第2話ー⑥
橿原神宮前駅まで小走りに駆けてきた縄手と久米は、増え始めた人の数に駅前ですれ違う人、立っている人、人と言う人の目が気になり、電車を諦め二人タクシーで帰宅することにした。
脳裏に焼き付いた最後の睨む視線が、何度も恐怖を送り付けて来ていた。
今までにない疲労感で玄関のドアを開けた久米香月に、食欲をそそる、とてつもなくいい匂いが届く。
先ほどとは違う、全く別の重さが香月の両肩に圧し掛かってくる。
どこにいても自分の居場所がない。
さっきまでタクシーの中で、縄手先生の隣に座っていた時間が唯一の天国のようだった。
「ただいま…。」小さく呟き、野球用の洗濯籠に土で汚れたユニフォームを入れ、久米香月は母と目を合わさずにそのまま自室へ向かった。
ーーーまたこんな時間が始まってしまった。
ベッドに置かれた、アイロンがあてられ、綺麗に畳まれた背番号入りのユニフォームが、明かりをつけた部屋に白く光る。
ーーーわかってる。自分を今までたった一人で育ててくれたことはわかってる。
どれだけ苦労を掛けていたか、想像するまでもなくわかってる。
自分ではなかなか落ちない汚れたユニフォームも、
どんなに疲れていても、こんなに白くなるまで洗ってくれた。
だけど母の望む姿になるのは違う。
本当の自分を殺してまでも、母の望む姿を演じ続けるなんてできやしない。
もし演じたら、きっと母を恨んでしまう。
母を嫌いになってしまう。
母の事は好きでいたいし、いつかひとりで旅立つ時に感謝していたい。
だからこその思いだ。
ー
ー
キッチンから呼ぶ声がする。
夕食の準備ができた。
「いただきます。」母の香織と向かい合って座り、香月は目を合わせることなく冷えた麦茶を一口飲んだ。
湯気のたつ白米が盛り上がったどんぶり鉢を、大きく口を開けながら持ち上げた。
いちいちと言ってもいい程、綺麗に皿に盛りつけられた料理は、
おいしく食べて欲しいとの母の願いが感じられていた。
ーーーーわかってる。十二分に届いている。だけど・・・
そうされるほど苦しくなる香月は無口なまま、本当においしい夕食を頬張り続けた。
母の香織も、何も言わないまま箸を料理につける。
茶碗をテーブルに置くたびに、カツンと音が響く。
頬張る時の息遣いまでもが鼓膜に届く。
静かすぎる食卓。
こんな状況も母が望んだ家族の姿と違うこともわかっている。
俺ですら望んでいない。
少し前なら、部活の話題に始まり、学校での話へと広がり、食後には母と共に食器を洗ったり、お茶を飲んだりと和やかな雰囲気のまま自室に戻っていた。
ーーーもう、あんな日々は戻ってこないんだろうか。
箸を持つ手をテーブルに落とし、うな垂れてしまう。
ポツリと母が口を開いた。
きっと同じ思いだったのかもしれない。
「口に合わなかった?」
目を覚ましたように、ハッとした香月は母の香織に一瞬、目を向け、
「おいしい・・ありがとう。」
崩れそうな笑顔で頷き、香月は箸を持つ手を上げた。
「明日の試合、頑張ってね。」
白米を口にする香月に、香織は優しく言葉をかける。
「うん。頑張る。」
会話を続けたい母の気持ちに逆らわず、香月は頷いた。
「本当は応援に行きたいんだけど・・・。」
「・・うん。明日は勝つから、次でもええし。」
高校に入学してから、公式戦では一勝も経験していない香月の口から、勝利を断言した台詞に香織は驚き微笑む。
「大学に行っても、やっぱり野球は続けるんでしょ?好きやもんね。」
「うん・・・どうかな?」
曖昧に答えながら、母の香織に違和感をおぼえる。
懇談会で見せた母の鬼の形相。完全に自分を病人とし、否定していたあの姿から、湯呑みを両手に、微笑みかける今の姿と繋がらなかった。
「大学、どこ行きたいか、決めてるの?」
「う・・ん・・」
「野球ひと段落したら、夏季講習でも行く?」
「う・・ん・・」
「本当に成績上がったもんね、お母さん嬉しいわぁ。」
「う・・ん・・」
ただ「うん。」と頷くだけの自分に、語りかける。
「香月は他の事に気を取られていないで、今は目標に向かって頑張ってね。」
最後のエビフライに箸を伸ばした腕が止まる。
「他の事ってなんやねん。」反発する言葉が零れそうになるも、今のこの場を乱したくない気持ちが勝り、耐えるように頷きながら箸でエビフライを箸で突き刺した。
「そう言えば、マクドで働いてる高田さんの娘さん、おめでたなんだって。」
「ふーん。」とエビフライの尻尾を嚙み切る。
「おばあちゃんになるって、どんな気持ちなんやろね。」
香織は視線を湯呑みに落とし、両手でクルクル回す。
何も答えられないまま、麦茶で口の中の脂を流し込んだ香月は、母が描いているであろう、幸せな家族のイメージに気付かないふりをするも、
「お祝い、何がいいかな?」
言葉を続ける母の存在に、耐えられなくなってしまった。
嫌味なのか、素直な思いなのか母の本心がわからなくなった香月は「ごちそうさま」と立ち上がった。
そして手早く食器を洗い、逃げるように自室に駆け込んだ。
力尽きるように倒れこんだベッドの上、香月はどうしょうもない気持ちに叫び出しそうになりながら、枕に顔を深く埋めた。
ーーーわかってる。
一人っ子の自分がゲイであることは、母に孫を見せてあげることは難しい。
子供を抱かせてあげることもできない。
せめて兄弟がいてくれていたら、まだ救いがあったかも知れない。
だけどいない。
わかってる。わかってる。
だけど、どうしようもないんだ。
ごめんなさい。お母さん。
自分に嘘を付いて、誰かと結婚して子どもを持つことは、がんばれば出来るだろうけど、きっとおやじと同じ道を辿ってしまう。
おやじはどんな気持ちで、俺をこの世に誕生させたのだろう。
本当に家族ごっこをしたいためだけに俺をつくったのだろうか。
偽りの家族じゃ、やっぱり誰もが幸せになれないと思う。
こんな自分に生まれてしまって、本当にごめんなさい。
無理です。
ごめんなさい・・・・
久米は起き上がり、机の右上の引き出しを開けた。
奥から取り出した、中学の技術の授業で作った木製のペンケース。
そっと蓋を開ける。
中に敷かれたハンカチの上には、東京から持ち帰った父親の遺骨の破片が眠っていた。
「俺、早く卒業して、働いて、家を出るよ・・・・。」
香月はポツリ父につぶやいた。
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