組んだ。
ストローから口を離した曲川は視線をふたりに戻し、大きく息を吐いた。
「そう言われたら。わからんでもないですが・・・」
「さっきも、気付いたらあそこに来てましたから・・・」
腕を組む宇治の筋肉のデカさに圧倒されながら、丁寧語が零れた。
喫茶店に流れる音楽がテーブルの上をゆっくりと通り過ぎる。
「じゃあ・・・・俺はそのタギシミミって人に乗っ取られるってことですか?」
少し不安になった曲川は上目遣いに見た。
「いや、大丈夫です。僕たちが僕たちであるように。先輩も先輩のままです。ただ・・・」
北越智は微笑みながら口元を歪ませ、
「グレードアップした曲川先輩になった、って思ってもらえたらいいかもです。」
身を乗り出した。
「グレードアップ???はぁ・・・。」
安心させようとしてか、少しおどける北越智に余計に不安になった曲川は、宇治に視線を合わした。
「いやでも、言い方は軽いけど。間違えてはないかな。」
腕組みを解き、宇治はアイスティーを一口飲んだ。
「そうなんですか・・・。命に関わることやなかったら、なんでもええっすよ。よーわからんけど・・・・」
諦めたように脱力状態で背もたれに体を傾けた曲川は天井を見上げた。
「ただ、取説やないけど、注意しておいてもらいたいことがあってやね・・・。」
宇治は隣でコーラフロートのアイスクリームを頬張る北越智と目を合わせ、椅子に座りなおした。
「はぁ・・・。」
その言葉に曲川も視線を戻した。
「心のままに動くんやなくて、一呼吸して、僕だったらこうしていたはずとか。」
「充分に心と対話してほしい。」
「そしてどうするか、決めてほしい。」
宇治はテーブルに置いた手のひらを握り合わせた。
店のドアチャイムが揺れ、冷房の効いた空間に外の空気が流れ込む。
それにつられるように、グラスの氷が軽い音を立てた。
「・・・うん。はい。」
曲川は、
――それは行動には責任が伴うってことやろ。ふつうやんけ。
と胸の中で呟いた。
だけど同時に、試合中に久米の手を払いのけてしまったこと。
そして、気付けば嗛間神社の前で涙を流していたことが脳裏をよぎっていた。
少し考えるように黙りこくった曲川は深い溜息をついた後、
「・・・・ぶっちゃけ、俺らみたいな人って多いんですか?」
気分を変えるように、話題を反らした。
「うーーーん。どうなんやろ?よっちゃんはそうゆうのに敏感やけど、俺はわかる時とわからん時があるからなぁー。」
北越智はコーラをストローで一気に飲み、宇治に顔を向けた。
「実際、どうなんやろな。」
宇治も不思議顔の北越智に視線を合わせた。
「じゃあ、おふたりはどうやってわかったのですか?」
ミックスジュースのグラスの水滴を、指で払いながら曲川は眉を動かした。
「あーー、ここはちょっと特別やなぁ。」
そう言って北越智は笑う。
「せやな。俺らはなぁ。」
宇治も笑う。
「え?どういうことですか?」
困惑顔の曲川は身を乗り出す。
「まあ、今でいう・・・」
「はい。」
「千年前、俺らは恋人同士やったしな。」
宇治は力を抜き隣に座る北越智に微笑む。
「え?幼気な子どもの俺を手籠めにしてただけちゃうん?」
北越智はわざと大きく舌を出して笑った。
「その子どもの方が積極的やったやろー。」
「うーーわ。そんなこと言う?今やったら即逮捕やで。」
「え?は???」
「ゲイ?なんですか?」
「ここも??・・・」
あっけらかんとアウティングするふたりに曲川は固まった。
「ははっ」
最後に苦笑いをする宇治は
「まあ、今でいうゲイと昔の関係性はまったくちゃうしなぁ。」
「でも、少なくとも過去の因縁は関係してると思う。」
一旦間を置き、少しまじめな顔で
「やから、初めて会った時、俺らは二人とも『あっ!』ってなったしなぁ」
北越智に顔を向けた。
「そこの話し始めると長なるから、また別の機会やな。」
そんな宇治の言葉に
「俺らはネバーエンディングストーリーやからなぁー。」
「ファルコーーーン!」
北越智は拳を天井に上げて微笑んだ。
曲川はお道化る北越智の姿に
「うわぁーこいつ、学校と全然ちゃうやんけ・・・」
「北越智のこと、久米も知っとるんか?」
心の中でつぶやいた。
「・・てか、ファルコンってなんやねん???」
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