第6話
寺坂は「チッ、つまんねえの」とぼやくと、ちほさんの両腕を片手だけで抑えて、
もう片方の手で俺の額を殴った。
生まれてこの方、喧嘩なんてしたことがない。真正面から拳を受けた体は、回避も防御もすることができず床に敷き詰められたマットの上を転がった。
顔の左半分がジンジンと痛い。ボタタと手の甲に鼻血が垂れた。
「じゃあテメエはそこでマスってろよ。こっちはこっちで楽しむからさ」
「いい加減にして!」
ちほさんが体を大きくよじる。
ばたつかせた足が秘部を拝謁しようとしていた骨川の鼻頭にあたる。
ブエッと虫みたいな声を出して彼の体は吹き飛び、壁に頭を強打した。
「なにしやがる……!」
寺坂が顔を歪ませて拳を握りしめたとき————
「——テメェこそ、なにしてんだ」
人一倍、重い声がプレハブ小屋に響いた。
腹の底が震えるような重い声。
寺坂が顔を上げたところには増倉さんがいた。暗くて彼がどんな顔をしてるかわからないが、顔を寺坂の目と鼻の先まで近づけている。
「なにやってんだって聞いてんだよ」
「なにって……楽しいことだよ。あぁ、増倉も一緒に——」
増倉さんの蹴りが寺坂の横ッ面にクリーンヒットした。
ちほさんに馬乗りになっていた彼は横に飛び、俺のところまで転がってくる。
「そんなヤツとは思わなかったよ、寺坂」
増倉さんがこちらへ歩いてくる。
寺坂は起き上がると、俺の方に見向きもせず自分を蹴った相手を見上げた。
「なに邪魔すんだよ。リーダーぶりやがって……。気持ち悪ぃんだよ!」
怒号が響く。
「みんなもわかってんだろ。どうせ俺たちは死ぬんだ。それなら最期に女を好き放題犯してなにが悪い!」
後ろから見ていてもわかるほど、寺坂は唾を飛ばしていた。
「それに知ってんだぜ!」
間髪入れずに捲し立てる彼は、ちほさんを指さした。
「お前、AV女優の加藤フユリだろ?」
時が止まった気がした。真っ暗なプレハブ小屋には寺坂の息遣いしか聞こえず、それ以外は何も音がしなかった。
心臓がギューっと締めつけられる感じがした。
ちほさんが、加藤フユリであること。
それは言ってはいけないことだ。彼女が舞台俳優だと嘘をついたのは、AV女優であることに何かしらの後ろめたさを感じていたからだ。もしかすると文人や俺などの未成年者に対する配慮だったのかもしれない。
なのに、そんな彼女の気配りを粉々にするなんて……。
俺はちほさんを見た。薄暗くてよく見えないが、ちほさんは俯いて、肩を震わせているようだった。
空気の読めない寺坂の発言は続く。
「今までたくさんの男と寝てきたんだろ。だったら俺らとヤったって変わんねぇだろ!」
「おまえ……」増倉さんが蹴りの構えをするが早いか、
「ふざけんな!」
ちほさんが声を上げた。
「わたしだって、好きで男と寝てんじゃない!」
吐き捨てるようにいうと、彼女は立ち上がって「外」と書かれた引き戸を開けた。
「ちほさん!」
鼻血を拭いながら立ち上がる。
開けっぱなしの扉の前まで行って、俺は振り返った。
「増倉さん!」
彼が頷いたのを確認すると、俺は「外」に向かって駆け出した。
* * *
プレハブ小屋には二つの出入り口がある。
一つは「内」。そっちに行くとトタンに囲まれた空間に出る。
もう一つは「外」。ここを開けると、外に出ることができる。
針葉樹が乱立する雑木林がどこまでも続いている。ここを走り続けたらもしかしたら脱出できるかもしれない。そんな希望をプレイヤーに抱かせる。
けど、それはまやかしだ。
ヤードを取り囲むように数人のスナイパーが配置されていて、常に俺たちを観察しているからだ。ソースは〝掲示板〟。俺自身は見たことがない。
彼らは俺たちが一歩でも〝境界〟と呼ばれる線を越えると頭を撃ち抜いてくる。事実、増倉さんが〝掲示板〟の真相を確かめようとしてやられた。この〝境界〟がどこなのか〝先人たち〟の間でも意見が分かれている。スナイパーの裁量に任されているのかもしれない、と増倉さんは言っていた。
小屋を出て、雑木林を走る。
外は暗く、背後のヤードからの明かりだけが頼りだった。
ちほさんの名前を呼びながら走ること3分。木の幹にもたれるようにしゃがみ込む彼女を見つけた。
「ちほさん、よかった」
彼女が顔を上げる。大きな黒目を内包した瞳からは大粒涙が流れていた。
「ちほさん……」
「ごめんね、あんなところ見せて……」掠れた声でいう。
「そんなことないです……」
「わたし母子家庭でさ、夏目くんと同じかそれより下の弟が3人いて、母は病弱で仕事を休みがちだからわたしが支えなきゃって……中学卒業してから働いて、18になってこの仕事が稼げるって言われて……」
涙を拭いながらちほさんは無理やりはにかんでみせた。暗い雑木林で見るその顔は、どのビデオでも見たことがない胸が締め付けられる顔だった。
「バカだよね。お金は稼げたけど家族には白い目で見られるし、会ったらヤらせてくれるってレッテル貼られるし……。なにやってんだろう、わたし……」
俺の両親は子供の頃、事故で亡くなった。けど、引き取ってくれた叔父叔母は俺を本当の息子のように大切に育ててくれた。仲もいい。
クラスのやつや部活の仲間も片親の人とか、体を売らないと生きていけない人は聞いたことがない。そういう人がいるっていうのは知ってたけど、画面の奥にいるファンタジーの存在だった。
きっと、俺は恵まれていたんだと思う。だから、彼女に対してかけてあげるどんな言葉も上から目線になってしまう気がした。
じゃあ、どうすれば……。
ふと、初めてちほさん——加藤フユリを見た時のことを思い出した。
「じ、実は、俺も……知ってました」




