第2話ー③
不安と苛立ちを消化しきれないまま、戒外興文は自宅へ自転車を走らせていた。
夕日に照らされた久米の笑顔が、妙に目に焼き付いて離れなかった。
―――なんでそんな幸せそうな笑顔ができるんや
アスファルトから、日中に目一杯ため込んだ熱が沸き上がってくる。
背負ったバッグのせいで、余計にかく汗は背中にシャツを張り付かせる。
通いなれた道を渡り、通いなれた橋を越え、見慣れたドアを開ける。
そこには見慣れた光景が広がって、見慣れた家族がいる。
夢を追いかけ東京へ行っていた姉貴が子どもを連れて帰ってきて、もう数年。
割烹店を営んでいる両親が、そんな姉貴に時々見せる視線が冷たく感じる。
そんな両親も、夜中に金銭のことで言い合っているのを知っている。
―――夢なんか追っかけるもんやない。普通が一番ええんに決まってる。
ジワリくる気持ち悪さは、さらに戒外をどうしようもなく苛立たせた。
とりあえず早く家に帰って、風呂に入りたい一心で、さらにスピードを上げた。
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久米が重ねた手のひらに縄手は少し戸惑いながら、辺りを見回すように少し振り返る。
外灯に照らされた二人の影だけが、足音と共に揺れる下り坂。
小さく咳払いをしながら、縄手はその手にゆっくり力を入れ、お互いの指を絡めた。
久米はゆっくりと夏夜の匂いを吸い込んだ。
虫たちの鳴き声が優しく降りかかる。
俯いたまま微笑んだ久米は
「俺、ガチで幸せっす。」
小さくつぶやいた。
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ベンチに座りペットボトルに口をつけ、コーラを飲む北越智は、夜空を眺める宇治の筋肉の盛り上がった広い背中を黙って見つめていた。
頭上の大パノラマは駐車場の外灯で鮮明に見えないが、街中で見るよりは遥かに美しく星々が描き出されていた。
気が付けば、つい先ほどまで辺り一面に満ち溢れていた虫たちの声が、ピタリとやんでいる。
宇治はゆっくり振り返り、真剣な眼差しを北越智に見せた。
「おかしい・・。何か来るで。」
ペットボトルから口を離した北越智も何度か小さく頷き、目だけで辺りを確認しながら、立ち上がった。
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信号待ちでスマホを手にした戒外は、届いていたメッセージを開いた。
曲川先輩から「戒外は今までの中で一番のバッテリーや!心配すんな、俺の球だけ見とけ。」的な激励だった。
フッと口元が照れくさく緩む。
「なんやねん、マメな先輩やなぁ。全然、曲がってへんやん。」
つぶやき、青に変わった信号に目を向けた。
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普段帰宅時に通る県道三十五号線が、やけに交通量が多かったので、曲川は曽我川を挟んで西側の空いた道を南へ進んでいた。
建物も少なく開けているが、少し寂しい雰囲気に、肝試し感覚になってしまう。
「戒外ってホンマに素直とちゃうよなぁー。なんでもできやな、気が済みよらんし。」
ブツブツ独り言をつぶやき、ペダルを踏む。
「気分上げといたら、あいつええ判断しよるしなぁ。」
視野が広がり、賢明な判断ができている姿を想像しながら、明日のシミュレーションをする。
曲川も高校生最後の試合で、一勝はあげたい気持ちだった。
思えば父親の影響で小学生低学年から始めた野球には才能がなく、レギュラーになれた試しがない。
それでも、青春ドラマのような感動にいつか出会えるんじゃないかと、心のどこかで期待し今まで続けてきた。
だけどそれも、この夏が最後。
だからせめて、一回戦は突破したい。
そのためにはバッテリーを組んでいる、戒外の調子を上げておきたかった。
別れてすぐにメッセージを送ったのもその為だった。
曲川は左側に用水路が流れる、道幅が狭い路地に自転車を進めた。
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繋いだ手のひらでお互いの気持ちを確かめるように、何度も力を入れたり、抜いたりを繰り返しながら、二人は坂道を歩いていた。
一定の距離に立つ街灯の光のカーテンをくぐる様は、まるで二人だけの世界へ旅立っていける滑走路のようだった。
足元をクルクル回る二つの影は、寄り添い、永遠に同じ時間を刻むように見えた。久米はその様子を見ながら、目を閉じ、手のひらから伝わる縄手の温もりに安らぎを感じた。
街灯の光のカーテンをまたひとつ潜る。
突然、背後からヘッドライトが近づく。
不意に繋いでいた手がほどかれ、久米を側道側へと隠すように縄手の体に当たった。
通り過ぎる車を見送ろうと立ち止まった二人の横で、その車はスピードを落とした。
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戒外は交差点の信号が変わった様子を、目の上で一瞥し、
スマホの画面に視線を落としたまま、ペダルに力を込めた。
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曲川は明日の試合で勝つイメージ膨らませるように、ハンドルから手を離し、得意のカーブを投げるジェスチャーをした。
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久米は手をほどかれたことに、少しショックを感じていたが、更なる衝撃が襲った。
通り過ぎるだろうと思っていた車が、立ち止まる二人の真横で止まった。
まさかの事態に冷汗が滲み出る。それは縄手も同じであった。
押し寄せる不安が顔面を蒼白にさせる。
―――そんな二人にパワーウィンドウが降ろされた。
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戒外は進み出そうと、体を前に倒し体重を移動させる。
車の流れが動き出す。
進みだす交差点で、ヘッドライトが急速に右側から近づいた。
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あまりにも突然で一瞬の出来事だった。
衝撃と共に体が宙を舞う。
スローモーションのように、街灯の光が目の中で回る。
訳がわからないまま、自転車の倒れる音が、鼓膜の端に届く。
浮かび上がった体が、重力に引かれるように落下していくのがわかる。
「ヤベッ‼」
こんなにゆっくりになるのかと感心するほど、地面に体が叩きつけられるまで時間がかかったような気分だった。
ドッシャ!!!
痛みなくぶち当たる感覚と同時に、水しぶきが舞い上がる。
うつ伏せになった体を、水路の水が頭から濡らしてゆく。
立ち上がろうと曲川勾太は体に力を入れようとするが、全く動かない。
自由のきかない体に焦りが募る。
「ヤバい。ヤバい。どうしよ。」
目、鼻、口の中に、用水路の流れが容赦なく襲い掛かる。
息をしようとも、水が気管を塞ぎできない。
「どうしよ・・・・どうしよ・・・・・」
瞼も動かせない。
視界が外側から徐々に暗くなっていく。
「ヤバい・・・・だれか・・・助けて・・。」
曲川勾太は薄れゆく意識の中、声にならない叫びをあげていた。
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